時間:10時30分~
井上 良作 牧師
聖書=イザヤ書53章5~12節
ルカによる福音書23章32~43節
讃美=讃美歌21-204番、讃美歌21-326番、
頌栄=讃美歌21ー24番
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
当日のライブ中継のリンクは、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
イエス・キリストが十字架にお架かりになったとき、ゴルゴタの丘の上には別の二本の十字架が立てられていました。今日キリスト教のシンボルである十字架は三本並んでいました。真ん中にイエス、その両脇に二人の犯罪人が十字架に架けられました。人々はくじを引いて、イエスの服を分け合いました。民衆はただ傍観していました。議員たちはイエスをあざ笑って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ」。警固していた兵士たちも侮辱して言いました、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。イエスの十字架のそばまで付いて来ていたのは、母マリアと数名の女性たちのみで、弟子たちは一人もおらず、誰もかれもがイエスを侮辱し嘲笑していました。
両脇の犯罪人たちは、どうだったでしょう。彼らも同じようにイエスを罵っていました。共観福音書では、マタイとマルコがほぼ同じようにこの出来事を伝えています。
・ 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった』
(マタイによる福音書 27 章 44 節)
・ 「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。』(マルコによる福音書 15 章 31b・32 節)
しかし、ルカだけは異なる報告をしています。
・ 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」』
(ルカによる福音書 23 章 39~41 節)
ルカは、犯罪人のうちの一人の内面の変化を見逃さず、これを伝えました。死罪に当たる重罪を犯した人間ですから、おそらく、この犯罪人は人を人とも思わないような身勝手な生き方をしてきたことでしょう。しかし、彼の人生の最後の最後に、イエスと出会い、生涯ではじめて本心に立ち返り、自分を省みることができました。この一大変化はいったいどこから来たのでしょう。そして、彼は続けて言いました、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42 節)。聖書には、「主を信じる者は、だれも失望に終わることがない」、また、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」という言葉があります。(ローマの信徒への手紙 10 章 11~13 節)これらの言葉は、真実なのでしょうか。礼拝でさらに詳しく見てみましょう。