「わたしにつながっていなさい」
説教:稲山聖修牧師聖書:『マタイによる福音書』16章13~20節
讃美歌:85(1,2節), 249(1,4節), 539.
説教メッセージ動画は、「こちら」をクリック又はタップしてください。
わたしたちの暮しは、責任を伴う生き方とともに、責任の所在が不明瞭ながらも流布するところの風評とは無関係ではおれません。「人々はこう見ている」「世間はこう見ている」「みんなこう言っている」。日本社会ではまことに強い同調圧力。この力にはときに抗わなくてはならないと腹を括る一方で、そのような覚悟を問われる、実に侮れない力が頑としてあります。自分のあり方への深い確信より、みんながどう見ているのかという「世間体」による不安に苛まれるのは、わたしたちに限ったことではありません。風評の中で苦しみを味わうのは、常に少数者であり、貧しく、落ちぶれ、虐げられた上に排除された人々であり、その列にはイエス・キリストのあゆみも連なっていました。
人の子イエスは、フィリポ・カイサリヤ地方に行ったとき、弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった、と『マタイによる福音書』にはあります。人の子イエスもまた、風評の中で苦しみを味わわれました。カイサリアという地方には必ずローマ帝国の軍隊の駐屯地や派遣された役人の家がありましたから、ときにその風評の中で疑いをもたれる人々もいたことでしょう。人の子イエスの問いかけに、多くの弟子は的外れな答えをいたします。「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」という噂を伝えるだけであり、「あなたがたはわたしをどう思っているのか」という問いまでには注意がいたりません。「先生、人の噂などどうでもよいです」と言葉を遮り、イエス・キリストに癒された人々のように深い平安と確かな信頼に満ち、「あなたは救い主です」との言葉を口にはできませんでした。この弟子たちの姿勢にはイエス・キリストとの超えがたい距離を感じずにはおれません。確かにそこに関わりはあります。しかしそれは霧の中にあるようにぼんやりとしているのです。
そのような中でただ一人、毅然として宣言する者がいました。それは漁師の身の上であり、教養とも関わりのなかった弟子であるシモン・ペトロ。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間はなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。このようにイエス・キリストはまことに大きな権能をペトロに授けます。しかしこの権能を委託した直後、イエス・キリストが自らの殺害と復活を語り始めるや否や、ペトロは「そんなことがあってはなりません」と諫め始め、この委託とは正反対の叱責を受けてしまいます。「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』」。同一の物語の中で、ペトロは「あなたは幸いだ」と祝福を受けながら、同時に「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」との叱責を受けるのです。一体どちらがまことのペトロの姿であり、そしてペトロに象徴されるところの教会の姿なのでしょうか。
神を見失っているとき、わたしたちは世の噂や風評ばかりに依り頼みがちです。その場合、わたしたちは人の声に臆するばかりで新しい道に足を踏み出す勇気を失くします。神の愛の開拓者への道は遠くなってしまいます。教会から、神を畏れ依り頼む態度が失われるならば、噂に流される人々の不甲斐なさがまことに鮮やかに浮かびあがり、隣人を慈しむ思いさえも、党派心や分断へとつながりかねません。その状況すら当たり前になれば「そのようなものだ」との諦めの中で、良心の呵責すらも麻痺していくのもまた人の姿です。しかし、わざわざイエス・キリストはシモン・ペトロを「振り向いて」、つまり自らの顔を向けてペトロを叱っています。教会が神の委託に応えるためには、振り向いて自らの顔をわたしたちに向けるイエス・キリストとの絆、もっと言えば綱のような堅固な交わりを深めていくのが欠かせないのだと聖書はわたしたちに呼びかけます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」との呼びかけに耳を澄ますためにも、全世界を手に入れるより小さないのちが救われるのを喜ぶためにも、その絆はなくてはならないのです。コロナ禍の中でわたしたちはおよそふた月にわたり、聖日礼拝を休会いたしました。その中で授けられたメッセージとは、神からの委託を可能にするところの、キリストが授けてくださる絆への新しい目覚めではないでしょうか。「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木に繋がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない」。仮想現実ではなく神の現実として、わたしたちはこのつながりの中で礼拝を献げ、喜びをともにしましょう。