「恐怖と怯えからの解放」
説教:稲山聖修牧師
説教:稲山聖修牧師
(新約聖書22頁)
讃美歌:138, 二篇80, 361.
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目が見えず、口の利けない人。話すことのできない人がいたとするならば、その特性は耳の聞こえないありようを同時に示しています。一般に人は五感を用いて認識しますが、今こそさまざまな支援体制が整いつつあれ、長きにわたり視聴覚の障がいは職業に留まらず様々な暮らしの場面で制約を課せられました。現代であれば何かの手立てを講じることもできたでしょうが、障がいが罪の結果だと見なされたのが聖書で描かれる世界。「呪われた人」「生まれてこなかった方がよかった人」とされる孤独に勝る苦しみはなかったろうと『新約聖書』から聴くのです。
この絶望のどん底に置かれた人がイエス・キリストとの関係の中でどのようにして変えられていたのかというメッセージひとつとっても、まことに大きな救いの使信として響いたことでしょう。けれども本日の箇所では、本来は中心とされるべきこの出来事よりも、それがどのように人々に伝えられ、評されていったのかが問われてまいります。見えず聞こえず話せない人の癒しの出来事が導入となり始まるこの物語では、まずもって「群衆の驚き」が記され、イスラエルの民の救いのしるしであり、救い主を示す「この人はダビデの子ではないだろうか」と口々に呟く人々の姿とは対照的に、人の子イエスのわざに反発し、わめき立てるファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った、とあります。
日本語でいうところの「怨霊」「祟り」とは異なり、『新約聖書』でいうところの悪魔「ディアボロス」や悪霊の頭「ベルゼブル」には、絶えず『旧約聖書』での背景と神との関わりが問われます。ベルゼブルとは広くオリエントで崇拝されていたところの偶像であるがゆえにイスラエルの民から遠ざけられました。ベルゼブルは預言者エリヤの戦ったバアルが下敷きになっています。「蠅の王」ともされますが、そのようなイメージよりも興味深いところは「悪霊の頭」との言葉です。つまりファリサイ派の人々にとって悪霊とは自立し単独で動くことはなく、蠅が餌に群がるように責任の所在を隠したまま獲物に襲いかかり、伝染病に重なる死を媒介するとの理解があったと申せましょう。ところで人は匿名になり、自分の姿を問われなくなった際に最も残酷な姿を露呈します。Webでの炎上騒動がそうであり、様々な場での同調圧力のもとでは、匿名の集団が個性の繊細な人に刃を向けます。おそらくは物語の冒頭に登場した見えず聞こえず話せない人にも、心無い言葉という刃が常に向けられていなかったと誰が否定できるでしょうか。
しかしそのような無責任な集団の支配は、それこそ蠅の群れがやがてはどこかへと飛び去るように、前向きな力をそそぎ、いのちの可能性を拓くことは決してしないと、イエス・キリストは反論するのです。悪霊は破壊行為におよぶことはあっても、誰かを支え、また救う力はありません。それは絶えず分断と敵対を喜ぶことから「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのならば、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。この箇所で気づかされたところがあります。それは、人の子イエスを陥れようとする人々は、いつも、どこでも複数で行動しその責任を曖昧にするというところです。反対に、イエス・キリストの癒しのわざは、絶えず一人称のもとで行われ、癒される人々を苦しみや恐怖から救い出します。そしてイエス・キリストは、人々を恐怖によって萎縮させる「悪霊」を追い出すのは「神の国」、言い換えれば「神の愛の力による支配」から生じるところの力に他ならない、というのです。
新型感染症を抑え込む「緊急事態宣言発出」が解除されようとしています。重要なのは、泉北ニュータウン教会が聖日礼拝を休会としたこの期間に、わたしたちが礼拝をめぐって何に気づき、教会の将来を問ううえでどのような支えが必要なのかを話し合うという、その一点です。聖日礼拝の休止は痛みを伴わずにはおれませんでした。主に守られて教会がクラスターにならなかったとしても、です。わたしたちの働きは人の目によるところの正解がない以上、絶えずその後に課題を残します。それがこれからの教会の伸びしろとなります。もっとよりよい道はなかったのか。あるとすればどのような道なのか。聖書の言葉に耳を澄ませ響く言葉を大切にいたしましょう。そして礼拝休止の間に気づかされた、聖書に根ざし、神を讃美する礼拝の尊さと祈りの大切さが照らし出す交わりの回復。見えず、聞こえず、話せなかった人が主に出会い、見えるようになって語り出すという喜びを、涙を流しながらともに喜びたいと願っています。
目が見えず、口の利けない人。話すことのできない人がいたとするならば、その特性は耳の聞こえないありようを同時に示しています。一般に人は五感を用いて認識しますが、今こそさまざまな支援体制が整いつつあれ、長きにわたり視聴覚の障がいは職業に留まらず様々な暮らしの場面で制約を課せられました。現代であれば何かの手立てを講じることもできたでしょうが、障がいが罪の結果だと見なされたのが聖書で描かれる世界。「呪われた人」「生まれてこなかった方がよかった人」とされる孤独に勝る苦しみはなかったろうと『新約聖書』から聴くのです。
この絶望のどん底に置かれた人がイエス・キリストとの関係の中でどのようにして変えられていたのかというメッセージひとつとっても、まことに大きな救いの使信として響いたことでしょう。けれども本日の箇所では、本来は中心とされるべきこの出来事よりも、それがどのように人々に伝えられ、評されていったのかが問われてまいります。見えず聞こえず話せない人の癒しの出来事が導入となり始まるこの物語では、まずもって「群衆の驚き」が記され、イスラエルの民の救いのしるしであり、救い主を示す「この人はダビデの子ではないだろうか」と口々に呟く人々の姿とは対照的に、人の子イエスのわざに反発し、わめき立てるファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った、とあります。
日本語でいうところの「怨霊」「祟り」とは異なり、『新約聖書』でいうところの悪魔「ディアボロス」や悪霊の頭「ベルゼブル」には、絶えず『旧約聖書』での背景と神との関わりが問われます。ベルゼブルとは広くオリエントで崇拝されていたところの偶像であるがゆえにイスラエルの民から遠ざけられました。ベルゼブルは預言者エリヤの戦ったバアルが下敷きになっています。「蠅の王」ともされますが、そのようなイメージよりも興味深いところは「悪霊の頭」との言葉です。つまりファリサイ派の人々にとって悪霊とは自立し単独で動くことはなく、蠅が餌に群がるように責任の所在を隠したまま獲物に襲いかかり、伝染病に重なる死を媒介するとの理解があったと申せましょう。ところで人は匿名になり、自分の姿を問われなくなった際に最も残酷な姿を露呈します。Webでの炎上騒動がそうであり、様々な場での同調圧力のもとでは、匿名の集団が個性の繊細な人に刃を向けます。おそらくは物語の冒頭に登場した見えず聞こえず話せない人にも、心無い言葉という刃が常に向けられていなかったと誰が否定できるでしょうか。
しかしそのような無責任な集団の支配は、それこそ蠅の群れがやがてはどこかへと飛び去るように、前向きな力をそそぎ、いのちの可能性を拓くことは決してしないと、イエス・キリストは反論するのです。悪霊は破壊行為におよぶことはあっても、誰かを支え、また救う力はありません。それは絶えず分断と敵対を喜ぶことから「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのならば、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。この箇所で気づかされたところがあります。それは、人の子イエスを陥れようとする人々は、いつも、どこでも複数で行動しその責任を曖昧にするというところです。反対に、イエス・キリストの癒しのわざは、絶えず一人称のもとで行われ、癒される人々を苦しみや恐怖から救い出します。そしてイエス・キリストは、人々を恐怖によって萎縮させる「悪霊」を追い出すのは「神の国」、言い換えれば「神の愛の力による支配」から生じるところの力に他ならない、というのです。
新型感染症を抑え込む「緊急事態宣言発出」が解除されようとしています。重要なのは、泉北ニュータウン教会が聖日礼拝を休会としたこの期間に、わたしたちが礼拝をめぐって何に気づき、教会の将来を問ううえでどのような支えが必要なのかを話し合うという、その一点です。聖日礼拝の休止は痛みを伴わずにはおれませんでした。主に守られて教会がクラスターにならなかったとしても、です。わたしたちの働きは人の目によるところの正解がない以上、絶えずその後に課題を残します。それがこれからの教会の伸びしろとなります。もっとよりよい道はなかったのか。あるとすればどのような道なのか。聖書の言葉に耳を澄ませ響く言葉を大切にいたしましょう。そして礼拝休止の間に気づかされた、聖書に根ざし、神を讃美する礼拝の尊さと祈りの大切さが照らし出す交わりの回復。見えず、聞こえず、話せなかった人が主に出会い、見えるようになって語り出すという喜びを、涙を流しながらともに喜びたいと願っています。