『ヨハネによる福音書』18章37~38節
説教:稲山聖修牧師
そのような農家の人々を始めとした有名ではない人々とイエス様はお話をしたり、外には出られないような病気に罹った人、目の見えない人、耳の聞こえない人の苦しみを癒して回りました。あるときには、生まれつき目の見えない人に出会われたこともあります。畑仕事もできない人でした。お弟子さんはイエス様に尋ねます。「先生、この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。イエス様はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現われるためである」。イエス様はそうやって多くの人を支えたり、励ましたり、病気を治したりしていかれました。けれどもこれが、イエス様の時代の偉い人やお金持ちの人々には気に入らなかったのです。気に入らなかったというより、怖かったといったほうがよいでしょう。なぜならば、イエス様はどんなに立派なお屋敷に暮らしていても、お金をどれほどたくさんもっていても、できないような神様のお仕事を次から次へと行っていきますし、イエス様と出会った人々は、お金持ちの誰よりも幸せそうな顔をしているからです。人々のお腹を空かせたまま、病気のままでほったらかしにする王様よりも、本当の王様はイエス様なのでないかという人も出てきました。偉い人やお金持ちはイエス様がだんだん邪魔になってきました。辛い思いをしている人を励ます言葉でさえ、うるさい言葉としか聞こえなくなってきました。そしてとうとう、やってもいない疑いをかけられて、イエス様は逮捕されてしまったのです。「この人は自分を王様にしたい悪人だ」。多くの人を助けたイエス・キリストは、今度はご自分が助けた人の味わった苦しみをともにすることとなりました。
今日の箇所はイエス様が裁判を受けている場面です。ピラトという人は、ローマの身分の高い、裁判官よりも身分の高いところでイエス様が助けたような貧しい人を王様よりも強い力で支配している人でした。ピラトは尋ねます。「お前はやはり王なのか」。イエス様が答えるには「王様だと言っているのはあなたの方です。わたしは何が正しいのか分かるようになるために生まれました」。ピラトは尋ねるには「正しい事とは何のことだね」。イエス・キリストは黙っていました。なぜかと言えば、ピラトは自分の聞きたいことしか聞こうとしないことはイエス様には分かっていたし、苦労しながら麦を育てたり、あまりにも貧しくて麦を育てることもできない人の話など、お屋敷に住んでいるピラトが聞くはずもないと分かっていたのかもしれません。ピラトはとうとう「この男には何の罪も見いだせない」と言う始末でした。ピラトはイエス様が悪いことを何もしていないと認めてしまったのです。それではなぜイエス様は十字架にかけられてしまったのでしょうか。わたしたちが長い時間をかけて祈り考えなくてはならないことです。
イエス様は苦しんでいる人々の苦しみや悲しみを背負うためにこの世にお生まれになったと聖書には書いています。みなさんは一日何度食事をしますか。それも食べられないおともだちがわたしたちのすぐ隣に暮らしています。今朝の礼拝で献げてくださった食べ物はそのおともだちと分けあいます。どうかそのおともだちを心から尊敬してください。そのようなイエス様のお仕事が、わたしたちにも任されているのだと思い起こしましょう。