説教:「出会いは逆風の中で」
稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』14章22~33節
讃美歌:298, 320, 527.
説教メッセージ動画は、「こちら」をクリック、又はタップしてください。
5000人の人々と食事をともにした人の子イエスと弟子たち。とりわけ弟子は言いしれぬ高揚感に満ちていたことでしょう。パン五つと乾し魚二匹しかない中で、主イエスが感謝の祈りを献げると、人々もともに食を分かち合い、そして満たされていくという場に居合わせるだけでなく、その出来事の一端を担ったという驚きと喜びに身体は熱くなっていたことでありましょう。
しかしイエス・キリストはそのような弟子たちを、大きな試みへと追いやります。イエスは有無を言わせず弟子をガリラヤ湖に浮かぶ小舟に乗り込ませ、対岸へと渡るように命じ、満たされた喜びとともに交わりを育んだ群衆を各々の家へと帰らせ、自らは祈るためにひとり山に登られました。山と湖。実に対照的なところに人の子イエスと弟子はいるのだと気づかされます。人の子イエスが山で何を祈っていたのかは物語には記されていませんが、その祈りは日が沈むまで続きます。祈りの中で一人山の中にたたずむキリストの姿は誰にも知られません。
人の子イエスが姿を隠される中、弟子だけが乗った舟は混乱の極みにありました。数百メートルもの沖合に流された舟は、逆風に晒され、波に揉まれるほかありません。弟子は恐怖のどん底に叩込まれます。向こう岸にたどり着くどころか今どこにいるのかさえ分かりません。誰がそのようなところにいたいなどと思うでしょうか。パニックにつつまれた弟子。一刻も早く逃げ出したいという願いさえ決して聞き届けられません。寝る間もないまま一晩中波に揉まれる舟、救いを求め続ける弟子。舟に辛うじてしがみついて時の経つのを待つほかありません。逆風の中、弟子は全ての能力を奪い取られてまいります。各々が自分のいのちしか考えず、交わりを絶ち、その本性をあらわにします。そんな弟子には思いも寄りませんでした。イエス・キリストがよもや自分たちを忘れずに祈り続けていたとは。
「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いてこられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。「幽霊」と訳されるのは「ファンタズマ」、ギリシア語では亡霊を示します。今や舟にすがりつく弟子は錯乱状態に陥り、湖の上を歩いてきたイエスが何者なのかすら分かりません。さてこの箇所でわたしたちは戸惑います。「湖の上を歩いてくるなどあり得ないだろう」。実はこの「湖」という言葉さえ明らかになれば、決して理解の難しい箇所ではありません。湖畔に暮らす人々には湖は生活に欠かせない場所ではありますが、ひとたび湖水に溺れてしまえば決して助かりません。イエスが一人祈る場所が山であるところと対比すれば、湖がわたしたちが暮らすところのこの世であるとも理解できます。弟子たちを乗せた舟。それを仮に教会だとするならば、実にこの世の力に弱いありようが際立ってまいります。さてその阿鼻叫喚の舟で別の動きが始まります。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。祈りの場から混乱の世に戻られたイエス・キリストを見つめて、シモン・ペトロが立ちあがります。世のただ中を歩み、キリストのもとにたどり着こうとする姿があります。しかし彼も強い風に気をとられ、恐怖の中でイエス・キリストから眼差しを逸らして足下をのぞき込むや否や、ずぶずぶと底知れない闇へと沈み込んでまいります。ただここでペトロは恐怖の中で叫ぶのです。「主よ、助けてください!」。この叫びこそ、わたしたちが今の世にあって最も尊ばれるべき声であります。わたしたちは誰かに助けを求めるという態度が「悪いことである」とのしつけや教育を受けて育っています。しかし助けを求めないことで、万策尽きて破滅に追い遣られる人が激増しています。悲しみに満ちた自己否定がそこにあります。けれどもキリストはペトロを咎め立てする前に、その腕をつかんで放しません。これが「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」との言葉に示されるイエス・キリストの働きです。救いを求める叫び声を押し出すためにイエス・キリストが祈っておられたとしても過言ではありません。なぜならこの体験によって、たとえ教会がキリストの姿を見失ったとしても、キリストがわたしたちのために祈ってくださることを確信できるからであります。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは自らを決して否定されないからである」。緊急事態宣言のただ中、わたしたちの教会は今、聖日礼拝を休止する事態にあります。かの戦争をくぐり抜けた老舗の会社が次々と店じまいをする中、わたしたちもまた時代の闇と嵐の中で慄くばかり。けれどもイエス・キリストはわたしたちを覚えて祈り、わたしたちの腕をがっしりとつかんで放しません。そしてわたしたちの教会に乗り込んできてくださるのです。出会いは逆風の中で起きます。コロナ禍の中での経験を、後々の宝として分かち合うため祈りましょう。