2019年9月8日日曜日

2019年9月8日(日) 説教

ルカによる福音書 13章31~35節
説教:「親鳥が雛をつつむように」
説教:稲山聖修牧師



人間は実に身勝手なもので、前向きな展望を抱けなくなると、次は異なる文化や言語を用いる人々を蔑んで、本来の課題から目を遠ざけようとする。本日登場するファリサイ派の人々は、その時代のユダヤ教のグループの中でも『律法』や『預言者』といったその時代のユダヤ教の聖書を解き明かし、一般には尊敬を集めていた人々だ。イエス・キリストに論戦を挑む一方で、今朝の箇所ではいささか立ち振る舞いの趣が異なる。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。クリスマス物語に登場するヘロデ大王の息子、領主ヘロデ。洗礼者ヨハネの首を刎ねたあの男だ。元来ヘロデの一族は、イスラエルの民の歴史に連なる正当な王朝を乗っとり権力を手にした家系に属する。だからファリサイ派の本流には本来は不倶戴天の間柄。だからイエス・キリストの身の危険を察知したファリサイ派の一部の者たちは、尋常ならざることだとキリストのもとに駆け込んでくる。
しかしイエス・キリストは、迫る身の危険を伝えにきたファリサイ派を、メッセンジャーとして用いる。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にはすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」。「狐」とは狡猾な領主ヘロデのあだ名。キリストの語った言葉は、その清廉潔白さを伝えるだけではなく、かつて首を刎ねた洗礼者ヨハネのわざを、イエス・キリストが継承しているとの事実を突きつける。これは領主ヘロデを恐怖のどん底に陥れたに違いない。「三日目には全てを終える」との言葉は「三日目には全てが完成する」との解き明かしも可能だ。即ち、人の子イエスが救い主として託されたわざは、復活によって完成するのであり、ヘロデがいくら首を刎ねたところでそれは恐るるに足らずという挑戦的な言葉としても響く。

けれどもその身を慮って訪れたファリサイ派の人々に向けたキリストの言葉は「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないからだ」。神に備えられた道を歩むイエス・キリストの「決断」である。イエス・キリストが赴くところは権謀術策の渦巻くところ、そしてキリスト自らを冒涜する人々さえ待ち受けているところの都エルサレムだ。裏通りに入れば物乞いや病人がたむろするその一方で、力を手にした人々がきらびやか、かつ、わが物顔にふるまうという、旧約聖書に記された姿からはほど遠い街となったエルサレム。一体そこで何が起きたというのか。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとはしなかった」。イエス・キリストは決してエルサレムを否定することはなかった。人の子イエスの時代には、エルサレムはローマ帝国の支配下にあり、神殿の存続も最終的にはローマの政治的判断に依っており、大帝国の支配を受け入れた有力者の場でありその象徴にすらなっていたのにも拘らず。神の前に立つならば、重篤な病に罹ったこの都を、キリストは決して見捨てない。イエス・キリストは文字通りその身を神の言葉として、その過ちに満ちた態度を改めさせようと呼ばわってきた。けれどもその言葉は尽く拒絶されてきたのである。もはやエルサレムは詩編で歌われるような聖なる都ではない。考えようによっては『創世記』のソドムの街よりも深い病に罹っていた。イエス・キリストは、そんなエルサレムになおも分け入ろうとする。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を調えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。これは葬儀の式文にも用いられる『ヨハネの黙示録』の言葉だ。イエス・キリストはわたしたちの暮しの中に分け入る。そして神の愛の力であるところの聖霊の働きは、汚れてしまったわたしたちのありようを全て明らかにしながらも、わたしたちの破れを包んでくださる。聖書の言葉でしか癒されない夜もあるだろう。日本に在るキリスト者としての証しのわざ、在日キリスト者としての働きが、各々の場で試される時代を迎えようとしている。エルサレムならぬ、この地において。