2019年10月27日日曜日

2019年10月27日(日) 説教

ローマの信徒への手紙3章21~31節
「信仰義認とは」 
説教:渡辺敏雄牧師

 今から500年ほど前1517年10月31日ヴィテンベルクの城壁の扉にカトリック教会に対して95箇条の抗議文を貼り、宗教改革ののろしを上げたのがマルチン・ルターでした。そしてその炎は燎原の火のごとくヨーロッパに燃え広がることになったのです。その宗教改革の大きな原理の一つとしてあるのがいわゆる「信仰義認」であります。信仰によって義とされるというのがあります。当時のローマカトリック教会が免罪符を買うことによって罪は赦され、天国に入ることができると説いたのに対して、ルターはいやそうではない。私たち人間のわざによって、何か功績、功徳によって救われるのではない。「信仰によって義とされ」、救われるのだと説いていったのです。
 ここでわたしたちが気をつけなければならないことは、信仰によってと訳されていることで、わたしたちの信仰の力によって、義とされる、救われると勘違いしないことです。信仰と訳されていますが、本当は「真実」という意味であります。パウロ書簡において信仰と日本語で訳されている言葉は、真実と言い換えた方がいいのです。私たちは、真実によって義とされ、救われるのです。では誰の真実か。それは神の真実です。イエス・キリストの真実です。人間の真実ではありません。信仰によってと訳されますと、人間の側にある信仰によってと考えてしまいがちになりますが、そうではありません。功徳は言うまでもなく、人間の信仰さえ、あえて言うなら世間で聖人と言われている人たちの信仰さえ、自らを義とはなしえないのです。あくまでわたしたちは義とされるのです。受け身であります。義とする主語は神であります。神の私たちに対する真実が、イエス・キリストに現れた神の真実が私たちを義とするのです。あえて言うなら、そのことを信じることによって、その恵みを受け取ることによって私たちは義とされる、良しとされるのです。

 そしてさらに重要なことは、わたしたちを義とする神の真実は、わたしちをまた聖とする、清くするということです。いわゆる聖化です。義認と聖化とは表裏一体です。義認なき聖化はありえないし、聖化なき義認もありえないのです。ペテロの手紙一、1章15節で「聖なる方に倣って、あなたがた自身も聖なる者になりなさい」と言われています。パウロもまたローマの信徒への手紙12章1節で「自分の身体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてとして献げなさい」と言われています。このように言われて、では聖なる者となるためにがんばらなくてはとなりますと、生活がしんどくなります。義務のようにとってしまいますと、生活は窮屈になってまいります。ここでも聖とする主体は神であります。神がわたしたちを聖なる者とするのです。私たちは聖なる者としていただくのであります。自分が自分の力で聖なる者となるのではなく、神がしてくださる、その力を私たちは受け取るのであります。そのために私たちは神に対して、心をいつも開いていく必要があります。聖霊をわたしたちの心のうちに迎え入れていくのです。聖霊によってわたしたちは聖とされるのです。聖霊においてイエス・キリストを内に迎え入れるのです。キリストの心を我が心としてもらうのです。イエス・キリストにおいて現れた神の真実によって聖なる者とされるのです。聖なる者とされるとは、聖人になることではありません。聖徒としてより一層完成されるのです。そのことで大事なことは祈りです。祈りにおいて「神様、どうかわたしを聖なる者にしてください」と祈るのです。神さまはわたしたちが聖なる者となることを望んでいますから、祈りに応えて、日々聖化の道を歩ませてくださいます。罪人でありつつ、一方では、聖なる者へと近づけてくださる。その途上に私たちは今生きているのです。イエス・キリストに現れた神の真実によって義とされた私たちの歩みは始まっています。また聖化の歩みも始まっています。今日の聖書の箇所31節「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」と言われていることはそのことです。律法が義務として機能するのではなく、恵みとして機能するとき、神が恵みとしてわたしたちに与えてくださった律法が本来的意味を確立するのです。恵みが恵みとして機能するのです。日々のわたしたちの義認と聖化の歩みの根拠、根底にあるのは、あの十字架においてわたしたちに示された罪ある者を義とする神の真実です。その神の真実は今生きているときも、また死ぬるときにおいても根拠であり、根底にあるものであり、また大いなる希望でもあるのです。