2019年10月6日日曜日

2019年10月6日(日) 説教

「泥まみれの姿を祝福する神」
『ルカによる福音書』16章9~13節
説教:稲山聖修牧師


イスラエルの民の歴史は、人々を奴隷生活から解放したアブラハムの神への従順よりも反抗が目立つ。その中でも深刻だったのは「偶像を刻み、それを礼拝する」とのわざ。旧約聖書が「偶像崇拝」という言葉で遠ざけようとしたのは、エジプト王国で祀られていた「金の牡牛」の像だった。「金の牡牛」とは、ファラオを始めとした王国が求める、富や豊かで快適な暮しを象徴する豊穣の神。飢饉や疫病が今よりも絶えず暮しを脅かしていた時代にあっては、それもまた一つの考え方やあり方であるとも言えるが、なぜこのありかたから遠ざかるよう繰り返し聖書に記されてきたのか。それは、人間の定めた目的や果実、成果が絶対化されて、本来は地位や身分を超えて尊ばれなくてはならないはずの「いのちの尊厳」が、いつの間にか人の尺度に基づいて序列化・排除・否定されることを通して危険に晒されるとの理解が、旧約聖書には隠されているからだ。他方でわたしたちは、物々交換の世界に暮らしてはいない。景気も数値でなくては分からないというジレンマを、わたしたちは抱えている。
 本日の譬え話が記されるのは、ローマ帝国による支配が完成された中で成り立つ文書である『ルカによる福音書』。その中にイエス・キリストの語った「不正な管理人の譬え」が記される。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった」。横領との噂が立った財務の管理人。主人は噂の真偽とともに「会計の報告書を出せ、管理を任せるにはいかない」と迫る。管理人はこの時点で自己弁明をせず、その後に身の振り方に思いを巡らす。「主人から仕事を外されるかもしれない。とはいえ額に汗して働く力も無く、物乞いをするほど面子を捨てることもできない」。そこで管理人は早々に自分の解雇を見通して「自分を家に迎えてくれる者」を作ろうと、借用書の改竄を試みる。「油100バトス」。1バトスは23リットルだとされる。この借入料を半分にしようと試みる。「小麦100コロス」。1コロスは230リットルだとされる。これを80コロスに書き換えようとする。公文書偽造は今昔を問わず重大な犯罪のはずだが、主人は管理人の振る舞いを機転として受けとめて評価して解雇せず、告訴もしない。これは一体どういうことなのか。

「会計の報告書を出せ」と詰め寄った主人は、結局は被害届を出さず管理人の手法を褒めた。実はこの譬え話、管理人が何をしたのかという面よりも、主人が関心を寄せていた事柄が要になる。主人には油や小麦といったものは、大切な商品であると同時に消費ないし消耗されていく品目でもある。金銀財宝ではないところが決め手。需要がなければ油は放置され劣化する。小麦も値打ちが下がる。農産物の出来高は年によって決して一定ではない。価格も変動する。そうした損得を主人は見越している。けれども肝心なのは補填や、価格が不安定な品目の証文を、管理人自ら泥を被るリスクとともに書き換え一定の関わりを作ろうとした、というところにある。これには政財界の歪んだ「お友だち」とは紙一重ながら決定的に異なるところがある。それは「自分を家に迎えてくれるような者」を増やすこと。この管理人が求めていたのはキャリアを失ったとしても態度を変えずに関わってくれる友人だ。リスクを冒して暮しを助けてくれた事実は恩義となり、商品としての油や小麦に勝る。この譬え話の流れに則するのであれば、お金や社会的な立場を、主人も管理人も決して絶対視してはいなかったという理解も可能だ。管理人の信用は転じて主人の信用につながる。神の愛はこうして証しされる。
イエス・キリストは経済のみに偏った繁栄の儚さを説く。そして同時に、移りゆく世にあってどれだけ人々と信頼を深め「永遠の住処にいたる喜び」を証ししたかどうかが問われると語る。神礼拝と世にある働きは決して分断されない。その上でイエス・キリストは語る。「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない」。「神と富とに仕えることはできない」との言葉が、16章にある譬え話の結びとして記される所以である。
 わたしたちが根を降ろすのはイエス・キリストに示された神であり、それは旧約聖書では奴隷解放の神となる。この軸がぶれるならば、わたしたちは変わりゆくものと、変わらないものとの見極めを誤り、他者の痛みや苦しみを軽んじては鈍感になっていくだろう。逆にその軸を手放さなければ、この世の尺度だけでは曖昧な雰囲気の示す事柄を、誰にも明らかな確信として授かることができる。社会・経済とも混乱の最中にあるが、何が最も大切なのか。泥を被りながら生きた人々の群像を通して、イエス・キリストが語る言葉に、今こそ耳を傾けよう。