説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』20章20~28節
讃美:138(1,2), 240(1,3), 539.
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イエスには悪霊の頭がついているから、各々の悪霊を追い出せるのだとの噂をまき散らした祭司長や律法学者がいたと、先だってのメッセージでは申しあげましたが、イエスが救い主であると呻くように告白した人々の中にも様々な考えを抱く人々がいました。イエス・キリストに従い、仕えるわざは「人の上に立つ」ありようを根底から問うこととなります。しかしながら多くの人々は今自らを支配する人々と同じ力でもって、すなわちローマ帝国と同じ力と同じ道筋で人の子イエスが世を統治されるものだと思い込んでいました。それはかつて人の子イエスが荒れ野で誘惑を受ける中で、悪魔が「ひれ伏してわたしを拝むなら、世のすべての国々とその繁栄ぶりをみんな与えよう」と持ちかけた考え方と、残念ながら大差のないものでした。強制力を用いて民を統制しようとすれば、これは誰もが陥る落とし穴。この誘惑は『旧約聖書』で描かれるイスラエルの民の王たちを尽く呑み込むところの力でもありました。
ゼベダイの息子たちの母親はいったい何を望んでいたというのでしょうか。子を想う親の想いの中にも、あの誘惑と何ら変わらない黒雲が見え隠れします。子を思う親の想いとはまことにありがたいものだとする考え方に東アジアの伝統的な文化は立つとは申しますが、イエス・キリストとの出会いの中では親子の想いの中にも闇があるのだと、聖書はわたしたちに問いかけます。「イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください』」。母親の申し出は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの立身出世を願うに留まらず、わが子をキリストに委ねるわざが何を意味するかが分かっていません。人の子イエスは二人の弟子に答えます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。この問いかけにあろうことか弟子二人は「できます」と答えてしまうのです。実に浅はかです。その杯が何を示すのか二人は分かってはおりません。しかし人の子イエスは真摯に向き合おうとします。「確かにあなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左に誰が座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」。この言葉には人の子イエスがまさしくキリストだとの書き手の理解が示されています。この箇所には、『新約聖書』の物語の時に始まって、神の愛のわざが全地に及ぶという福音の完成、すなわち終末の出来事が示されているからです。それは福音書はおろかわたしたちにも遥か彼方の出来事かも知れませんが、神が必ず約束してくださっている出来事です。それゆえ他の弟子たちにもイエス・キリストの言葉の意味は隠されています。その結果何が生じるのか。それは温かさに満ちた交わりではなく醜い諍いです。聖書からかけはなれた教会もまたこのような争いを内に含まずにはおれません。だからこそキリストの次の言葉が響くのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。ローマ帝国で権力を握る者は実に孤独な仕方でその任を解かれたり、その身を追われました。暗殺された皇帝も決して少なくありません。かつて自らが行った謀り事は権勢を極めた後に、必ず自らに返るからです。聖書の世界では自力本願や自己責任は本質的には砕かれるものとして描かれます。そこには人間の尊大さが表れます。他方で『旧約聖書』では神は人々のもとに「降ってきて」メッセージを伝え、そのわざを行いました。イエス・キリストは「偉い人たちが権力を振るう」世に囚われている縄目からわたしたちを解放するために自らを身代わりとしてお献げになります。苦しみを担ってくださるのです。だからこそわたしたちは、どこにいても神さまから与えられた役目に応じられるというものです。どのような役目を与えられても、必ず祈り、支えて助ける群れがいることを心に深く刻むものです。
新型感染症の影響に伴い、教会もまたさまざまな新しい取り組みに向き合うこととなりました。これまでの経験則、つまり、教会でわたしたちはこれまでこうして来たのだという蓄積をも、神さまにお委ねしなければならない時を迎えているようです。しかし今こそキリストの肢体としての教会の伸びしろが発揮され、喜びとともにそれを受けとめ、さらなる成長を望む時。失敗を恐れたり体面を気にしたりして腕組みしながら何もしないというのではなく、しくじりを恐れず、また人任せにもせず、やってみましょう。イエス様はそのようなわたしたちの失敗をフォローするために苦しんでくださいました。そのわざは苦しみに留まるのではなく、復活のいのちの輝きを先どりしています。
讃美:138(1,2), 240(1,3), 539.
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イエスには悪霊の頭がついているから、各々の悪霊を追い出せるのだとの噂をまき散らした祭司長や律法学者がいたと、先だってのメッセージでは申しあげましたが、イエスが救い主であると呻くように告白した人々の中にも様々な考えを抱く人々がいました。イエス・キリストに従い、仕えるわざは「人の上に立つ」ありようを根底から問うこととなります。しかしながら多くの人々は今自らを支配する人々と同じ力でもって、すなわちローマ帝国と同じ力と同じ道筋で人の子イエスが世を統治されるものだと思い込んでいました。それはかつて人の子イエスが荒れ野で誘惑を受ける中で、悪魔が「ひれ伏してわたしを拝むなら、世のすべての国々とその繁栄ぶりをみんな与えよう」と持ちかけた考え方と、残念ながら大差のないものでした。強制力を用いて民を統制しようとすれば、これは誰もが陥る落とし穴。この誘惑は『旧約聖書』で描かれるイスラエルの民の王たちを尽く呑み込むところの力でもありました。
ゼベダイの息子たちの母親はいったい何を望んでいたというのでしょうか。子を想う親の想いの中にも、あの誘惑と何ら変わらない黒雲が見え隠れします。子を思う親の想いとはまことにありがたいものだとする考え方に東アジアの伝統的な文化は立つとは申しますが、イエス・キリストとの出会いの中では親子の想いの中にも闇があるのだと、聖書はわたしたちに問いかけます。「イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください』」。母親の申し出は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの立身出世を願うに留まらず、わが子をキリストに委ねるわざが何を意味するかが分かっていません。人の子イエスは二人の弟子に答えます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。この問いかけにあろうことか弟子二人は「できます」と答えてしまうのです。実に浅はかです。その杯が何を示すのか二人は分かってはおりません。しかし人の子イエスは真摯に向き合おうとします。「確かにあなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左に誰が座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」。この言葉には人の子イエスがまさしくキリストだとの書き手の理解が示されています。この箇所には、『新約聖書』の物語の時に始まって、神の愛のわざが全地に及ぶという福音の完成、すなわち終末の出来事が示されているからです。それは福音書はおろかわたしたちにも遥か彼方の出来事かも知れませんが、神が必ず約束してくださっている出来事です。それゆえ他の弟子たちにもイエス・キリストの言葉の意味は隠されています。その結果何が生じるのか。それは温かさに満ちた交わりではなく醜い諍いです。聖書からかけはなれた教会もまたこのような争いを内に含まずにはおれません。だからこそキリストの次の言葉が響くのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。ローマ帝国で権力を握る者は実に孤独な仕方でその任を解かれたり、その身を追われました。暗殺された皇帝も決して少なくありません。かつて自らが行った謀り事は権勢を極めた後に、必ず自らに返るからです。聖書の世界では自力本願や自己責任は本質的には砕かれるものとして描かれます。そこには人間の尊大さが表れます。他方で『旧約聖書』では神は人々のもとに「降ってきて」メッセージを伝え、そのわざを行いました。イエス・キリストは「偉い人たちが権力を振るう」世に囚われている縄目からわたしたちを解放するために自らを身代わりとしてお献げになります。苦しみを担ってくださるのです。だからこそわたしたちは、どこにいても神さまから与えられた役目に応じられるというものです。どのような役目を与えられても、必ず祈り、支えて助ける群れがいることを心に深く刻むものです。
新型感染症の影響に伴い、教会もまたさまざまな新しい取り組みに向き合うこととなりました。これまでの経験則、つまり、教会でわたしたちはこれまでこうして来たのだという蓄積をも、神さまにお委ねしなければならない時を迎えているようです。しかし今こそキリストの肢体としての教会の伸びしろが発揮され、喜びとともにそれを受けとめ、さらなる成長を望む時。失敗を恐れたり体面を気にしたりして腕組みしながら何もしないというのではなく、しくじりを恐れず、また人任せにもせず、やってみましょう。イエス様はそのようなわたしたちの失敗をフォローするために苦しんでくださいました。そのわざは苦しみに留まるのではなく、復活のいのちの輝きを先どりしています。