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説教=「キリストにしたがう」
稲山聖修 牧師
聖書=マタイによる福音書 4章18~22
(新約聖書(新共同訳)5ページ)
讃美=243, 308, 540.
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沖に漕ぎ出して漁をする。文章にすれば造作もなく思えるこのわざ、本来はかなりの熟練さを求められる仕事です。うまく水面に広がるように網を打つ。網にかかるのは魚ばかりではありません。湖底に沈んだ木の枝をはじめ、様々な余計なものが引っかかってまいります。場合によれば、網がほつれてしまうということもあったでしょう。また福音書の物語の中では、弟子と主イエスを載せた舟がガリラヤ湖で突風に見舞われるという話が描かれます。秋から冬にかけて最も頻繁に吹くと呼ばれるこの風は、小舟を転覆させるにあたり充分すぎるほどの威力をもちます。長年の経験と勘を頼りに舵の操り方や潮の流れ、風の読み方を知り、親子何代にもわたって続けてきた稼業でなければ、聖書の舞台の漁はつとまりませんでした。 しかしそのような経験と勘を頼りにし、場合に拠ればいのちがけの生業も、時を置くにつれて暮しを豊かにする稼業としては成り立たなくなってまいります。「すべての道はローマに通ず」とありますように、ローマ帝国の世界支配は地中海を囲む物流ルートが完成したことになります。つまり、湖は漁場というよりは水運に臨む水路としての役目を担うようになりました。
ところでローマ市民の食卓に並ぶ珍品に較べれば、漁師の収入は全くとるに足りない額だと思われます。僅かな種類の魚の干物が酒宴の珍味としてもてはやされはしたものの、殆どが現金化のためというより、物々交換に近いやりとりも含めた上での生計です。けれども漁師たちにはローマの数字を用いて計算するよりも、きっと命がけでの漁りそのものに生き甲斐を感じていたことでしょう。計算外の世界にぶつかっていくからこそ、想像を超えた喜びを得られます。古代の人々には湖にも海にもそれほどの区別は要りません。家中総出での仕事に労苦の差もありません。
だからこそ、それまでの生き甲斐となる生業を神に委ねてキリストにしたがうのには、今の仕事は割に遭わないからという否定の理屈では到底なしえない決断です。イエス・キリストの招き。それは唐突に訪れます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。前触れも打診もない、突然の出会い。それは再現不可能なただ一回の出来事です。いのちの出会いの中で生き、いのちをいただいて生きる漁師。いったいなぜキリストが招いたのか、その場では決してその秘密は明かされないはずでした。
しかし、その理由はその直後の言葉にすでに記されています。「二人はすぐに網を捨てて従った」。この「すぐに」という言葉には、何の打算も目論見も見出すことはできません。魚を見つけた漁師が戸惑うことなくその影を負うように、二人は生き方を大きく転換してしまうのです。軽率だとの誹りを免れないかもしれないその転換が、シモンとその兄弟アンデレを始めとし、次いでゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにまで及びます。「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしていた」。イエス・キリストが二人を招くと、この兄弟二人もすぐに「舟と父親を残してイエスに従った」と続きます。
わたしたちはこの箇所で励ましというよりは大きな躓きを覚えます。舟はどうなるのか、父親はどうなるのかという問いかけがその躓きです。キリストにしたがうとは、軽々しくも家族を捨ててその場から逃げ去ることなのか?世捨て人になることなのか?答えは否であります。『マルコによる福音書』1章29節では、熱を出して寝込んでいたシモンのしゅうとめを癒すために、キリストはそのそばへと歩みます。舟を置いて出かけた弟子もともにいます。世にいう出家がキリストにしたがうことなのであれば、このような物語は記されないはずです。人の設けた聖も俗も新約聖書の世界ではキリストの行く手を阻むことはできません。やがて弟子たちは、キリストにしたがう中で大きな挫折をし、十字架へと向かうキリストから離れるという目も当てられない醜態をさらすこととなります。その醜態の中から立ちあがり、人の子イエスにしたがう道から、復活のキリストにしたがう道へと繋がります。この反復がわたしたちには問われています。「すぐに網を捨てて従う」他になかった漁師たちに及んだ招きだからこそ、その問いかけは誰にも明らかです。
二度目の緊急事態宣言発出という時代の中で、わたしたちは混乱の中でイエス・キリストからの招きを受けているかもしれません。弟子たちにはその行く手は決して分かっていませんでした。培った経験値も棚上げしなくてはなりませんでした。しかしこの「したがった」という事実はいつまでも残ります。その経験をかけがえのない財産として積み重ねて新たな道を開き、発見を宝にいたしましょう。朝の来ない夜がないように、主のいない夜もないのです。