『ヨハネによる福音書』5章34~40節
説教:稲山聖修牧師
「主は国々の争いを裁き、多くの民を誡められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち砕いて鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。アドベントによく味わわれる『イザヤ書』。この言葉を始め、『イザヤ書』は福音書の形成に大きく影響を与えている。思えばイエス・キリストの誕生は、旧約聖書とは不可分であることに、日本人の誰が気づいているというのだろう。
『ヨハネによる福音書』の中で記される、イエス・キリスト自らの証しが今朝の箇所だ。「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」。この福音書の中でキリストを示す一本の指としての存在感を示すのが洗礼者ヨハネだ。勿論福音書の著者の名前とは別の人物であるが。それにしてもなぜ繰り返し洗礼者ヨハネが際立たされるのか。直接の読み手として想定されたギリシアの世界観の影響を色濃く受けた人々が、神という言葉を恣意的に用いて救いに関する考えを妄想するのを止めさせ、旧約聖書とのつながりを強調するためではないだろうか。出エジプトの出来事はおろか『イザヤ書』すら知らない人々のために「最後の預言者」として初代教会が周知していた洗礼者ヨハネを際立たせ、人間の想念の産物としての神ではなく、歴史に具体的に働きかけ、一人ひとりと出会われるアブラハムの神が遣わした救い主として、世の全てのいのちが愛されていることを徹底的に強調するためだと思われる。
『ヨハネによる福音書』の背後には、神の名を用いて世のありかたを否定したり、身体が諸悪の根源だからといって蔑む考え方が無数にあった。そのような考え方に影響された場合、世の終末に教会組織に属する人々は救われ、それ以外の人々は滅びるというような歪んだ選民思想が生まれることもある。『ヨハネによる福音書』は、人が勝手にその名を用いることのできる「想念としての神」を論じるのではない。歴史に働きかけ、具体的な出会いをもたらすハプニングを創造するところの、イエス・キリストを通して働きかける神である。そしてその神は世がどれほど過ちや破れに満ちていたとしても、しっかりと抱きしめてくださる神でもある。その神の現臨がイエス・キリストにすべてを託された。だから次の言葉が記されるとも言える。「わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」。「燃えて輝くともし火」に表されるのは、自らを燃やしてあかあかと燃えて世を照らす、かがり火のようなものであったろう。人々はその明かりに向けて集まり、船はその光を見て陸に近づいたことを知る。それは世を否定するための炎ではなくて、人々に安らぎを与えるための炎であった。洗礼者ヨハネはこの炎。もちろんこの炎とて放置しておけば弱まり、消えてしまう。だからこそ「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」と語る。そこでは神は「神(God)」としてではなく、「父(Father)」として語られる。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになったわざ、つまり、わたしが行っているわざそのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。父なる神は、自らを知らない諸国の人々にさえ、温かな関わりを求めておられる。
聖書を知りながらもイエス・キリストの姿を歪曲したり否定しながら読み込む人々が『ヨハネによる福音書』の成立した時代にもいた。むべなるかな。自分に迫るいのちの輝きには、時に人は堪えられない。アフガニスタンの復興に献身された中村哲医師が生涯を全うされた知らせを聞く。かの国では大統領も棺を担いだが、日本でその生き方に正面から向き合おうとする政治家は何人いるのだろう。また教会の群れの中にも、この世の否定のため、この世の何か好ましくないものを否定するために、神という言葉を濫用する姿もある。社会との関わりはその姿にはない。しかし、旧約聖書に記された神は人間にどのように向き合ったか。自らとの約束を破り、楽園を追放されるアダムとその伴侶にさえ「死んではいけない」と皮の衣を着せられる愛をお持ちの方なのだ。その愛がイエス・キリストの降誕によって鮮やかに示され、「わたしのところへ来なさい!」と今なお招く神の姿が浮かびあがる。洗礼者ヨハネが示したイエス・キリストの誕生の出来事を感謝したい。いのちをともに授かろう。