2019年9月22日日曜日

2019年9月22日(日) 説教

『ルカによる福音書』14章25~33節
「キリストに委ね、腰を据える」
説教:稲山聖修牧師

 本日の箇所ではイエス・キリストが係累との断絶を勧めているかのように響く。誤解される箇所の一つだ。
「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、こども、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない。自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではあり得ない』」。もしも係累との絶縁を中心にして理解するのであれば、御言葉に聴き従う歩みは困難になるどころか、結局は教会のあり方にも歪みがもたらされる。聖書に記されなくても今の世には家族をめぐる深い絶望がある。親が子を殺め、子が親を殺めるという、旧約聖書に記された眉をひそめるような物語が、現実の出来事としていたるところで起きている。聖書には放蕩息子という言葉がある。他方で身近なところでは、わが子に心身にわたって依存するところの毒親という言葉さえ生まれている。そのようなところでは、単に係累を絶つという話ではキリストの証人にはなれない。そう思い込んでいる集団があれば、もはやカルトだと言ってよい。

先ほどのイエスの言葉は、続く物語から極めて深い思慮に根ざしていることが分かる。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに充分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない」。
イエスは塔の建築と戦争の講和を弟子の資格の条件に譬えて語る。建築の譬え話では建築に関わるコストの話が中心となる。戦争を譬え話に出す場合、勝利が見込めない戦をいかに講和に導くかという話をする。犠牲を出さずに平和を実現するためには私怨に走ってはならない。どちらの場合にも求められるのは私利私欲や私的な存念に基づく短慮ではない。あくまでも公共性を伴う長期的な展望が必要だ。神の公共性を世に現わすのであれば何を第一にするべきなのかを腰を据えて祈り、考えなさいとキリストは語っているのではないだろうか。

 こと公共の問題になれば、わたしたちは一旦、家族の事柄を神様に委ねてテーマに集中しなくてはならない。勿論、私的な満足感や充実感を犠牲にしてであっても、担うべき課題に向き合い、ことの優先順位をつけなくてはならない。この公共性という考えは、わたしたちには共有するのが実に困難である。儒教道徳の影響の強い国々では、どうしても家族親族のためにという気持ちが公共性に先んじてしまうという歴史があるが、それはわたしたちも例外ではない。本来ならば公共性を伴う事柄を家族親族、またはごく親しい間柄の「お友だち」で独占しようとする。その結果、その狭い枠から外れていくところの人々への関心が希薄になる。「教会は敷居が高い」という言葉は「お上品に振る舞っている人ばかり」という意味というよりは、むしろキリスト教の衣装を纏っていても、その内実は家族親族や「お友だち」の交わりであったり、内輪しか顧みないという、世界のどこにでもあり得る出来事が、聖書との関わりで一段と際立たされているからではないだろうか。
そのような壁や限界を突き崩し、新しい風を吹かせるために必要なのは、眼差しをイエス・キリストに集中するという態度だ。それがわたしたちにはまことに決定的な問いとなる。わたしたちのありようは、十字架のイエス・キリストの眼に適うものなのか。この不断の問いかけと確認があればこそ、わたしたちは分断された家族関係の中で嘆くほか無い人の悲しみや、家族が崩壊してなおも懸命に生きようとする若者の勇気に、向き合うことができるのはないだろうか。地縁血縁を問わず広がっていく神の家族のあり方は、老若を問わず孤独に苛む人々の希望となる。時の経過の中でわたしたちの身体だけでなく家族の関わりも変容するが、わたしたちは恐れてはならない。キリストに委ね、腰を据える中で、必ず道は拓ける。