2021年1月7日木曜日

2021年1月10日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「世の穢れを身にまとうキリスト」  

説教=稲山聖修牧師
聖書=マタイによる福音書3章13~17節
(新約聖書4ページ)
讃美=121(1), 461(1), 270(1), 540.

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 かつて目にしたホームレスの人々の姿が次第に消える一方、逆に「ネットカフェ難民」と呼ばれる若者が増え、閉店が続けば若年層の方々が寝泊まりの場所を求め行政や民間の相談口へ向かいます。この三十年、大阪市のあいりん地区、通称「釜ヶ崎」の様子も変わりつつあるのが分かります。ドヤ街が撤去された跡にホテルが建てられたり、露天では敢えて横になれないように手摺のあるベンチが作られたりする中で、自分が泊まる場所を失うとはと、この数ヶ月で思い詰めた方々は多いことでしょう。同年代や歳下の方々が路上で寝泊まりする話も聞くだけで胸が痛みます。

 かつては目に見えた貧困や格差の問題が、今となっては実に見えづらくなっています。単なる経済的な貧しさだけでなしに、行政の支援をどのように受けたらよいのかという知識のありやなしや、または生育歴による深い心の傷のありやなしや。お話を聞くと決して一筋縄ではなく、決して上から目線で論じ扱うことはできません。ただ少なくともこのコロナ禍の中で、例年であれば届けられていた支援物資も、普段にも増して行き届いていないのが実情です。生活苦や貧困の課題は、ある都市の一区画という特定の場から、わたしたちの身近なところへと拡散しています。

 もし洗礼者ヨハネがその場に居合わせたのであれば、いったいどのような眼差しをわたしたちに向けるというのでしょうか。本日の聖書の箇所に先んじて、洗礼者ヨハネはエルサレムとユダヤ全土、またヨルダン川沿いの地方一帯から来て罪を告白した人々に洗礼を受けていた、と『マタイによる福音書』にはあります。新約聖書の物語の舞台では、今のわたしたち以上に人々の暮らしには霧が重苦しく立ち込めていました。その最中で人々は、日々の糧に留まらず、人としてのありようを確かめようともがいていました。世にあって生きる。これだけでもわたしたちには決してきれいごとではすまない重大事です。だからこそ人々は、洗礼者ヨハネを訪ねてはさまざまな過ちだけでなく、生きづらさを吐露しては赦しを乞い、不透明ではありながらも生きていかなくてはならない各々の場所へと戻っていったのではないでしょうか。

 大人になるということ。それはどういうことでしょうか。身なりや立ち振る舞いを折り目正しくするということでしょうか。それとも暮らしを経済的に自立させて、自己責任の名の下にあゆみ始めるということでしょうか。確かにそうしたことも侮れませんが、実のところ、わたしたちは必ず誰かとの関わりと支えなしに生きてはいけません。助けを求めなくてはならない場面も出てきます。何でもできるという幼い万能感を脱ぎ捨てて、これしかできないという呟きと祈りの中で少しでも何かの役に立つならばと願うのです。そのただ中にイエス・キリストも立っていました。洗礼者ヨハネは驚愕します。この群れの中には名もなき人々だけでなく、人々を上から目線で裁いていた律法学者や祭司長たちもいました。なぜイエス・キリストがその群れの中にい給うのか。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。洗礼者ヨハネが授ける洗礼とは清めの洗礼です。ヨハネのもとに集まった人々は、病であれ過去の負い目であれ、どうしようもなく自らに重くのしかかる課題を、時として「穢れ」として受けとめていました。その群れのただ中に、イエス・キリストも立ち、連帯されていました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです」。

 キリストのこの言葉を聴きながら、わたしたちはクリスマス物語に立ち返ります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は『インマヌエル』と呼ばれる。この名は「神が我々とともにおられる」という意味である、との一節です。「神が我々とともにおられる」とは何とも心強く響きます。けれどもその一方で、「我々とともにおられる神」と呼ばれる救い主は、洗礼者ヨハネのもとに集まり、清めの洗礼を待ち続ける群れなす人々に象徴される世のただ中におられます。教会の内側も外側も、目にする限りでは人の集まりであり、時に見る限りではどこにイエス・キリストがい給うのか見極めがたいところがあります。洗礼者ヨハネは救い主に出会って初めてその人に気がつきます。イエス・キリストは、ヨハネのもとに集った人々と寸分違わない仕方で水による洗礼を授かりました。その時に初めて洗礼者ヨハネにも、そしてこの物語に触れるわたしたちにも「神の霊が鳩のように」、則ち主の平安をもたらす神の愛が救い主にまことに力強く注がれているのに気づかされます。それはわたしたちにも及ぶ神の愛の力です。

 混迷の時、わたしたちの眼差しはどこに向かうのでしょうか。自分だけの視界で見える世界に囚われますと、世の動きの見極めすら覚束なくなります。神の愛の力が注がれた天をともに仰ぎましょう。天はどこまでも広がり繋がっています。そしてわたしたちと同じ衣をまとったキリストを通して、ますます成熟した判断力を祈り求めましょう。