『ヨハネによる福音書』6章28~35節
説教:稲山聖修牧師
今朝の箇所は、湖の畔でイエス・キリストが五千人に五つのパンと二匹の魚を分かち、人々を満たした出来事の翌日という設定だ。イエス・キリストがパンを分かち合う恵みというハプニング、すなわち奇跡を行なった箇所から物語は始まる。キリストと弟子を求める群衆は、懸命に追い続け、ついには前日の場所からは向こう側の岸辺にいたことを突きとめる。そして語るには「ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか」。
キリストが答えるには「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。キリストを探し求めてきた群衆はその多くが無名であり、従って概ね貧しい人ばかりだ。だからパンを食べて満腹したからキリストを求めたからとしても何ら咎め立てを受ける筋合いはない。けれどもキリストは語る。救い主の訪れであるときのしるしを見なさい!と。そして「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子をお認めになり、証しされたからである」。
イエス・キリストは群衆にさらなるステップアップを求める。それは修行や訓練を前提ではなく、すでにキリスト自らを探し求める道のりに明らかだ。濃密な対話のもと、群衆は問いかける。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。イエス・キリストが答えるには「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。群衆が問うには「それではあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。わたしたちの先祖は、荒野でマナを食べました」。群衆は旧約聖書『出エジプト記』にある、エジプト脱出のただ中で、飢えに苦しむ難民同然の人々に神が食べさせた食糧を想起する。イエス・キリストは答える「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」。イエス・キリストは、食糧を備えたのはモーセでなく、あなたがたの先祖を奴隷の住いから解放したアブラハムの神であると断言する。人々の眼差しをモーセその人から、その人物が生涯を賭けて示そうとした出会いの神、奴隷解放の神へと誘おうとする。群衆は熱心に問いかける。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。キリストが答えるには「わたしはいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない」。『ヨハネによる福音書』19章28節では、この福音書ならではの祈りが込められた、イエス・キリストの言葉が記されている。磔刑にされて絶命する際にキリストが語った言葉は「渇く」であった。イエス・キリストは救い主としての働き全てを通して、出会う人々の渇きを満たし、自ら「渇く者」となった。救い主はそのような苦しみをもって、わたしたちに復活のいのちを備えてくださった。
わたしたちは本日教会のバザーを行なう。確かにバザーの収益は大切だが、それ以上に大切なものがある。それはイエス・キリストに根を降ろす教会の交わりを通して育まれる潤いだ。効率とひき換えに交わりを失った現代の「渇いた時代」に教会はあらゆる仕方で神の潤いを分かち合おうとする。わたしたちは喜びに満ちたハプニングとしての出会いを求めていきたい。今日一日を神さまの愛の力に満たされた素晴らしい日にしたいと思う。