稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』15章21~28節
讃美歌=二編80, 399, 294.
説教メッセージ動画は「こちら」をクリック、またはタップしてください。
イスラエルの民の外から救いを求める声に、イエス・キリストはどのように向き合ったのか。キリスト教文化圏には直接属してはいない東アジアに暮らすわたしたちにとっても本日の箇所は決して他人事ではありません。コロナ禍のもと、もはや課題は感染症への罹患への恐怖に留まらず、さまざまな規制のもとで職を失っていく人々の叫びにも重なります。イスラエルの民の外部から響く助けを求める声に、イエス・キリストがいかに向き合ったのかを考えさせる本日の箇所です。
本日の箇所でイエス・キリストは、ガリラヤ地方からはかなり離れた、東地中海に面した港町・ティルスとシドンに行かれました。そこで現れたのはその地に生まれたカナンの女性。名の記されない女性に夫がいたのかどうかについては書き手は一切触れません。女手一つで育てた娘は悪霊にひどく苦しめられているという。今日で言うところの、手のつけようのない病に罹患していのちが危ぶまれているという場面です。母親は助けを求めて叫びながらイエスの後をついてまいりますが、弟子の態度は実にそっけないものです。「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので」。これまで多くの癒しのわざを行なってきたイエス・キリスト。そしてそのわざによって広がる交わりに喜びを感じていた弟子は、なぜこうもこの女性を冷たくあしらおうとするのでしょうか。イエス・キリストですらこう言う始末です。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。自分はイスラエルの民の救い主であって、あなたとは関係がないと言っているようです。あまりにも酷いとさえ思えるこの箇所。わたしたちには思い出す別の箇所があります。それは『マルコによる福音書』7章24節以降にある<シリア・フェニキアの女性の物語>。この箇所でも人の子イエスは、悪霊にとりつかれた娘を「助けてほしい」と願い求めるギリシア人の女性に「まず、こどもたちに十分食べさせなければならない。こどもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と突き放します。福音書で描かれるイエス・キリストの振る舞いには、やさしく微笑みを浮かべながら人々を支え、癒していく姿ばかりでなく、実に冷淡な姿を垣間見る場合もあります。いったい、書き手はどのような祈りのもと、本日の物語を編み込んだというのでしょうか。
本日の箇所に戻りますと、女性は「カナンの女性」として記されます。『旧約聖書』をたどりながらこの女性の生い立ちを尋ねますと、その時代のパレスチナ先住民族の歴史に触れずにはおれません。カナンの人々とは『旧約聖書』の物語ではまことに優れた都市文明を誇りながら、イスラエルの民の不倶戴天の敵として絶えずその前に立ちはだかり、神の導きから人々を誘惑する民として描かれてまいりました。ですから世に言う選民思想に立ちますと、好ましくないどころか排除されてもおかしくない人々に仕分けされてまいります。物語に用いられる「小犬」とは具体的には屍肉をあさる、ジャッカルのような山犬を示しながらの蔑みの言葉ですから、女性は人の子イエスと対等であるどころか自らを徹底的に卑下しているのが分かります。しかし別の視点からすれば、娘を思う母親ならではの姿であったかもしれません。その姿が救い主イエス・キリストに授けられた神の愛の力を一層際立たせてまいります。
もはや恥ずかしげもなく目の前で助けを乞うこの女性は『マルコによる福音書』のギリシア人の女性ほど弁が立たないにしても、その願う姿はあらゆる生い立ちに勝って胸を打ちます。別の福音書では「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と根負けして語るのに対して、イエス・キリストは本日の箇所で「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」とまことに平安に満ちた言葉とともに、カナンの女性の信仰を祝福します。イエス・キリストの福音は、イスラエルの民とカナン人の間にあった分断の壁を越えて響き、そして働きます。人の子イエスは、イスラエルの民が敵対した相手をも救うメシアです。
新型コロナウィルス感染症の中で問われているのは、病そのものに罹患して健康を害するリスクだけではありません。感染症に罹患することによる危機感が禍して、誹謗中傷が生じたり、いわゆる風評被害によって倒産するばかりでなく、罹患した人々各々の社会的立場も根こそぎにするような力をもつところにもあります。その意味で言うならば新型感染症は、わたしたちの交わりのありようをも同時に問いかけているような気がしてなりません。隠された分断の中にいたわたしたちの交わりが新たにされるのか否かを、ウイルスは問いかけているのかもしれません。その意味でいえば、わたしたちは苦しみのただ中にいる状況に気づかないだけなのかもしれません。その折に触れて「叫びながらキリストについていった」無名のカナンの女性の背中に、わたしたちもそれぞれの歩みを重ねたいと願います。