説教=稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』4章12~17節
讃美=75, 74, 540.
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「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする」とのイエス・キリストの言葉。実に有名なこの言葉は、聖書の文脈から離れて一人歩きしながらも、個人のありかただけに留まらず、組織が代替わりしたりモデルチェンジする場合にもよく用いられます。とりわけ教会関係者やキリスト教文化圏の会社などの組織論では世代交代の場合によく耳にするところでもあります。
けれどもキャッチフレーズとしてではなく、福音書の物語の文脈の中で受けとめ直してまいりますと、ある一大事を背景にしているのが分かります。それは洗礼者ヨハネの逮捕。そしてイエス・キリストもその報せを聞いて、故郷のあるガリラヤに退かれた、とあります。しかしながらヘロデの追手を警戒してでしょうか、人の子イエスは、ヨハネと連座しての逮捕を免れようとするかのように、ガリラヤ湖湖畔の町カファルナウムにひとまず伝道の足場を設けます。『マタイによる福音書』の書き手はこの緊迫した状況の中で『イザヤ書』9章1~2章を大胆に再解釈して記します。新共同訳『イザヤ書』では次の通りです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。これが『マタイによる福音書』では「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者には光が射し込んだ」となります。『イザヤ書』にある文言にイエス・キリストが伝道の足場を設けた場所が記され、そこに大きな光が射し込むとされるのです。イエス・キリストが洗礼者ヨハネの身柄拘束の後に設けた活動の拠点とは「ヨルダン川の彼方」、「異邦人のガリラヤ」、そして「暗闇」。なるほどその時代には誰からも注目されないこの場所は、クリスマス物語に登場するヘロデ王の息子ヘロデ・アンティパスの追手から身を隠すにはもってこいの場所でしょうし、エルサレムを聖なる都として奉る人々にとってすればまさに盲点とも呼べる、決してその時代のユダヤ教徒からすればあえて足を踏み込みたいとは思わず、またローマの兵士やギリシア人といった異邦人にとっても、そこに暮らす人は豊かではなく、決して開明的でもありませんから別段関心も惹きません。「異邦人の町ガリラヤ」とは二重の意味が込められていると考えられます。それはその時代のユダヤ人から見たところの、文字通り異国の人という意味での異邦人という意味と、時に混血として蔑まれてきたサマリア人もその場に行き来していたという意味にもとれるからです。訪ねたところで何のメリットのないところ。語弊を恐れずに言うならばその時代の吹きだまりのような町であると蔑まれたとしてもおかしくありません。しかし、その町からイエス・キリストの働きが始まります。だから大切だとはいえないでしょうか。
洗礼者ヨハネの活動の場は荒れ野でした。洗礼者ヨハネはエルサレムを中心とした都市を「穢れたところ」と見なしていたようで、その限り、聖・俗というはっきりした境界線を設けています。しかしイエス・キリストが救い主のわざを始めたところでは、事はそのように単純には済まないグレーゾーンにうごめく人々が少なからずいたのです。
ヨルダン川で清めの洗礼を授けるヨハネのもとを訪ねることもできず、自分が何者であるかという問いすらも浮かばない無名の人々。その人々にイエス・キリストは「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語りかけるのです。語りかける言葉が洗礼者ヨハネと異なるのは、語りかける相手が全く異なる点です。身動きがとれない相手に語りかける「悔い改め」とは、悪い行いを改めるのでは断じてなく「あなたの頭をあげなさい」という愛の励ましに満ちた言葉です。「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」とはまさしくそのような文脈の中で本来の力を宿すのではないでしょうか。「悔い改めよ、天の国は近づいた」。それは「悲しむ人々が慰められ」「柔和な人々が地を受け継ぎ」「義に飢え乾く者が満たされ」「憐み深い人々が憐みを受け」「心の清い人々が神を仰ぎ」「平和を実現する人々が神の子と呼ばれ」「義のために迫害される人々が天の国を授かる」だけでなく、これら全ての人々がイエス・キリストから「幸い」であると呼ばれ、祝福に満ちた交わりと不可分にされる出来事を示します。そして、わたしたちが常日頃口ずさむ主の祈りが聞き届けられ、その約束が完成する時でもあります。洗礼者ヨハネは捕えられた獄中から弟子を遣わし「来るべき方はあなたですか」とイエス・キリストに尋ねました。それはまことに切実な問いではありましたが、ヨハネをも主の平安に導く答えがすでに備えていました。洗礼者ヨハネに託されたいのちの光の束は、今ようやく救い主へと渡されたのであります。混乱を極める今の時代、暮らしは勿論のこと、教会も新たにされていきます。そのただ中で、次の世代へといのちの光の束は、ときに悔い改めを促す諸刃の剣として問いを発しながら、わたしたちの楽しみとなるのです。