2019年10月27日日曜日

2019年10月27日(日) 説教

ローマの信徒への手紙3章21~31節
「信仰義認とは」 
説教:渡辺敏雄牧師

 今から500年ほど前1517年10月31日ヴィテンベルクの城壁の扉にカトリック教会に対して95箇条の抗議文を貼り、宗教改革ののろしを上げたのがマルチン・ルターでした。そしてその炎は燎原の火のごとくヨーロッパに燃え広がることになったのです。その宗教改革の大きな原理の一つとしてあるのがいわゆる「信仰義認」であります。信仰によって義とされるというのがあります。当時のローマカトリック教会が免罪符を買うことによって罪は赦され、天国に入ることができると説いたのに対して、ルターはいやそうではない。私たち人間のわざによって、何か功績、功徳によって救われるのではない。「信仰によって義とされ」、救われるのだと説いていったのです。
 ここでわたしたちが気をつけなければならないことは、信仰によってと訳されていることで、わたしたちの信仰の力によって、義とされる、救われると勘違いしないことです。信仰と訳されていますが、本当は「真実」という意味であります。パウロ書簡において信仰と日本語で訳されている言葉は、真実と言い換えた方がいいのです。私たちは、真実によって義とされ、救われるのです。では誰の真実か。それは神の真実です。イエス・キリストの真実です。人間の真実ではありません。信仰によってと訳されますと、人間の側にある信仰によってと考えてしまいがちになりますが、そうではありません。功徳は言うまでもなく、人間の信仰さえ、あえて言うなら世間で聖人と言われている人たちの信仰さえ、自らを義とはなしえないのです。あくまでわたしたちは義とされるのです。受け身であります。義とする主語は神であります。神の私たちに対する真実が、イエス・キリストに現れた神の真実が私たちを義とするのです。あえて言うなら、そのことを信じることによって、その恵みを受け取ることによって私たちは義とされる、良しとされるのです。

 そしてさらに重要なことは、わたしたちを義とする神の真実は、わたしちをまた聖とする、清くするということです。いわゆる聖化です。義認と聖化とは表裏一体です。義認なき聖化はありえないし、聖化なき義認もありえないのです。ペテロの手紙一、1章15節で「聖なる方に倣って、あなたがた自身も聖なる者になりなさい」と言われています。パウロもまたローマの信徒への手紙12章1節で「自分の身体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてとして献げなさい」と言われています。このように言われて、では聖なる者となるためにがんばらなくてはとなりますと、生活がしんどくなります。義務のようにとってしまいますと、生活は窮屈になってまいります。ここでも聖とする主体は神であります。神がわたしたちを聖なる者とするのです。私たちは聖なる者としていただくのであります。自分が自分の力で聖なる者となるのではなく、神がしてくださる、その力を私たちは受け取るのであります。そのために私たちは神に対して、心をいつも開いていく必要があります。聖霊をわたしたちの心のうちに迎え入れていくのです。聖霊によってわたしたちは聖とされるのです。聖霊においてイエス・キリストを内に迎え入れるのです。キリストの心を我が心としてもらうのです。イエス・キリストにおいて現れた神の真実によって聖なる者とされるのです。聖なる者とされるとは、聖人になることではありません。聖徒としてより一層完成されるのです。そのことで大事なことは祈りです。祈りにおいて「神様、どうかわたしを聖なる者にしてください」と祈るのです。神さまはわたしたちが聖なる者となることを望んでいますから、祈りに応えて、日々聖化の道を歩ませてくださいます。罪人でありつつ、一方では、聖なる者へと近づけてくださる。その途上に私たちは今生きているのです。イエス・キリストに現れた神の真実によって義とされた私たちの歩みは始まっています。また聖化の歩みも始まっています。今日の聖書の箇所31節「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」と言われていることはそのことです。律法が義務として機能するのではなく、恵みとして機能するとき、神が恵みとしてわたしたちに与えてくださった律法が本来的意味を確立するのです。恵みが恵みとして機能するのです。日々のわたしたちの義認と聖化の歩みの根拠、根底にあるのは、あの十字架においてわたしたちに示された罪ある者を義とする神の真実です。その神の真実は今生きているときも、また死ぬるときにおいても根拠であり、根底にあるものであり、また大いなる希望でもあるのです。

2019年10月20日日曜日

2019年10月20日(日) 説教

《こどもとともにまもる礼拝》

「わたしの大切な人はだれですか?」
『ルカによる福音書』10章25~29節
パネルシアターによるメッセージ:稲山聖修牧師


 イエスさまの言葉を受け入れられない、ある律法学者が次のように尋ねました。「先生、何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」。イエスさまが答えるには「聖書にはどのように書いてあったかな?」。ニコリともせず律法学者は「<心を尽くし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい>とあります」と言いました。イエスさまは「すばらしい!それをやってごらんなさい。そうすればいのちを得られますよ」と勧めましたが、律法学者は「それでは、わたしの隣人とはだれですか?」と重ねて問いました。イエスさまは答えをそのまま教えません。その代わり、譬え話となる物語をお話になりました。それは次のようなものです。
 聖なる都エルサレムから、人の往来の賑やかな街エリコに続く一本の道がありました。岩だらけの荒れ野を通る、寂しくて、時には危険な道でした。そこにある旅人がやってきました。「さあ、急がなくっちゃ。エルサレムでお祈りも済ませたことだし、神さまはきっと守ってくれるに違いない。あの町はサマリア人やいろいろと面倒な人たちもいるんだが、ともかく用事を済ませなくては」。そんなまじめな旅人の前に立ちはだかる人影がありました。何と盗賊です。「おう、兄さん、なかなかご立派な身なりだな。どこへいくんだ」。「何ですか突然に。わたしは旅の途中なのです。道をどいてください」。「偉そうに何を言ってやがるんだ。みんな、やっちまえ!」その声を聞いたとたん、旅人は気を失ってしまいました。身体がしびれて動けませんが、とても熱くなっているのは分かりました。旅人は殴られ蹴られ、お金も服も一切奪われて、裸同然の姿で道端に倒れたまま動けません。「だ、誰か助けてください、助けて...」と思っても、ろれつが回らないのです。


 その場所に、旅人とは反対の方向を急ぐ祭司が通りかかりました。「エルサレムの仕事に遅れそうだ。しっかりお祈りの言葉を献げられるかな。いや、そんな心配をするよりも、まずは集中あるのみ!神さまお助けください」。そんな祭司の視界に飛び込んできたのは、道端に倒れ伏している、先ほどの旅人です。祭司は心に思いました。「...うわっ!これはひどい怪我だなあ。気の毒だけれども、これは身体が持たないだろう。それよりもエルサレムの仕事、仕事」。血を流して倒れているその人から目を背けて、通り過ぎていきました。次にやってきたのは、レビ人。祭司のお手伝いを始め、神殿でのお仕事をする人です。この人もどこか忙しそうです。「全くもう、あの祭司は人使いが荒くて困るよな。忘れ物をとってきなさい、なんてよくも言えたものだ。あれが神さまに仕える人なのか。それにしても急がなくては!」。そんなレビ人の視界に飛び込んできたのは、道端に倒れ伏している、先ほどの旅人です。レビ人は心に思いました。「ごめん、時間がないのよ...」。レビ人も目を背けて、通り過ぎていきました。最後に通りかかったのはサマリア人の旅人です。この人は血まみれの旅人を見るや「これは大変だ。消毒になりますから、ぶどう酒を注ぎますよ。それから化膿どめに油も塗っておきます。我慢してくださいね。包帯もしましたから。さ、ロバに乗せますよ。いのちに勝るものはなしってね、心配しないでくださいよ」。サマリア人は旅人を宿まで運んで「大将、一大事だ。この人を看病してやってくれ。お金なら日当二日分置いていくから。帰りに寄るから、足りなかったらその時に言ってくんない」。
 このようなお話をした後で、イエスさまは律法学者に語りかけました。「誰が旅人の隣人になりましたか?」。律法学者はこう言います。「その人を助けた人です」。そこでイエスさまは力強く仰せになりました。「あなたも同じようにしなさい。そうすればいのちが得られますよ」。
 そしてさらに、わたしたちはこの譬え話で、また大切なことに気づきました。祭司やレビ人、そしてサマリア人を結ぶ大切な人がいたことを。それは道に倒れて痛みを堪えている、身ぐるみはがされた旅人でした。この旅人の姿は誰かに似てはいませんか。わたしたちには十字架に架けられたイエス・キリストの姿が重なります。この旅人は、何か素晴らしいことができるはずもありませんが、祭司・レビ人・サマリア人という、立場も考えも違う人々との関わりを結んだからです。イエスさまが伝えてくださった、神の平和を実現する人になりましょう。

2019年10月13日日曜日

2019年10月13日(日) 説教

『ルカによる福音書』16章19~24節
「神が祝福する貧しさとは」
説教:稲山聖修牧師

本日は神学校日・伝道献身奨励日礼拝。伝道者とは概して、世にある冷笑主義や嘲笑を避けて通ることはできない。伝道者に嘲笑を甘んじて受ける覚悟がなければ、その人は世の闇や病を表に出し、癒すことができないからである。少なからずの伝道者が心身ともに病を抱え込んでいる。けれどもその伝道者の病が、その教会や社会の病を映し出しているのは明らかだ。「綺麗事を言ったところでお金があるに越したことはないじゃないか。君も若いなあ」とキリストをなじる声が今日のテキストからは聞こえるようだ。「不正な管理人の譬え」の物語を嘲笑する「金に執着するファリサイ派」に切り返したイエス・キリストが、さらに紡いだ言葉。それが今朝の箇所だ。長い譬え話なのでポイントを抑えながら解き明かしてみる。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた」。衣を染める紫の染料は、パレスチナでは採集できない材料から作られる。それは地中海で獲れる希有な貝の体液を陽の光に照らして得られる。実に高価である。後には一般には禁じられるまでになった。この金持ちは、そのような高価な衣を日々当り前のように着ては「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。「放蕩息子の譬え」で用いられる「放蕩」とは無駄遣いを意味してはいるものの、具体的な使途についてははっきりとは記されない。しかしこちらの金持ちの場合は実に具体的に描かれる。「遊興に耽る日々」と理解して間違いはないだろう。注目するべきはこの金持ちの家の門の前に、雨露を凌ぐ家さえもない貧しい者が身を横たえていた、という事実。遊興に耽るため家を出入りする度に、金持ちは門の前に横たわる瀕死の貧しい人に気づく機会は一度ならずあったはず。しかしその姿は金持ちには関心の外にある。台風の中風雨に晒され続ける路上生活者に重なる。

 もちろんこの譬え話の軸となるのは金持ちではなくて瀕死の人である。金持ちには名前がない。しかし門前の路上に横たわる人には名前がある。「ラザロ」がその名前。世の富における事情では対照的な二人。しかし、逝去の後は全く対照的なところに身を置くこととなる。そもそも福音書の中で死後の世界が具体的に描かれる箇所は多くはなく、その点でもこの箇所は異色だ。ラザロは天使たちに宴の席にいるアブラハムの隣へと連れられていく。一方で金持ちは陰府の世界で苦しみながらアブラハムとラザロを遙か彼方に仰ぐ。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」。金持ちの関心事は、単純に自分のことだけだ。まずアブラハムは、この金持ちは生きている間によいものを、ラザロは悪いものをもらっていたが、今ラザロは慰められ、金持ちは悶え苦しむと語る。そしてラザロと金持ちの間には渡ることのできない淵がある、と記される。二人は分断されている。しかしなおも金持ちは食いさがる。「せめてラザロを父の家に遣わし、五人の兄弟にこの場所に来ることがないよう言い聞かせて欲しい」。この求めにアブラハムは「お前の兄弟にはモーセと預言者がある。それに耳を傾けることだ」と答える。「モーセと預言者」とはその時代の聖書を指している。納得しない金持ちに、アブラハムは、仮に復活したとしても、聖書の語るところに無関心であるならば、生き方を改めることはないと説く。
この譬え話で問われるのは、金持ちがラザロに一瞥もしなかったこと、そしてその妨げとなったのが、金持ちには自らの富であったということだ。この話を聞いた「金に執着するファリサイ派の人々」はどのように応えたのだろうか。この人々の姿は、実は後の教会のあり方に対する痛烈な反面教師にもなっている。その時その時の権威に、玉虫色の衣を着ては唯々諾々として従うばかりの交わり。そこには人の欲得や情念はあったとしても、神の愛の力である聖霊への感謝はあるというのか。今の世にあって、わたしたちは心ない言葉を受ける機会も少なくはない。そのときこそ、わたしたちに対して神に祝福された貧しさが問われる時だ。わたしたちが根を降ろすのは神ご自身であり、教会は聖書を通してその事実を受け入れる。ラザロの貧しさあればこそ、わたしたちはお互いに支え合うことができる。陰府にまで降ったイエス・キリストが、かの金持ちをも救ってくださることを待ち望めるのだ。キリストは全ての分断の壁を越えて進む。それがわたしたちの希望となる。勇気を持とう。

2019年10月6日日曜日

2019年10月6日(日) 説教

「泥まみれの姿を祝福する神」
『ルカによる福音書』16章9~13節
説教:稲山聖修牧師


イスラエルの民の歴史は、人々を奴隷生活から解放したアブラハムの神への従順よりも反抗が目立つ。その中でも深刻だったのは「偶像を刻み、それを礼拝する」とのわざ。旧約聖書が「偶像崇拝」という言葉で遠ざけようとしたのは、エジプト王国で祀られていた「金の牡牛」の像だった。「金の牡牛」とは、ファラオを始めとした王国が求める、富や豊かで快適な暮しを象徴する豊穣の神。飢饉や疫病が今よりも絶えず暮しを脅かしていた時代にあっては、それもまた一つの考え方やあり方であるとも言えるが、なぜこのありかたから遠ざかるよう繰り返し聖書に記されてきたのか。それは、人間の定めた目的や果実、成果が絶対化されて、本来は地位や身分を超えて尊ばれなくてはならないはずの「いのちの尊厳」が、いつの間にか人の尺度に基づいて序列化・排除・否定されることを通して危険に晒されるとの理解が、旧約聖書には隠されているからだ。他方でわたしたちは、物々交換の世界に暮らしてはいない。景気も数値でなくては分からないというジレンマを、わたしたちは抱えている。
 本日の譬え話が記されるのは、ローマ帝国による支配が完成された中で成り立つ文書である『ルカによる福音書』。その中にイエス・キリストの語った「不正な管理人の譬え」が記される。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった」。横領との噂が立った財務の管理人。主人は噂の真偽とともに「会計の報告書を出せ、管理を任せるにはいかない」と迫る。管理人はこの時点で自己弁明をせず、その後に身の振り方に思いを巡らす。「主人から仕事を外されるかもしれない。とはいえ額に汗して働く力も無く、物乞いをするほど面子を捨てることもできない」。そこで管理人は早々に自分の解雇を見通して「自分を家に迎えてくれる者」を作ろうと、借用書の改竄を試みる。「油100バトス」。1バトスは23リットルだとされる。この借入料を半分にしようと試みる。「小麦100コロス」。1コロスは230リットルだとされる。これを80コロスに書き換えようとする。公文書偽造は今昔を問わず重大な犯罪のはずだが、主人は管理人の振る舞いを機転として受けとめて評価して解雇せず、告訴もしない。これは一体どういうことなのか。

「会計の報告書を出せ」と詰め寄った主人は、結局は被害届を出さず管理人の手法を褒めた。実はこの譬え話、管理人が何をしたのかという面よりも、主人が関心を寄せていた事柄が要になる。主人には油や小麦といったものは、大切な商品であると同時に消費ないし消耗されていく品目でもある。金銀財宝ではないところが決め手。需要がなければ油は放置され劣化する。小麦も値打ちが下がる。農産物の出来高は年によって決して一定ではない。価格も変動する。そうした損得を主人は見越している。けれども肝心なのは補填や、価格が不安定な品目の証文を、管理人自ら泥を被るリスクとともに書き換え一定の関わりを作ろうとした、というところにある。これには政財界の歪んだ「お友だち」とは紙一重ながら決定的に異なるところがある。それは「自分を家に迎えてくれるような者」を増やすこと。この管理人が求めていたのはキャリアを失ったとしても態度を変えずに関わってくれる友人だ。リスクを冒して暮しを助けてくれた事実は恩義となり、商品としての油や小麦に勝る。この譬え話の流れに則するのであれば、お金や社会的な立場を、主人も管理人も決して絶対視してはいなかったという理解も可能だ。管理人の信用は転じて主人の信用につながる。神の愛はこうして証しされる。
イエス・キリストは経済のみに偏った繁栄の儚さを説く。そして同時に、移りゆく世にあってどれだけ人々と信頼を深め「永遠の住処にいたる喜び」を証ししたかどうかが問われると語る。神礼拝と世にある働きは決して分断されない。その上でイエス・キリストは語る。「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない」。「神と富とに仕えることはできない」との言葉が、16章にある譬え話の結びとして記される所以である。
 わたしたちが根を降ろすのはイエス・キリストに示された神であり、それは旧約聖書では奴隷解放の神となる。この軸がぶれるならば、わたしたちは変わりゆくものと、変わらないものとの見極めを誤り、他者の痛みや苦しみを軽んじては鈍感になっていくだろう。逆にその軸を手放さなければ、この世の尺度だけでは曖昧な雰囲気の示す事柄を、誰にも明らかな確信として授かることができる。社会・経済とも混乱の最中にあるが、何が最も大切なのか。泥を被りながら生きた人々の群像を通して、イエス・キリストが語る言葉に、今こそ耳を傾けよう。

2019年9月29日日曜日

2019年9月29日(日) 説教 

「地図にない道に踏み出す勇気」
『ルカによる福音書』15章11~24節
説教:稲山聖修牧師


今朝の聖書箇所のテーマを考える上で欠かせない「兄弟」という言葉を主題とする『詩編』133編は、次のように始まる。「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」。この詩は「兄弟がともに座っている」姿は決して当り前ではないとの前提で編まれている。
その葛藤は今朝の譬え話にも見出される。よく知られる「放蕩息子」の譬えの物語は家族間のトラブルから始まる。仲のよい兄弟は登場しない。登場人物は父親、二人の息子、放浪中の下の息子が身を寄せる農場主、父親の僕たち。次男は父親に対して唐突に遺産の生前贈与を求める。そして何日も経たないうちにこの財産を現金に換え、遠い国に旅立つ。その国がどこにあるのかも分からないような旅。旅の最中、実家に連絡する術はない。次男は放蕩の限りを尽くす。そして旅の成果は皆無。散財した次男を試練が襲う。「ひどい飢饉」。飢饉は人心を荒ませ、旅の最中にいるその人にも容赦しない。その手元にはタラントン銀貨一枚も、銅貨二枚もない。旅人は難民同然の姿に身を落とす。次男はもはや、滞在先の国での立場にいるのか分からず、身元も証明する術もない。

 幸いにもそのような次男坊が死なずに済んだのは身を寄せる農場があったからだとの声もあろう。しかしこの農場主は決して心ある人には思えない。次男坊は農場で奴隷に等しい労働を強いられ、あろうことかユダヤ教の倣いでは屈辱としか思えない豚の世話をするにいたる。勿論、農場主には豚のほうが大切なのは言うまでもない。豚は繁殖力の強い「商品」だ。農場主は飢饉が酷いほど儲けは多くなる。次男坊は豚の餌を盗み食いしながらようやく父親を思い出す。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。わたしたちの日常からすれば、次男坊の苦しみは因果応報・自業自得。同情の余地はなし。それは彼も自覚するところ。勘当も覚悟しながら、次男坊は無給労働を強いる農場主とは異なる態度で労働者に向き合っているはずの父親のもとに帰りたいと願う。飢饉とは無縁ではない中、父親もまた農場の経営に必死であったろう。その父を身近で支えていたのは長男。農業は決して楽な仕事ではない。家族としての役目を放棄して物乞い同然の姿で帰郷した弟に長男は冷たい。けれども父親は次男の帰郷をことのほか喜び、抱きしめてほおずりをし、口づけする。そして「雇い人の一人にしてください」という言葉を遮り、考えられる最高のもてなしをして、祝宴を設ける。兄にはこれが受け入れられない。

この譬え話が色褪せないのは、因果応報・自業自得・自己責任という言葉の示す壁が崩され「失敗」が赦されているところにある。この特徴は当時や現代の常識とは真逆な、神の愛を顕わしている。そうなると次男坊の「放蕩」という言葉も単に遊興三昧に耽ったというありがちな解釈では充分ではなくなる。次男坊の「放蕩」とは即ち学問や藝術、また異なる文化との出会いという、農場にいては決して知ることがなかった世界を求めての旅だったかもしれない。親の七光りが通じない世界に次男は果敢に挑み、そして敗北して帰郷した弟。兄はその弟を非難する。その非難は父親の祝宴にも向けられるが、そんな兄に父親が言うには「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。詰め寄る長男に、父親は相続に関する確約を交わす。兄は決して報いのない働きを続けてきたのではないが、わだかまりを抱えたままだ。譬え話は父親の一方的な宣言で終わる。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当り前だ」。気になるのはその後の展開だが、それは想像の域を出ない。けれども誰よりも父親が苦しみぬいたのは確かだ。次男の身の上を案じ続ける父の姿。落ち延びてきた身を抱きしめる姿には、因果応報・自業自得・自己責任との言葉は力を持たない。しかも次男の出迎えには、父を支えてきたという点で、兄もまた貢献している。実は弟だけでなく兄も、地図のない道を歩み続けてきたのだ。
異なる人生行路を歩んだ兄弟は、父親の苦難を通して交わりを回復したのではないか。父なる神の痛みは、十字架でのキリストの苦しみを通してのみ知るところだ。今の時代、誰もが家庭に困難や課題を抱えている。その地図のない道に歩む勇気をキリストの拓いた道に重ね、人生の旅路を感謝したい。その旅は希望に満ちている。

2019年9月22日日曜日

2019年9月22日(日) 説教

『ルカによる福音書』14章25~33節
「キリストに委ね、腰を据える」
説教:稲山聖修牧師

 本日の箇所ではイエス・キリストが係累との断絶を勧めているかのように響く。誤解される箇所の一つだ。
「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、こども、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない。自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではあり得ない』」。もしも係累との絶縁を中心にして理解するのであれば、御言葉に聴き従う歩みは困難になるどころか、結局は教会のあり方にも歪みがもたらされる。聖書に記されなくても今の世には家族をめぐる深い絶望がある。親が子を殺め、子が親を殺めるという、旧約聖書に記された眉をひそめるような物語が、現実の出来事としていたるところで起きている。聖書には放蕩息子という言葉がある。他方で身近なところでは、わが子に心身にわたって依存するところの毒親という言葉さえ生まれている。そのようなところでは、単に係累を絶つという話ではキリストの証人にはなれない。そう思い込んでいる集団があれば、もはやカルトだと言ってよい。

先ほどのイエスの言葉は、続く物語から極めて深い思慮に根ざしていることが分かる。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに充分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない」。
イエスは塔の建築と戦争の講和を弟子の資格の条件に譬えて語る。建築の譬え話では建築に関わるコストの話が中心となる。戦争を譬え話に出す場合、勝利が見込めない戦をいかに講和に導くかという話をする。犠牲を出さずに平和を実現するためには私怨に走ってはならない。どちらの場合にも求められるのは私利私欲や私的な存念に基づく短慮ではない。あくまでも公共性を伴う長期的な展望が必要だ。神の公共性を世に現わすのであれば何を第一にするべきなのかを腰を据えて祈り、考えなさいとキリストは語っているのではないだろうか。

 こと公共の問題になれば、わたしたちは一旦、家族の事柄を神様に委ねてテーマに集中しなくてはならない。勿論、私的な満足感や充実感を犠牲にしてであっても、担うべき課題に向き合い、ことの優先順位をつけなくてはならない。この公共性という考えは、わたしたちには共有するのが実に困難である。儒教道徳の影響の強い国々では、どうしても家族親族のためにという気持ちが公共性に先んじてしまうという歴史があるが、それはわたしたちも例外ではない。本来ならば公共性を伴う事柄を家族親族、またはごく親しい間柄の「お友だち」で独占しようとする。その結果、その狭い枠から外れていくところの人々への関心が希薄になる。「教会は敷居が高い」という言葉は「お上品に振る舞っている人ばかり」という意味というよりは、むしろキリスト教の衣装を纏っていても、その内実は家族親族や「お友だち」の交わりであったり、内輪しか顧みないという、世界のどこにでもあり得る出来事が、聖書との関わりで一段と際立たされているからではないだろうか。
そのような壁や限界を突き崩し、新しい風を吹かせるために必要なのは、眼差しをイエス・キリストに集中するという態度だ。それがわたしたちにはまことに決定的な問いとなる。わたしたちのありようは、十字架のイエス・キリストの眼に適うものなのか。この不断の問いかけと確認があればこそ、わたしたちは分断された家族関係の中で嘆くほか無い人の悲しみや、家族が崩壊してなおも懸命に生きようとする若者の勇気に、向き合うことができるのはないだろうか。地縁血縁を問わず広がっていく神の家族のあり方は、老若を問わず孤独に苛む人々の希望となる。時の経過の中でわたしたちの身体だけでなく家族の関わりも変容するが、わたしたちは恐れてはならない。キリストに委ね、腰を据える中で、必ず道は拓ける。

2019年9月15日日曜日

2019年9月15日(日) 長寿感謝の日礼拝 説教

『ルカによる福音書』18章1~8節
「祈りは必ず聴かれる」
説教:稲山聖修牧師

今朝の「やもめと裁判官の譬え」には、義しい人の姿はどこにも描かれない。むしろ職務本来のあり方からはかけ離れた、「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」が軸になる。この裁判官は18章5節では「不正な裁判官」とさえ言われる。実はこの「不正」という言葉が聖書もの用いられ方を考えると本日の聖書箇所は実に興味深い展開を秘めていることが分かる。
もとより「不正」という言葉が裁判や裁きにあたって用いられる場合、それは裁判に寄せられる信頼そのものを台無しにするわざとなる。『サムエル記』で先見者サムエルは老いて後、自らの務めを二人の息子に託する。しかし二人の息子は「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」ある。『サムエル記』の「不正」は批判されるべき、糾されるべき「不正」であり、堤に空いた穴のような扱いとなる。これが民の不信を招き、イスラエルの民は神との契約よりも王を絶対視するあり方を選ぶ。滅びへの序局となるのがサムエルの息子の不正だ。

しかしイエス・キリストの譬え話における裁判官の「不正」の場合、その意味は変わってくる。不正な裁判官と向き合うのは一人のやもめ。伴侶を失った寡婦は貧しい身の上であり、正しさが世にあってはそのものとしては通じないことを、自らの傷みを通して知り抜いている。その女性が訴えるには「わたしを守ってください」。不正な裁判官は、正しい裁判をこのやもめから求められた。裁判官はその粘り強さに次第に押されていきます。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」。不正な裁判官は自らの不正のゆえに己を砕かれて、いつしかやもめを虐げる諸々の問題と向き合うこととなる。きっかけがどうであれ、次第にやもめを支える重要な役割を担っていくことになる裁判官。今や彼は神の正しさを表わす器として用いられていく。イエス・キリストはやもめの切実な訴えを「祈り」に重ねているのは明らかだ。教条主義的に人を裁くばかりの人々の見通しすら、神の愛の働きは超えていく。
「この不正な裁判官の言いぐさを聴きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。神とのまじわりの中で、生きづらさや傷みを抱えたところのやもめの訴えに耳を傾けた不正な裁判官は、その不正さのために神に用いられるという逆転が起きる。イエス・キリストのリアリズムがこの箇所には描かれる。
思えば毀誉褒貶、世の中の様々な評判は絶えず移ろう。その評判に基づいて善悪が振りかざされたとき、人間は時として邪悪な姿を露わにする。不正ではなく「邪悪」である。なぜならその判断基準は時として思い込み、即ち予断や偏見に基づく場合が殆どだからだ。神の愛を証しした人々の多くは、必ずしもその時代からはよい評判に包まれていたわけではない。名声が目的ではないからだ。「神の正しさ」は、世にあっては指差されることからは決して逃れることはできない。公民権運動で知られるキング牧師や、メキシコシティーオリンピック銀メダリストのピーター・ノーマン、また杉原千畝の生涯というものは、世の人の目からすれば、ただちに幸せだったと言えるだろうか。

本日は長寿感謝の日礼拝を迎えた。齢を重ねた方々には混沌とした人の世のさまを見極められ、だからこそ、授けられた知恵には侮れないところがある。いのちの本質を見極める視点は、頑迷固陋さにではなく、イエス・キリストに根を下ろすことによって拓かれる。長きにわたる人生の歩みは、絶えず移ろう世にあって、自らの身体の変容も受けとめながら、イエス・キリストとの関わりを確かめてこられた歩みでもある。これは若者の輝きに劣らぬ、かけがえのない宝である。不条理や困難や嘆きの中で献げられる祈りは必ず聴かれる。自己実現の願いや単に夢が適ったりすることとは異なる次元が拓かれるからだ。やもめの献げる叫びと訴えにも似た祈りと出会いの中で、不正な裁判官は、悩み苦しむ者の声を聴く神から、彼にしかできない役目を託され、そのわざに邁進したことだろう。神の愛が備える出会いと交わりの中で重ねられた齢を、一同でお祝いし、神に感謝しよう。