『ルカによる福音書』2章8~21節
説教:稲山聖修牧師
『ルカによる福音書』ならではの特性。それは序文で福音書が成立するまでの経緯、そしてテオフィロという人物に献げられている事実が率直に記されているところにもある。
テオフィロは皇帝に謁見が許されるような立場のローマ帝国の官僚だったと言われる。『ルカによる福音書』の書き手はローマ帝国の支配を否定しない。けれどもその筆が世の力に媚売ることはない。母マリアが救い主を身に宿したその喜びを歌う「マリアの賛歌」では「主はその腕で力を振い、思い上がる者をその座から打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」とある。ローマ帝国から人間扱いされなかった人々には喜びの知らせ。
しかし政治権力の中枢におりながら保身に流れがちな人々には身震いせずにはおれない言葉である。『ルカによる福音書』では、イエス・キリストが、その誕生のときからローマ帝国に対する勝利をすでに手に納めているかのような文体で記すところが、同じクリスマス物語でも『マタイによる福音書』とは異なる。『ルカによる福音書』が描き出すのは、世の力であれば、それがローマであろうとエジプトであろうと到底果たすことのできない神の支配が御自身の全き愛に根ざすこと、そしてその神の支配の完成のために、ローマ帝国でさえも「ただの器」として用いることも捨てることもできるという「神の全能」である。
その働きを端的に示すのが本日の箇所。羊飼いたちがそこにいる。救い主のもとに携えてくる贈り物は、その手にはない。それどころか、羊飼いたちは住民登録すら行なわない。ヨセフやマリア、ザカリアやエリザベトには名前があるが、羊飼いたちには名前がないのだ。ローマ帝国という巨大な国家組織においては、人と人とがその名によって呼び合う関わりは稀であった。羊飼いたちは人としてまともに扱われてはいない。しかし、そのような事情の中にあるからこそ、主の天使が真っ先に神の栄光の輝きの中につつみこむのだ。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。「あなたがた」と呼ばれるのは無名の羊飼い。この羊飼いたちが、ローマ帝国の民全体を代表している。天使に語りかけられているのはローマ皇帝でも、ポンテオ・ピラトでも官僚のテオフィロでもない。貴族に天使が現れたところで、いったい誰が受け入れるというのだろうか。
それでは羊飼いたちが出会う救い主はどこにいるのか。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。飼い葉桶の乳飲み子。家畜の餌桶に眠る乳飲み子がメシアであるという。その姿こそが世にお生まれになった救い主の姿である。ローマ皇帝を頂点とし、家畜小屋の餌桶をどん底とする世の力が、今や神への讃美によって一刀両断される。神の愛の圧倒的な力により、羊飼いたちは鎖から解放される。夜通し羊の番をするという過酷で強いられたありようから解き放たれ、喜びあふれ自ら歩みだす羊飼いたち。どのような術をとったのかは一切関心が払われず、羊飼いたちはマリアとヨセフ、そして飼い葉桶の乳飲み子を探しあてる。そして「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」。我知らずして羊飼いたちは、救い主の誕生を告げ知らせる宣教のわざを担うにいたった。羊飼いたちは宣教のわざを、乳飲み子に献げている。世の役目を留保してでも、羊飼いは救い主の誕生を証しする。飼い葉桶の乳飲み子を軸にして開かれた垂直線が、人々とのつながりの中で地平線へと延びていく。垂直線と水平線が飼い葉桶の乳飲み子において交わり、それはいつしか十字架のかたちとなる。
「テオフィロさん、あなたはこの喜びを味わったことがありますか。もし知らないのであるならば、わたしたちの交わりに是が非でも加わってください」と語りかける不可能な事柄を可能にする、覚悟と勇気に根ざした喜び。その喜びは今、時を超えてわたしたちにも届いている。イエス・キリストの誕生を心から祝おう。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。クリスマスの希望と喜びをひしひしと感じる。