2019年11月3日日曜日

2019年11月3日(日) 説教

『ヨハネによる福音書』3章16~21節
「真理の足跡をたどって」
説教:稲山聖修牧師

わたしたちの世のあり方は一人ひとりのかけがえのない歩みを、交換可能なデータという仕方で、また情報として扱うという一面をもつ。それは現代の情報化社会ではやむを得ないところではある。けれどもその「やむを得ない」ところに胡座をかくならば、わたしたちは神が授けたいのちの尊厳を見失うことにもなる。永眠者記念礼拝で覚えられる兄弟姉妹は一人ひとりがかけがえのない顔をもっており、その人ならではの歴史を世に刻んでこられた方々であるのにも拘らず、である。しかし旧約聖書を重んじ、アブラハムの神との関わりを何よりも大切にする人々は、いのちというものが、自らの思いも含めて決して意のままにはならないどころか、言語を絶する状況の中でもなお特別な役割を託されたと確信した上で、同胞の死にざまだけでなく生きざまをも証言する役目を深く自覚していく。かの人々は僅かな隙間であっても神の授けたもう可能性に賭ける。そして齢を問わずその責任を全うするというところに旧約聖書の民の希望がある。その希望に満ちた眼差しは、神の愛の支配へと向けられ、そして次の世代の人々との関わりをより堅くする、まだ見ぬ未来へと向かっている。

それでは福音書に記されているところの真理について、わたしたちはどのように語るべきであろうか。天に召された兄弟姉妹の歩みに示された道。それは朧であるにせよ、確たるものとして証しされたアブラハムの神の真理であり、イエス・キリストが示された真理であり、人々がそれによって自由にされるところの真理である。『ヨハネによる福音書』3章19節には次のようにある。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行なう者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ないからである」。天に召された兄弟姉妹が歩まれた世がこの言葉に重なる。また同時に、この聖書の言葉はもう一つ大切な事柄をわたしたちに語る。それは「それが、もう裁きになっている」との一節である。わたしたちはもはや世を裁く必要はない。神の刻まれた歴史に手を加えようとする者を、さまざまな偽りを語る者を、誘惑する者を恐れたり、断罪する必要すらない。なぜならば、神が自らの手によってそのような世に介入され、苦しむ者を助けあげてくださるからである。そのような神の愛のわざが、イエス・キリストによって示されている。「しかし、真理を行なう者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。天に召された兄弟姉妹は、各々世にあってさまざまな葛藤や苦悩を抱えて歩まれていった。しかしそれらの葛藤や苦しみが、イエス・キリストにあっては和解と喜びに変えられるのである。




今わたしたちは、天に召された兄弟姉妹とともに礼拝を執り行っている。それは決して懐かしい時代への想起には留まらない。それどころか、イエス・キリストを通して、わたしたちには、天に召された兄弟姉妹と語り合うことまでも赦されており、ぜひともそうするべきである。それは単なる死者との対話ではない。イエス・キリスト自らも、山の上でモーセやエリヤと語り合われたと聖書には記されている。新約聖書の舞台では、モーセもエリヤもその人としては天に召されているが、イエス・キリストは神の栄光のもとで語り合う。それは活ける神の歴史との対話だからである。それはわたしたちもいのちの光の中で再会するであろうところの、復活を約束された、まことに大切な方々との対話である。「イエス・キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり」とわたしたちは使徒信条を告白する。イエス・キリストは古代にあって死者が赴くであろうとされた地の底にまで突き進まれた。生者と死者の深い一線を超えられた。そのわざを確かめながら、わたしたちは死後の世界という幻から、イエス・キリストに照らされたいのちの光のもと、世に遺された真理の足跡をたどる。そこには旧約の民からイエス・キリストを通してわたしたちに拓かれた、活ける真理としての神にいたる道がある。主にある再会を待ち望みながら、召された兄弟姉妹とともに礼拝を守る喜びに、心から感謝したいと願う。主なる神は全ての民を覚えてくださる。そして天に召された兄弟姉妹も、世にあるわたしたち一人ひとりをも覚えてくださる。御自身が愛する民を神が忘れるはずはがない。その記憶が、わたしたちのいのちの喜びを育むのだ。