『ヨハネによる福音書』1章19~24節
説教:稲山聖修牧師
『ヨハネによる福音書』では、イエス・キリストは神の御子であり、神の言葉であるとの理解に立つ。言葉は全く異なる他者相互の交わりを可能にする、今のところは人間のみに見られる特質だ。互いにへりくだって相手の言葉に耳を澄ますのであれば、言語が異なっていても次第に相手の事情が分かるが、反対に自己主張の衝動に捕われると、同じ言語を用いていても話が噛み合わなくなる。旧約聖書の『創世記』に記された「バベルの街」がよい例である。住民は日干し煉瓦を焼き、新たな煉瓦を発明する。技術革新に伴う人々とは「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」。根拠も必然性もない、右肩上がりの妄想に突如憑りつかれた人々がそこにいる。ともすれば天を超えていこうと勢いづく人々には謙遜さがない。その結果人々は街を造りの最中に互いの言葉に耳を傾けなくなる。主なる神が人のもとに降りてきて呟くには「我々はくだって行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしよう」。その結果、言葉が混乱して意思疎通が不可能になるという物語。そのような人の破れの只中に飛び込んできたのが神の言葉イエス・キリストだ。「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。あたかも荒れ野に神を讃美する幕屋が張られるように、人の荒んだありようの中に宿り、修復しがたい神と人との交わりを新たにする。
さて『イザヤ書』と同じく待降節に味わわれる預言者の書に『ミカ書』5章1節がある。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中からわたしのために、イスラエルを治める者が出る」との言葉。この言葉が『マタイによる福音書』では次のように書き換えられる。「お前はユダの指導者の中で決して一番小さい者ではない」。福音書の書き手はなぜこのように語り得たのか。それは洗礼者ヨハネからいのちのともしびを手渡されたイエス・キリストこそが救い主だとの深い確信を得ていたからであろう。想定外の、圧倒的な神の恵みを前に、わたしたちは直ちに喜びに包まれるのではなくて、正直なところ、戸惑いや混乱からは逃れられない。その状況は今まさにわたしたちの歴史のただ中で多くの混乱として生じている。しかしその混乱は、ひょっとしたら新たな時代をもたらす地殻変動でもあるかもしれない。その中でまことの力をもつのは、「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神がわれわれと共におられる』という意味である」と記されるイエス・キリストのいのちの輝きだ。わたしたちの混乱に先行して、混沌とした世に道を備える神の愛。飼い葉桶に眠るインマヌエルの神から発するいのちの輝きに全てを委ねて歩みたい。