説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』4章1~11節
讃美歌:399, 495, 502.
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洗礼者ヨハネとの出会いの後、荒れ野で40日の断食を経てイエス・キリストが出会ったのは、キリスト御自身を試みる者である悪魔、ギリシア語でいうところの「ディアボロス」でした。『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』のみに記されるこの物語では、キリストが救い主としての働きの始めに出会ったのが、苦しみ追いつめられた群衆ではなく、様々な罠を仕掛けてくる悪意であったこと、そして同時に『マタイによる福音書』を書き記し後世に伝えた教会もまた、同じ誘惑に晒されており、それは形を変えてはいても現在を生きるわたしたちにも及んでいると考えられます。イエス・キリストとてこの苦しみと試練から決して自由ではなく、翻弄されながら首の皮一枚で凌ぐという緊迫した場面が続きます。
この場で描かれる誘惑とは概ね三つに分かれます。第一の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という、いわゆる「食」をめぐる誘惑ともいえる内容ですが、今日にあっては暮しをめぐる誘惑としても理解できるでしょう。新型感染症は病に対する恐怖だけでなくわたしたちの交わりを絶ち、新しい不況の原因ともなっています。その影響の中で業界再編の荒波に放り出される事業体は数知れません。その誘惑のただ中にわたしたちは立っておりますが、さてその中でこのような誘惑に対してわたしたちはどのように応じることでしょうか。
次に第二の誘惑としては「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることがないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」。『旧約聖書』『詩編』91編を引用してまで誘惑する者の狙いとは、イエス・キリストを単にたぶらかし、神との関わりを試すだけに留まりません。これは裏返せば神との関わりを疑わせるところにまで行き着きます。そしてこの神を疑わせる誘惑は、食をめぐる誘惑という切羽詰まった試みと、まことに深く関わっているように思います。明日どうなるか分からないという中で誰もが疑心暗鬼となり、大切な隣人との信頼関係にさえひびが入ろうという状況と、あらかじめ先を読んでいたかのようこのタイミングで誘惑する者のずる賢さに長けた巧みさ。こればかりには言葉も出ません。
この上で誘惑者は決定的な一撃を放とうとします。それはイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せ、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」との言葉です。世のすべての国々とその繁栄は、神との関わりから離れてわたしを拝むなら全てのお前のものだと申します。私有財産制を暮しの原理とするわたしたちはこの誘惑に果たして抗えるでしょうか。さらにはこの誘惑は、幼き日に飢えに苦しみ、青年期に神を見失い、壮年期に財と地位を全て手にしてなお渇く人々の課題と、時を超えて対応してもいるのです。この全ての誘惑に共通する問題とは「分かち合い」を知らないというところです。自分の手から暮しの糧を献げることなく、神との関わりを喪失し、そして目的のために手段を選ばず権力と繁栄を欲しいままにしたいと願うならば、わたしたちも教会も信仰とは名ばかりのものとなり内実の伴わない籾殻となってしまうのです。それは吹く風に虚しく舞うばかりです。これこそわたしたちが、個人としても教会としても迎えつつある危機だと言えるでしょう。コロナ禍の中で誰が近くに住む、幼きころと同じ境遇のこどもたちを思い遣れるか、誰が大地震と豪雪に見舞われた地方・地域に思いを馳せられるのか。神との関わりがもたらす実りは、名誉欲や過剰な承認願望とは異なるはずです。しかし。
イエス・キリストがこれらの誘惑を絶って超然としていたのであれば、このような物語はそもそも書き記す必要はなかったはずです。裏返せばわたしたちのこの極めて平凡かつ日常の苦しみさえもともにされ、わたしたちも折り重ねることのできる聖書の言葉と祈りと決断に基づいてイエスは打ち勝っていかれます。そしてこの誘惑の物語全体もまた、4章1節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」とある通り、神の愛の力を背に受けてこの世へと押し出され、そしてキリストに従う中でさえ避けて通れない道ではありながらも、決して無力ではない!という励ましのメッセージにすらなり得るのです。キリストは誘惑に勝利されたからです。
福音書で描かれる悪魔とは、絵画で描かれるところの角と翼と尾、鋭い爪の生えた姿で描かれる姿をしてはいません。それは特定の時代のイメージに過ぎません。悪魔とは「分かち合い」の喜びを知らず、虚しい万能感に満ち、人との関わりを絶つところの独り占めに何も呵責を感じることもなく、責任逃れに腐心し、名もない者を踏みつけていくあり方を、聖書を用いてさえ現状肯定するという態度です。わたしたちは、貧しさの中にあるからこそ、喜びと痛みを分かち合える恵みを、凡庸な善に過ぎないと呼ばれても、イエス・キリストに従う中、すでに授かっています。
この場で描かれる誘惑とは概ね三つに分かれます。第一の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という、いわゆる「食」をめぐる誘惑ともいえる内容ですが、今日にあっては暮しをめぐる誘惑としても理解できるでしょう。新型感染症は病に対する恐怖だけでなくわたしたちの交わりを絶ち、新しい不況の原因ともなっています。その影響の中で業界再編の荒波に放り出される事業体は数知れません。その誘惑のただ中にわたしたちは立っておりますが、さてその中でこのような誘惑に対してわたしたちはどのように応じることでしょうか。
次に第二の誘惑としては「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることがないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」。『旧約聖書』『詩編』91編を引用してまで誘惑する者の狙いとは、イエス・キリストを単にたぶらかし、神との関わりを試すだけに留まりません。これは裏返せば神との関わりを疑わせるところにまで行き着きます。そしてこの神を疑わせる誘惑は、食をめぐる誘惑という切羽詰まった試みと、まことに深く関わっているように思います。明日どうなるか分からないという中で誰もが疑心暗鬼となり、大切な隣人との信頼関係にさえひびが入ろうという状況と、あらかじめ先を読んでいたかのようこのタイミングで誘惑する者のずる賢さに長けた巧みさ。こればかりには言葉も出ません。
この上で誘惑者は決定的な一撃を放とうとします。それはイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せ、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」との言葉です。世のすべての国々とその繁栄は、神との関わりから離れてわたしを拝むなら全てのお前のものだと申します。私有財産制を暮しの原理とするわたしたちはこの誘惑に果たして抗えるでしょうか。さらにはこの誘惑は、幼き日に飢えに苦しみ、青年期に神を見失い、壮年期に財と地位を全て手にしてなお渇く人々の課題と、時を超えて対応してもいるのです。この全ての誘惑に共通する問題とは「分かち合い」を知らないというところです。自分の手から暮しの糧を献げることなく、神との関わりを喪失し、そして目的のために手段を選ばず権力と繁栄を欲しいままにしたいと願うならば、わたしたちも教会も信仰とは名ばかりのものとなり内実の伴わない籾殻となってしまうのです。それは吹く風に虚しく舞うばかりです。これこそわたしたちが、個人としても教会としても迎えつつある危機だと言えるでしょう。コロナ禍の中で誰が近くに住む、幼きころと同じ境遇のこどもたちを思い遣れるか、誰が大地震と豪雪に見舞われた地方・地域に思いを馳せられるのか。神との関わりがもたらす実りは、名誉欲や過剰な承認願望とは異なるはずです。しかし。
イエス・キリストがこれらの誘惑を絶って超然としていたのであれば、このような物語はそもそも書き記す必要はなかったはずです。裏返せばわたしたちのこの極めて平凡かつ日常の苦しみさえもともにされ、わたしたちも折り重ねることのできる聖書の言葉と祈りと決断に基づいてイエスは打ち勝っていかれます。そしてこの誘惑の物語全体もまた、4章1節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」とある通り、神の愛の力を背に受けてこの世へと押し出され、そしてキリストに従う中でさえ避けて通れない道ではありながらも、決して無力ではない!という励ましのメッセージにすらなり得るのです。キリストは誘惑に勝利されたからです。
福音書で描かれる悪魔とは、絵画で描かれるところの角と翼と尾、鋭い爪の生えた姿で描かれる姿をしてはいません。それは特定の時代のイメージに過ぎません。悪魔とは「分かち合い」の喜びを知らず、虚しい万能感に満ち、人との関わりを絶つところの独り占めに何も呵責を感じることもなく、責任逃れに腐心し、名もない者を踏みつけていくあり方を、聖書を用いてさえ現状肯定するという態度です。わたしたちは、貧しさの中にあるからこそ、喜びと痛みを分かち合える恵みを、凡庸な善に過ぎないと呼ばれても、イエス・キリストに従う中、すでに授かっています。