説教=「みことばに養われたキリスト」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』5章17~20節
(新約聖書7ページ)
讃美歌=239, 247, 二編136.
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「聖書は繰り返し味わうもの」。昨年天に召された教会員の形見でもある明治20年訳の日本聖書協会版『聖書』。その聖書を手にお話をした後に、この三月で卒園予定のこひつじ保育園の園児さんにぴかぴかの聖書をお渡しする機会を得ました。聖書は50年を経ても、100年を経ても問いを発し続ける書物であるとともに、わたしたちが進退の時を見極める際には決して忘れてはならない福音です。それはわたしたちを閉じ込めるのではなく、わたしたちのありようを解きほぐし、練りあげていく上で不可欠の書物。聖書を忘れたときに、また聖書の言葉を現状肯定に用いたときに、教会は解体するか、分裂するか、過ちを犯すかのいずれかの袋小路にはまり込んでまいりました。
それでは福音書で描かれるところのイエス・キリスト、人の子イエスは何をもって養いとし、また福音書の書き手は何をもとにしてイエスを救い主として描いたというのでしょうか。それは『律法』そして『預言者』と称される書物、その時代のユダヤ教の正典です。そして『律法』とは、わたしたちには『創世記』から『申命記』にいたる書物、『預言者』とは『イザヤ書』『エレミヤ書』『ホセア書』を含む膨大な量に及びますが、決してわたしたちから縁遠い書物ではありません。『旧約聖書』にはイエスもまた養いとした書物が宝石のように収められているのです。
だからこそイエス・キリストは次のように弟子に語るのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」。イエス・キリストはわたしたちが『旧約聖書』と呼ぶところの書物にある、神の愛による約束を実現するために世に遣わされた救い主として『マタイによる福音書』の書き手は描きます。そして文字の読み書きを知らないはずの弟子たちにも、そのように教えるのです。それでは文字の読み書きを学ぶ機会が稀であった弟子たちは、どのようにして『旧約聖書』の教えを尊べばよかったというのでしょうか。
ひとつにはイエス・キリストが語る教えを聴き、その約束の結晶をその身に刻むことです。旧約聖書の教えを知識という面からだけでなく、暮らしの中での証しとして身に帯びるのです。これによってわたしたちもまた、聖書の言葉との関わりを尊びながら、わが身の至らなさ、そして己の驕り高ぶりという、ときとして罪として呼ばれ得るありようを舐めながらも、キリストに従う道を各々の場に応じて見出すにいたります。それは個人のありようとなるだけでなく、旧約聖書に記されたイスラエルの民と同じように、神に反逆する道ばかりを選びがちなわたしたちが、どのようにすれば神の平和に連なるのか、という道筋を示されることとなります。
それだけではありません。聖書の言葉は鵜呑みにすればよいというものでは決してなく、わたしたちには難しく響くどころか、時に厳粛に問いを投げかけてまいります。例えば「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」とあるが、そんなことはあるはずもない!とわたしたちが思ったといたしましょう。聖書はわたしたちに問いかけます。「なるほどあなたの言うことは分かった。それではあなたは、悲しむ人々は決して慰められないとでもいうのか。あなたは支えようとはしないのか」と。「イエス・キリストは復活したという話、死人の復活の話などあり得ない」と問うならこう問いかけられるかも知れません。「そのような問いをわたしたちは千年以上も聞いてきた。それでは尋ねるが人間は死んだらお終いだ、などと本当に考えているのかね。先達の遺した言葉、もっといえば約束によって、あなたは生かされているとは考えないのか」。実際、いのちの危険や責任に身を晒す場面にいたりますと、わたしたちは学習塾通いで得たような知識のありやなしやを問わず、軽はずみな言動は自ずから慎むようになります。これは日常のごく小さな場面に過ぎませんが、わたしたちは聖書に問いかける時、聖書から問われているということをも同時に思い浮かべる必要があります。それは単に「個人と書物」という関係を越えて、その問いかけを「ともにする」という交わりを育みます。この交わりの中に立つのが教会であり、この交わりは教会の枠を超えて広がってまいります。その広がりが社会に根を降ろし種を実らせさらにまかれたとき、いのちを活かす出来事が、思いもよらずに起きるのです。イエス・キリストはその時代のユダヤ教の義しさを十全に知り、その義しさをともにし、分かち合う交わりを広めました。だからわたしたちにも、とくに教会には、聖書に立つという主体性が絶えず求められるのです。危機を覚える時ほど聖書の言葉は近くにあります。キリストもともにおられます。主にある忍耐には希望が必ずあります。