『イザヤ書』52章7~10節
説教:稲山聖修牧師
66章からなる『イザヤ書』。この書物は概ね三部に分かれる。1章から39章まではエルサレムが滅亡にいたるまでの40年間のイザヤと呼ばれる預言者の言葉、40章から55章まではバビロン捕囚期に活動した第一イザヤに連なる預言者の言葉、そして56章から終章まではバビロン捕囚の後にエルサレムへと帰還し、その地で直面した新しい課題に向き合いながら、イスラエルの民を超えて異邦人へと広がりゆく神の国の訪れを決定的な希望として語った言葉が記されるという。今朝味わうのは抑留されていた時代を背景とした文章である。
「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられたと、シオンに向かって呼ばわる」。抑留の地において、この預言者は喜びの訪れを語る。「良い知らせを伝える者の足」。遣わされた使者のメッセージは「よい知らせ」。「福音」という言葉元来の意味はイザヤ書にあるとおり「よい知らせ」だ。その知らせは何に繋がるのか。それは「平和」であり「救い」。そしてその平和と救いは「あなたの神は王となられた」という堅く結びつく。そして「あなたの神は王となられた」。「王が神となった」のではなく「神が王となった」。この言葉にはこれまで犯し続けてきたイスラエルの民の過ちの歴史が暗示される。
出エジプトの旅が終わり約束の地に入り長い月日が経ち、サムエルという人物が人々を導いていたそのとき、イスラエルの部族には異邦の民の干渉を招く内紛が数多くあった。その中ではサムエルの息子もまた「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」。現状打開のために長老たちは中央集権的な政治体制の象徴でもある王を求めるが、サムエルにはその言い分は悪と映った。祈りの中でサムエルは聴く。「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」。『サムエル記上』8章では、このありようが同書に描かれるイスラエルの民の過ちの端緒として記される。この過ちを踏まえてこその「あなたの神は王となられた」との言葉。それはイスラエルの民の態度の転換だけには留まらない。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。抑留の地から遠く、廃墟となったエルサレムに希望が語られる。うち捨てられたその街には絶望や嘆きではなく、喜びが戻るのだ。
旧約聖書の物語には、過ちを犯した民を救おうとするとき、神は天使を派遣して人々を精査するというパターンがある。しかしもはやそのような精査は不要である。バビロン捕囚そのものが民の過ちを示しているからだ。人々は粉々に砕かれている。この絶望のただ中で、神の遣わす唯一無二の救い主の訪れが待望される。
バビロン捕囚という、言葉にできない悲しみと囚われの中で、イスラエルの民は自らは鎖に繋がれたまま、なおも神が備えたもういのちの希望のメッセージに耳を傾けた。「平和と恵みの良い知らせ」に包まれ希望を備えられた。現代のわたしたちはバビロン捕囚ならぬ、利己主義と虚構に溢れたエゴイズム捕囚の中にある。見えない鎖で自分自分をがんじがらめにしては責任転嫁を平然と行なう。その頑なな心を、飼い葉桶に安らう乳飲み子イエス・キリストは「弱さ」という力でもって見事に打ち砕く。そして廃墟に重なる荒んだ心に「ともに喜び歌え」とのメッセージを届け、隣人との交わりの扉を開く。この喜びに包まれて礼拝は献げられる。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と『詩編』で詩人が語るように。神の前に崩れ落ちて胸を打ち叩いて悲しむ人々の祈りが、喜びに変わる。その出来事が救い主との出会いの中で起きる。今、この時代。待降節の中、キリストとの出会いを待ち望み、祈らずにはおれない。