2021年6月18日金曜日

6月20日(日) 礼拝(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

説教:「主にある家族の和解」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』5章21~26節
(新共同訳7頁)
讃美歌:399, 300, 543
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。


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【説教要旨】
 「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」。『旧約聖書』『詩編』133編に記された言葉です。この言葉を白樺派の作家・武者小路実篤は「仲良きことは美しきことかな」との言葉にして受け入れ、用いていました。しかし不思議なことに、先ほどの『詩編』の祈りが礼拝で献げられなければならなかった背後には、血縁ないしは係累での争いが、『旧約聖書』の物語でも、そしてイエスの時代の人々の間でも絶えなかった現実が窺えます。思えば『創世記』に描かれる家族の物語は、決して幸せにあふれた一家に始まりません。天地の創造主なる神の似姿として創造されたはずの人に授けられた兄と弟。畑を耕すとされたカインは、牧畜を営む弟アベルの献げものに神が目を留めたのが赦せず、弟を殺害してしまいます。「罪」という言葉はカインとアベルの物語で初めて登場します。家族の殺害という戦慄する出来事に始まる物語が、ようやく族長物語のアブラハム・イサクを経て、ヤコブとその息子たちの物語にいたり、『創世記』の最後の場面で和解に及びます。続く『出エジプト記』におきましても、神の言葉を預かるモーセに比較するならば、兄アロンはどこか頼りなく、神に逆らう民衆の声を諫めることができません。そして混乱期を経てサウル・ダビデ・ソロモンという三代にわたるヘブライ王国の国王にありましても、とりわけダビデ以降は家族の諍いが神に対する昂ぶりと同時に生じ、国の混乱をもたらしてまいります。
「血は水よりも濃い」がゆえに絶えない争い。だからこそ、その現実のただ中でイエス・キリストは本日の言葉を語ります。「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。「最高法院」とはエルサレムの神殿で招集された議員によって行われる古代ユダヤ教の司法で最高の権限をもつ議会を指します。さらにイエスは「火の地獄」という言葉を、死後の世界にではなくわたしたちが暮らす世に重ねます。だからこそ、神に献げるべき献げものは、絶えず和解の実現とその感謝でなくてはならないとイエス・キリストは語るのです。
 思えば『旧約聖書』の世界では、アブラハムの神と異なる神々を崇める人々でさえ、最初の人アダムとの係累として理解されました。何よりも血縁が重んじられた時代にありましては、係累は争いの火種であると同時に、人々がお互いを滅ぼす一歩手前で立ち止まる、対話の契機ともなり得ました。『ヨシュア記』以降、しばしば神の名による虐殺が命令されるという記事が『旧約聖書』には描かれますが、翻ればその記事は、人は神の名を借りなければ残酷にはなれないことの証しであり、だからこそ全ての神の命令の中で尊ぶべき十戒に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と刻まれているとは言えないでしょうか。
 ときにはイスラエルの民とパレスチナの先住民ならびに異邦人との争いが赤裸々に記される『旧約聖書』。だからこそ人々は救い主の訪れを待ち望み、救い主イエス・キリストの訪れを、喜びとともに讃え、歌い、争いの念を鎮めていったのではないでしょうか。福音書にあってイエス・キリストは、どのような諍いがあろうとも、その諍いを癒してまいりました。「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」。身の回りにある家族の諍いは、和解に向けてのお互いの理解のために実に長い時を必要とする場合もあります。ふとしたきっかけの中で、それまで歩み寄れなかった家族の痛みに、全く異なる場所と全く異なる時間の中で気づかされ「愚かであった」と涙するときもあります。もっと早く事情が分かっていればと流す涙。それは、わたしたちの身近なところで起こる事々だけでなく、民同士の争い、国同士の争いに重なるとは言えないでしょうか。どのような激しい戦があったとしても、その次の世代、そしてさらにその次の世代にあっては、お互いが憎しみの情念から解放されて、神の御前に感謝の備え物を献げられるはずです。涙がこぼれ落ちそうになったら、怒りに震えるその中に置かれたら、わたしたちは天を仰ぎたいと願います。昼は虹、夜は星々を見つめながら、イエス・キリストと出会った人々は「被害者になったからといって、加害者になってよいとの話はない」と思ったに違いありません。他人のせいにせず、加害者が減れば被害者も減るという態度の転換を、神の愛の力は後押ししています。家族の和解はその中で生まれます。祈りましょう。

2021年6月11日金曜日

2021年6月13日(日) 礼拝(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「よろこびは見知らぬところへ」 
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』5章13~16節   
(新共同訳6頁)

讃美:247, 321, 543
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【説教要旨】

 あるところに旅人がいました。旅人は商いをなりわいとしており、ロバには負いきれないほどの荷物を背負わせています。忍耐強いロバといえども長い間この荷物を背負って旅するにはむつかしく、足取りもおぼつきません。とうとうロバは橋から川へと落ちてしまいました。けれどもロバは気持ちよさそうに水に漬かっています。ロバの荷物は塩。荷物は水に溶けてしまったのです。これはイソップ童話の「塩を運ぶロバ」の前半部分です。

 そのような日常は『新約聖書』の世界でも、さほど変わらなかったことでしょう。聖書の世界では塩は金と取引されていたとも言われています。ローマ帝国の兵士には塩を買うためにサラリウムという名の手当が支給されていました。海水から塩を作るわざのないところでは、岩塩を掘削する、またはローマ帝国が規制をかけて民間での扱いを禁じ、各々の属州で定めた価格に従っての専売制が実施されていたと考えられます。不可欠なミネラルを合成する術を人々は知りません。しかし本来は塩は全ての人々に開かれた大地の宝。わたしたちの見知らぬ人々を支えていきます。

 塩をめぐる厳しい現実を知りながら、イエスが語る「地の塩」の譬え。これは大地の恵みが誰にも独占されない宝であることを指し示すとともに、管理が実に困難であった当時の塩について語っています。粉上の塩として持ち運ぶのはあまりにもリスクが大きすぎます。硬い岩塩の塊そのままのほうが当時の保存技術を考えるならば便利です。しかしそれが風化したり湿気を吸って劣化するならば「塩気のない塩」にもなり得ます。奴隷であったイソップが示す日常と大差のない世界が描かれます。

 続いて「あなたがたは世の光である」とイエスは語ります。「山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして桝の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」。塩に続く譬えは「「ともし火」。古代社会で屋内を照らす際にローマ帝国の時代には獣脂のロウソクかランプが用いられていました。ロウソクとランプの区別は当時はっきりしていませんが、家の中のものすべてを照らせるともし火とは尋常ではない輝きです。当時の技術では全く不可能。しかしそれはわたしたちの見知らぬところへも及ぶのです。

 しかし本日の聖書の箇所で重要なのは以上の説明ではなく「地の塩」「世の光」としての働きが誰に呼びかけられているのかというところ。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。これは「優等生になりなさい」との訓話ではありません。もともとは病気や患いを癒された、ガリラヤ・デカポリス・エルサレム・ユダヤ・ヨルダン川の向こう岸といった海の者とも山の者とも分からない者すべてをつつむ「大勢の群衆」との言葉。その中からイエスに従った弟子に向けられています。弟子と群衆とは身の上としては何ら変わりがありません。そのような人々に人の子イエスは塩という神が備え給う値、屋内をくまなく照らすともし火となる上質のオイルとしての値を備えているというのです。わたしたちはこの箇所で言う「立派な行いをする人」を「偉い人」と勘違いをしてきたのではないでしょうか。神との関わりを忘れて「誰に語りかけられたのか」を読み飛ばしてしまうのです。形ばかりの立派な行いには得てして闇が隠されています。祈りなき善良さも、他者を深く抑圧し、排除する力へと変わり果てていきます。

 ですから「立派な行い」とは、人々の目を引くわざばかりを示しているのではありません。誰よりもイエス・キリスト自らが、人の目に適う「立派な行い」ばかりをしていたのであれば、十字架で処刑されはしなかったでしょう。この箇所でいうところの「立派な行い」とは、その時代の身分の貴賎や貧富を問わず誰にでも開かれたわざであり、だからこそ言い逃れのできないという意味ではまことに厳しいものです。使徒パウロによれば、それは神の愛から生まれます。そして今のような様々なわだかまりが渦巻く中では「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(『ローマの信徒への手紙』12章8~21節)と響きます。わたしたちを取り巻く世界にはやり場のない怒りが渦巻き、些細なことで争いが起きては流れる涙があります。神を讃美する礼拝によって注がれる喜び。山上の垂訓でイエスが祝福した弟子を送り出した群れに連なるわたしたち。地の塩・世の光として祝福された者です。キリストに従う道をあゆみましょう。

2021年6月4日金曜日

2021年6月6日(日) 礼拝(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「キリストの証し」
説教:稲山聖修
聖書:『使徒言行録』17章22~34節           
(新共同訳248頁)

讃美歌:298, 333, 543
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【説教要旨】

 『使徒言行録』には神の愛の力である聖霊に押し出された使徒の働きが記されてまいります。その中でもひときわ異彩を放つのがパウロ。血気盛んなファリサイ派の律法学者、すなわちユダヤ教の教えを解き明し、人々に伝えるために研鑽に励んでいた若き日のパウロ、すなわちサウロはその熱心さが昂じてイエスは救い主であるという声の中、喜びにあふれた人々を次々と拘束しては殺害者の手に渡していきました。「救い主はまだ訪れてはいない」とするユダヤ教の立場からすれば、救い主はイエスとしてわたしたちのもとに訪れたと喜ぶ者は「誤った思い込みに心酔する狂信者」としか映りません。サウロと名のっていたころのパウロはためらいを見せずに、身体の特性を問わずに喜びに包まれる人々を、あたかもそれが当然であるかのように人知れない集会所から引きずり出していったのでした。福音書にはイエスに癒やされ、満たされ、交わりを新たにされた人々の名前は全員が必ずしも記されません。「群衆」として歴史にうごめく人々に、いのちの光が宿され喜びにつつまれます。その光あふれる交わりに殺意の闇とともに立ち入ったのが若き日のパウロ。そのようなパウロが「なぜわたしを迫害するのか」とのキリストの声を聞き、神の愛である聖霊が注がれる中、地中海を囲む地域に福音を遍く伝えてまいります。途中さまざまな困難に遭遇するなか、出会う人であう人はパウロの証しするメッセージに目の当たりにし、また耳を傾けては深くそのあり方を問われました。

 『使徒言行録』の物語には共通する道筋が幾つかあります。その一つとして、パウロを始め使徒が赴くところでは必ず混乱が生じるところです。混乱の中、使徒を退けようとする動きもあれば、メッセージに深く感銘を受けてキリストに連なる確信を公にして洗礼を授かるという動きも生まれます。また、使徒が人の目からすれば当初の目的を果たし得ず失敗にしか見えない状況の中で、キリストの交わりに連なる人々も出てまいります。その意味で言えば神の愛の力であるところの聖霊の働きは縦横無尽です。使徒自らにもはかり知れないところで神の愛のわざが及びます。

 本日の聖書の箇所では、パウロが古代ギリシアの都市アテネを訪ねる中で起きた出来事が記されます。ギリシア哲学の源泉となった都市アテネにはその時代、エピクロス派やストア派といった時代を代表する知識人が数多くおりました。書物を読みふけり対話を通じて真理を探究するという、上辺からは浮世離れした人々にも思えますが、彼らを支える労役の殆どは奴隷が担っていました。だからそのような日常が可能でした。パウロはアレオパゴスという公の広場で、そのような人々に訴えます。「アテネの皆さん、あらゆる点であなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」。パウロの語りかけはアテネの人々の問題を指摘するところからは始めません。あくまでも相手の受容から始めます。人々はパウロの声に耳を傾けながらも、その話が「死者の復活」に及ぶと、ある者はあざ笑い、ある者は「いずれまた聞かせてもらおう」と聞く耳を塞ぎます。「それで、パウロはその場を立ち去った」との場面に限るならば、パウロの証しは失敗したとみることもできましょう。けれどもその中で「彼について行って信仰に入った者」が何人かおり、アレオパゴスの議員ディオニシオ、ダマリスという女性、その他の人々もいたと『使徒言行録』は記します。人々に仕えた奴隷もいたことでしょう。パウロのわざは決して虚しくは終わらなかったのです。

 パウロの生涯をたどりますと、あらためて「キリストの証し」とは一体何だろうかと考えます。世にあって成功すること、願いが叶うこと。身を立て名をあげ、教会のわざに時と労力を費やすこと。「神の恵みによってこのような場に立った」との言葉ばかりを語ることだけが証しであるとわたしたちは勘違いしています。成功体験にすがる、功利主義的な考え方が幅を利かせるならば、わたしたちは聖書に記された神の愛のまことの証しを見失うことでしょう。このような考え方とは正反対のところにキリストの証しはあります。「愛がなければ無に等しい」。それは病の中にあり、失敗の中にあり、争いの中にあり、行き先の見えない現状にいらだち、嘆き悲しみに暮れて肩を落とす中で、なおも神の愛を忘れず、祈りを忘れないのであれば、あらゆることがキリストの証しとなって人々に示されます。パウロはその伝道を実質的には軟禁状態の中で全うしていきますが、若き日に立てたキリスト者を弾圧するという証しの立て方から、自らがキリスト者となり、かつて与えた苦しみをわが身に受けるばかりか、その渦へと入る中、人としての不十分さを抱えつつキリストの証しを立てました。キリストの愛の証しの多様性。この多彩さに目覚める時をわたしたちは迎えています。コロナ禍に限らず、世の新たな局面を迎え、祈りと御言葉の養いを大切にしましょう。

2021年5月28日金曜日

2021年5月30日(日) 説教(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「聖霊の交わりは時を超えて」
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』11章25~30節 
(新約聖書20頁)

讃美歌:66,74,544
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【説教要旨】

 聖霊降臨節のただ中、風は初夏の薫りがします。今年度を迎えてふた月を数えるところですが、みなさまには礼拝を全うするにあたり献げられる祝祷に注意深く耳を傾けておられますか。一般には「仰ぎ乞い願わくは、父なる神の愛、イエス・キリストの御恵み、聖霊の御交わりが、あなたがたとともに、いつまでも永久にありますように」という祈祷に集約されてまいります。「あなたがたとともに」が「わたしたちとともに」となる場合もあり、かつて伝道師として初めて薫陶を授かった教会の牧師はそのように祝祷を献げていました。昨年から泉北ニュータウン教会の礼拝では、祝祷とは世にあるわたしたち、また関わる人々だけでなく、すでに主のみもとにあり、安らぎの中にある兄弟姉妹とともに、という文言を加えております。それはなぜでしょうか。

 それは、今献げられているこの礼拝は、決して世にあるわたしたちに独占され、私物化されるものではなく、あくまで主なる神に向けられた感謝であり、その声は天に召された兄弟姉妹にも及ぶのだと、わたしたち自らが確かめるためでもあります。仮に席が空いていたとしても、そこには召された兄弟姉妹や関係者が座っておられるとの確信の中で礼拝を献げているのだと、在宅礼拝を献げている今だからこそ、より深く心に刻みたいと願うところ。何よりもまず聖書のメッセージに合致するところであると、稲山個人の存念ではなく、あくまでも御言葉から聴き、そして読み取るからです。みなさまはどのようにお考えになるでしょうか。

 本日の聖書の箇所は、人の子イエスが悔い改めを行わなかった町々を叱りつけた厳しい態度から一転して、一切の憤りから解き放たれたかのように神を讃えるという内容になっています。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心にかなうことでした」。世にあって全ての町々がイエス・キリストを受け容れたのではなく、世にある全ての人々がイエスを喜びとともに迎えたわけでもありません。聞くに堪えない言葉も投げかけられたことでしょう。けれどもイエス・キリストは、そのような人々の言葉や振るまいをも含めて、すべてが「御心にかなうことであった」として肯定してまいります。「父のほかに子を知るものはない」、世にあって人の子イエスを理解するものはおらず、キリストを通して示される者以外には、父なる神との関わりに目覚める者もいないと語ったのち、それでもなお「疲れた者、重荷を担う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎ、すなわち平安を得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と語ります。

 人の子イエスは、わたしたちにはご自身の姿を直に詮索する仕方でのあゆみ寄りを絶っているようでもあります。イエスがどのような人であったか、わたしたちは聖書を通して知るほかに道筋がありません。おそらくわたしたちは隣人に対してもせいぜい「分かった気」になっている程度かもしれません。けれども本日の箇所には、それでも「疲れた者、重荷を担う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と招いてくださっています。そして疲れや重荷を通して、ご自身への道が拓かれるのだと語るのです。今日もまたため息に終わったという、徒労こそまことの疲れであり、重荷とはわたしたちの背中や心にこびりついて離れない鉛のような不安なのかもしれません。イエス・キリストはそのような思い煩いは「わたしが担う」とは言わず、逆に「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」というのです。「軛」とは家畜をともに作業させるために二頭が離れないようにする首枷の横木を指します。キリストに丸投げするというよりも、その徒労や不安をともにされることで、キリスト自らがわたしたちを招いてくださるというのです。だからこそまことの平安があるというのです。イエス・キリストに従う。イエス・キリストを生きる。これ以上の底はないという痛みと苦難の中で出会う時に、わたしたちもまた福音書に描かれ、キリストと出会う者の一人となる。自らを聖書の中に投げ込むことによって、わたしたちは幼子のもつような弱さを通して、キリストと出会います。神の愛の力であるところの聖霊の働きは、召された者も地にある者にも、ともに及び、堅く結びつけてやみません。この確信を分かち合いましょう。今、この時。キリストを通して、隣には大切な方々だけでなく、召された大切な方も、ともにいると確信してくだされば幸いです。

2021年5月20日木曜日

2021年5月23日(日) 説教(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「くすぶる灯心は消えず」
説教:稲山聖修牧師
聖書:『使徒言行録』2章1~11節(新約聖書215頁)
讃美歌:249,183,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 ベツレヘムという小さな村の家畜小屋に宿された雫、一滴。この雫を通して主なる神は生きとし生ける者すべてに決定的な道筋で自らの愛をお示しになりました。その愛は世にあって傲慢な者に及んだのではなく、わたしたちがどれほど調べたところで決して明るみには出ない無名の人々、とくにその時代の公文書にも記されないところの、貧しさにある人、病に罹った人々や社会から遠ざけられていた人々を真っ先に活かすところとなりました。この雫とは他ならないイエス・キリストであります。
 しかしながらこの潤いは、最も近いところにいたはずの弟子たちには理解の超えたところにあり、人の子イエスに対立するところの祭司長や律法学者といった権力に近い側に立つ人々だけでなく、弟子の中にもその流れから逃れようとする者、流れをせき止めようとする者、流れを見誤る者も多くありました。やがて弟子はイエスの教えにも十字架と復活の出来事にも躓いていきます。しかしそのような躓きをものともせず、慈しみでつつみ、キリストは弟子たちを祝福しながら父なる神のもとへと昇っていったのでした。
 この祝福に応えるようにして、今度は弟子に神の愛の力が豊かに注がれます。「五旬祭の日」。過越の祭から五〇日を経て祝われるこの祭で、モーセがシナイ山で十戒を授かった記念をエルサレムでは祝いました。この戒めの完成としてイエス・キリストは世に遣わされ、救い主としてのわざを全うされました。次は弟子の番です。「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれわかれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」。神の恵みは泉や水という言葉に表されもしますが、『使徒言行録』ではキリストの祝福を通して弟子に注がれた神の愛の力を「炎」に重ねて伝えようとします。炎は冷めきった料理を温めるだけでなく、感染症の危険から人々を遠ざけます。燃えさかる炭火に鉄をかざし叩き続ければ不純物は取り除かれ、次第に硬さを増していきます。暗闇を照らし生きる上で必要な交わりをもたらしながらも、人は炎をそのままのかたちで手にすることはできません。この力に押し出されるようにして、いよいよ教会の導き役としての使徒が働きを始めます。福音の世界宣教が始まります。
 五旬祭を祝うためにエルサレムを訪れたユダヤ人たちの出身はさまざまでした。パルティア、メディア、エラム。メソポタミア、ユダヤ、カパドキア。ポントス、アジア、フリギア。パンフィリア、エジプト、リビア地方、ローマから来た者、もともとユダヤ人であった者、異邦人からユダヤ教徒になった者、クレタ島やアラビアに暮らす者。ローマ帝国の支配圏に留まらず、さらに広範な地域からやってきたユダヤ教徒の群れでエルサレムは賑わい豊かでした。この場に集う人々には、ガリラヤなどは取るに足らない一地域です。けれども集う人々は、語られる言葉を聞き届けて驚きます。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろう」。この疑問は人々の大きな関心となって知らぬ者同士を結び、使徒たちには一斉に眼差しが向けられます。しかし。
 幼き日に聴いた言葉はまことにシンプルです。母が子にささやく言葉が難しいはずがありません。使徒は神の愛を語っています。日本語では神の愛は「ご大切」とも訳されました。実はこの場面、神の愛のネットワークが、あらゆる言語の違いや分断の壁を超えて届き、「聴き従う」という祈りがあれば、だれもが明るみにされた神の愛の交わりにつながると語りかけています。傲慢さが交わりを混乱させた分断をもたらし、意思疎通を不可能にした『創世記』のバベルの物語の逆転現象が起きているのです。感染リスク対策は怠ってはなりませんが、コロナ禍による分断の悲しみは、絶えず育まれ続ける、いのちにあふれたネットワークに打ち勝つことはありません。



 今年の聖霊降臨日の礼拝は中継礼拝やHP動画という仕方で献げられています。今のところはやむを得ない苦渋の決断です。わたしたちは神との関わりを日々の忙しさの中で見失ってしまうのではないかと不安に駆られますが、『イザヤ書』42章2節から3節には次のようにあります。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなっていく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」。くすぶる灯心を消さない神の愛。神さまは時にふさわしい仕方でわたしたちに礼拝の豊かさをお示しになります。多様なわたしたちの一致は、イエスは主であるという呻き。その呻きから潤いに満ちた讃美と祈りが生まれます。



2021年5月13日木曜日

2021年5月16日(日) 説教(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「なみだの雨が止む日を待ち望む」 
説教:稲山聖修牧師

聖書:『ルカによる福音書』24章44~53節  
(新約聖書161頁)

讃美歌:158, 171, 544.
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 連日の新型コロナウイルスの報道の中で、わたしたちは具体的な予防対策を立てるというよりは、医療のインフラが機能しなくなり、医療従事者の方々も過労のどん底にあるとの話を聞き、打ちひしがれる日々を過ごしています。また、自分が罹患しないか、または感染させないかどうかとの不安を抱え続けなければならない毎日に疲れを覚えています。そのような中で味わう今朝の聖書の箇所は、復活したイエスが弟子の前に現れて焼いた魚を食べ、復活の出来事が夢幻ではないとの証しを伝えます。そして続くのは、わたしたちが今日『旧約聖書』と呼ぶ書物に刻まれた約束が今まさに完成すると宣言し、弟子たちの心の目が開かれて、神の愛の証しと教えを宣べ伝えるわざを託されるという内容です。しかもそのわざの始まる場所とはキリストが十字架に架けられ、殺害された町であり、キリスト自らも「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子を何度集めようとしたことか。だがお前たちは応じようとはしなかった」と嘆いた場所から始まると語ります。「高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と、弟子の心には深く爪痕を残した町に残り続けなさい、というところが、ガリラヤへ行けとの言葉を託されるドラマとは異なる、『ルカによる福音書』ならではの言葉です。人の子イエスの宣教のわざの原点に戻るという意味よりも、十字架と復活こそが基であり、その出来事が弟子の心の目が開き、いよいよ使徒として覚醒するとともに、神の愛の宣教を任せながら、キリスト自らが天に昇っていくという描写。絶望に包まれていたエルサレムが「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあるとおり、喜びの町として全くその意味合いを変えてしまうのです。思えば「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある」神の約束とはどのようなものであったか、わたしたちは改めて思い起こすように求める声を聞きます。

 旧約聖書に記された神の約束。神の側からするならばその約束は一つであり、旧い約束と新しい約束に分断されはしませんが、人の側からするならば、多くの犠牲が強いられた恵みでもありました。祝福の御手の中にありながらも、アブラハムを始めとした族長たち、とりわけ女性たちは人生の局面では犠牲を覚悟せねばならず、モーセもまたエジプトの奴隷の家から解放された人々を導きながらも、そこにはやはり犠牲がなかったとは到底言い難い生涯がありました。モーセとその誡めの物語に続いて神の言葉をとりついで証しする者は、頑なな人々を前に、あるいは神に逆らう人々を前にして、多大なる犠牲を伴なわずにはおれませんでした。そして時にはそれが恵みだと見なされました。

 しかし復活したキリストが語る「約束の実現」は、救い主の死を最後にして、もはや神の愛の証しに際しての苦しみや犠牲は必要なものではなくなったとの宣言でもあるとも読みとれます。これは決して「福音の安売り」「神の愛のはき違え」ではありません。世の中へ絶望、鼻で息をする者への絶望を知りながらも痛みや苦しみに慣れっこにならず、ただキリストのみを見つめることによって備えられる喜びです。これまでとは異なり、互いの優劣を比べず歩みだした弟子たちの喜びです。「キリスト以外に救いはない」という言葉は裏を返せば、キリストがすべての犠牲を収めてくださったとの確信を言い表しています。この確信のもと、弟子は使徒としての次のステージに立つにいたります。

 変異株の感染力の強さの中でわたしたちは日々キリスト者として、そして市民として可能な限りの対応を心がけていますが、世にあっては保健所や医療従事者の方々の労苦に思いを重ねずにはおれません。また社会福祉施設や公共交通機関といったエッセンシャルワーカーの方々の働きにも思いを重ねずにはおれません。就労に苦しむ方々の痛みを感じずにはおれません。進路変更を迷う若者の悩みをともにせずにはおれません。泉北ニュータウン教会自体が「社会福祉法人地球の園」のわざなしには証しを語ることは困難です。だからこそわたしたちはこのような言葉を分かち合いたいと願うのです。それは「犠牲なき献身こそ真の奉仕」。構成員の自己犠牲にのみ頼る援助活動は決して長続きしないというナイチンゲールの言葉です。5月12日はナイチンゲールの誕生日でした。多くの犠牲を伴なう奉仕こそがまことであると、ときに思い込んでいたわたしたちには目から鱗が落ちるような思いではありますが、献身に伴うであろう犠牲を最小限にしなければ、その奉仕は長続きしないことを見抜いた言葉でした。それは彼女が聖書から聞いた言葉でもあったでしょう。なみだの雨に濡れそぼち立ち続ける必要はないと、祝福しながら弟子たちのもとを離れていくイエス・キリストはわたしたちにも語ります。そして天に傘を差しだしてくださります。暮らしに不安を感じる日が常態化する中で、その不安もまた、キリストの祝福に勝るものではないと確信し、祈り続けましょう。

2021年5月9日日曜日

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