「祈りは必ず聴かれる」
説教:稲山聖修牧師
今朝の「やもめと裁判官の譬え」には、義しい人の姿はどこにも描かれない。むしろ職務本来のあり方からはかけ離れた、「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」が軸になる。この裁判官は18章5節では「不正な裁判官」とさえ言われる。実はこの「不正」という言葉が聖書もの用いられ方を考えると本日の聖書箇所は実に興味深い展開を秘めていることが分かる。
もとより「不正」という言葉が裁判や裁きにあたって用いられる場合、それは裁判に寄せられる信頼そのものを台無しにするわざとなる。『サムエル記』で先見者サムエルは老いて後、自らの務めを二人の息子に託する。しかし二人の息子は「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」ある。『サムエル記』の「不正」は批判されるべき、糾されるべき「不正」であり、堤に空いた穴のような扱いとなる。これが民の不信を招き、イスラエルの民は神との契約よりも王を絶対視するあり方を選ぶ。滅びへの序局となるのがサムエルの息子の不正だ。
「この不正な裁判官の言いぐさを聴きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。神とのまじわりの中で、生きづらさや傷みを抱えたところのやもめの訴えに耳を傾けた不正な裁判官は、その不正さのために神に用いられるという逆転が起きる。イエス・キリストのリアリズムがこの箇所には描かれる。
思えば毀誉褒貶、世の中の様々な評判は絶えず移ろう。その評判に基づいて善悪が振りかざされたとき、人間は時として邪悪な姿を露わにする。不正ではなく「邪悪」である。なぜならその判断基準は時として思い込み、即ち予断や偏見に基づく場合が殆どだからだ。神の愛を証しした人々の多くは、必ずしもその時代からはよい評判に包まれていたわけではない。名声が目的ではないからだ。「神の正しさ」は、世にあっては指差されることからは決して逃れることはできない。公民権運動で知られるキング牧師や、メキシコシティーオリンピック銀メダリストのピーター・ノーマン、また杉原千畝の生涯というものは、世の人の目からすれば、ただちに幸せだったと言えるだろうか。