2019年10月13日日曜日

2019年10月13日(日) 説教

『ルカによる福音書』16章19~24節
「神が祝福する貧しさとは」
説教:稲山聖修牧師

本日は神学校日・伝道献身奨励日礼拝。伝道者とは概して、世にある冷笑主義や嘲笑を避けて通ることはできない。伝道者に嘲笑を甘んじて受ける覚悟がなければ、その人は世の闇や病を表に出し、癒すことができないからである。少なからずの伝道者が心身ともに病を抱え込んでいる。けれどもその伝道者の病が、その教会や社会の病を映し出しているのは明らかだ。「綺麗事を言ったところでお金があるに越したことはないじゃないか。君も若いなあ」とキリストをなじる声が今日のテキストからは聞こえるようだ。「不正な管理人の譬え」の物語を嘲笑する「金に執着するファリサイ派」に切り返したイエス・キリストが、さらに紡いだ言葉。それが今朝の箇所だ。長い譬え話なのでポイントを抑えながら解き明かしてみる。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた」。衣を染める紫の染料は、パレスチナでは採集できない材料から作られる。それは地中海で獲れる希有な貝の体液を陽の光に照らして得られる。実に高価である。後には一般には禁じられるまでになった。この金持ちは、そのような高価な衣を日々当り前のように着ては「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。「放蕩息子の譬え」で用いられる「放蕩」とは無駄遣いを意味してはいるものの、具体的な使途についてははっきりとは記されない。しかしこちらの金持ちの場合は実に具体的に描かれる。「遊興に耽る日々」と理解して間違いはないだろう。注目するべきはこの金持ちの家の門の前に、雨露を凌ぐ家さえもない貧しい者が身を横たえていた、という事実。遊興に耽るため家を出入りする度に、金持ちは門の前に横たわる瀕死の貧しい人に気づく機会は一度ならずあったはず。しかしその姿は金持ちには関心の外にある。台風の中風雨に晒され続ける路上生活者に重なる。

 もちろんこの譬え話の軸となるのは金持ちではなくて瀕死の人である。金持ちには名前がない。しかし門前の路上に横たわる人には名前がある。「ラザロ」がその名前。世の富における事情では対照的な二人。しかし、逝去の後は全く対照的なところに身を置くこととなる。そもそも福音書の中で死後の世界が具体的に描かれる箇所は多くはなく、その点でもこの箇所は異色だ。ラザロは天使たちに宴の席にいるアブラハムの隣へと連れられていく。一方で金持ちは陰府の世界で苦しみながらアブラハムとラザロを遙か彼方に仰ぐ。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」。金持ちの関心事は、単純に自分のことだけだ。まずアブラハムは、この金持ちは生きている間によいものを、ラザロは悪いものをもらっていたが、今ラザロは慰められ、金持ちは悶え苦しむと語る。そしてラザロと金持ちの間には渡ることのできない淵がある、と記される。二人は分断されている。しかしなおも金持ちは食いさがる。「せめてラザロを父の家に遣わし、五人の兄弟にこの場所に来ることがないよう言い聞かせて欲しい」。この求めにアブラハムは「お前の兄弟にはモーセと預言者がある。それに耳を傾けることだ」と答える。「モーセと預言者」とはその時代の聖書を指している。納得しない金持ちに、アブラハムは、仮に復活したとしても、聖書の語るところに無関心であるならば、生き方を改めることはないと説く。
この譬え話で問われるのは、金持ちがラザロに一瞥もしなかったこと、そしてその妨げとなったのが、金持ちには自らの富であったということだ。この話を聞いた「金に執着するファリサイ派の人々」はどのように応えたのだろうか。この人々の姿は、実は後の教会のあり方に対する痛烈な反面教師にもなっている。その時その時の権威に、玉虫色の衣を着ては唯々諾々として従うばかりの交わり。そこには人の欲得や情念はあったとしても、神の愛の力である聖霊への感謝はあるというのか。今の世にあって、わたしたちは心ない言葉を受ける機会も少なくはない。そのときこそ、わたしたちに対して神に祝福された貧しさが問われる時だ。わたしたちが根を降ろすのは神ご自身であり、教会は聖書を通してその事実を受け入れる。ラザロの貧しさあればこそ、わたしたちはお互いに支え合うことができる。陰府にまで降ったイエス・キリストが、かの金持ちをも救ってくださることを待ち望めるのだ。キリストは全ての分断の壁を越えて進む。それがわたしたちの希望となる。勇気を持とう。