「真理の足跡をたどって」
説教:稲山聖修牧師
それでは福音書に記されているところの真理について、わたしたちはどのように語るべきであろうか。天に召された兄弟姉妹の歩みに示された道。それは朧であるにせよ、確たるものとして証しされたアブラハムの神の真理であり、イエス・キリストが示された真理であり、人々がそれによって自由にされるところの真理である。『ヨハネによる福音書』3章19節には次のようにある。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行なう者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ないからである」。天に召された兄弟姉妹が歩まれた世がこの言葉に重なる。また同時に、この聖書の言葉はもう一つ大切な事柄をわたしたちに語る。それは「それが、もう裁きになっている」との一節である。わたしたちはもはや世を裁く必要はない。神の刻まれた歴史に手を加えようとする者を、さまざまな偽りを語る者を、誘惑する者を恐れたり、断罪する必要すらない。なぜならば、神が自らの手によってそのような世に介入され、苦しむ者を助けあげてくださるからである。そのような神の愛のわざが、イエス・キリストによって示されている。「しかし、真理を行なう者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。天に召された兄弟姉妹は、各々世にあってさまざまな葛藤や苦悩を抱えて歩まれていった。しかしそれらの葛藤や苦しみが、イエス・キリストにあっては和解と喜びに変えられるのである。
今わたしたちは、天に召された兄弟姉妹とともに礼拝を執り行っている。それは決して懐かしい時代への想起には留まらない。それどころか、イエス・キリストを通して、わたしたちには、天に召された兄弟姉妹と語り合うことまでも赦されており、ぜひともそうするべきである。それは単なる死者との対話ではない。イエス・キリスト自らも、山の上でモーセやエリヤと語り合われたと聖書には記されている。新約聖書の舞台では、モーセもエリヤもその人としては天に召されているが、イエス・キリストは神の栄光のもとで語り合う。それは活ける神の歴史との対話だからである。それはわたしたちもいのちの光の中で再会するであろうところの、復活を約束された、まことに大切な方々との対話である。「イエス・キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり」とわたしたちは使徒信条を告白する。イエス・キリストは古代にあって死者が赴くであろうとされた地の底にまで突き進まれた。生者と死者の深い一線を超えられた。そのわざを確かめながら、わたしたちは死後の世界という幻から、イエス・キリストに照らされたいのちの光のもと、世に遺された真理の足跡をたどる。そこには旧約の民からイエス・キリストを通してわたしたちに拓かれた、活ける真理としての神にいたる道がある。主にある再会を待ち望みながら、召された兄弟姉妹とともに礼拝を守る喜びに、心から感謝したいと願う。主なる神は全ての民を覚えてくださる。そして天に召された兄弟姉妹も、世にあるわたしたち一人ひとりをも覚えてくださる。御自身が愛する民を神が忘れるはずはがない。その記憶が、わたしたちのいのちの喜びを育むのだ。