2021年6月11日金曜日

2021年6月13日(日) 礼拝(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「よろこびは見知らぬところへ」 
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』5章13~16節   
(新共同訳6頁)

讃美:247, 321, 543
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。


ライブ中継のリンクは、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 あるところに旅人がいました。旅人は商いをなりわいとしており、ロバには負いきれないほどの荷物を背負わせています。忍耐強いロバといえども長い間この荷物を背負って旅するにはむつかしく、足取りもおぼつきません。とうとうロバは橋から川へと落ちてしまいました。けれどもロバは気持ちよさそうに水に漬かっています。ロバの荷物は塩。荷物は水に溶けてしまったのです。これはイソップ童話の「塩を運ぶロバ」の前半部分です。

 そのような日常は『新約聖書』の世界でも、さほど変わらなかったことでしょう。聖書の世界では塩は金と取引されていたとも言われています。ローマ帝国の兵士には塩を買うためにサラリウムという名の手当が支給されていました。海水から塩を作るわざのないところでは、岩塩を掘削する、またはローマ帝国が規制をかけて民間での扱いを禁じ、各々の属州で定めた価格に従っての専売制が実施されていたと考えられます。不可欠なミネラルを合成する術を人々は知りません。しかし本来は塩は全ての人々に開かれた大地の宝。わたしたちの見知らぬ人々を支えていきます。

 塩をめぐる厳しい現実を知りながら、イエスが語る「地の塩」の譬え。これは大地の恵みが誰にも独占されない宝であることを指し示すとともに、管理が実に困難であった当時の塩について語っています。粉上の塩として持ち運ぶのはあまりにもリスクが大きすぎます。硬い岩塩の塊そのままのほうが当時の保存技術を考えるならば便利です。しかしそれが風化したり湿気を吸って劣化するならば「塩気のない塩」にもなり得ます。奴隷であったイソップが示す日常と大差のない世界が描かれます。

 続いて「あなたがたは世の光である」とイエスは語ります。「山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして桝の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」。塩に続く譬えは「「ともし火」。古代社会で屋内を照らす際にローマ帝国の時代には獣脂のロウソクかランプが用いられていました。ロウソクとランプの区別は当時はっきりしていませんが、家の中のものすべてを照らせるともし火とは尋常ではない輝きです。当時の技術では全く不可能。しかしそれはわたしたちの見知らぬところへも及ぶのです。

 しかし本日の聖書の箇所で重要なのは以上の説明ではなく「地の塩」「世の光」としての働きが誰に呼びかけられているのかというところ。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。これは「優等生になりなさい」との訓話ではありません。もともとは病気や患いを癒された、ガリラヤ・デカポリス・エルサレム・ユダヤ・ヨルダン川の向こう岸といった海の者とも山の者とも分からない者すべてをつつむ「大勢の群衆」との言葉。その中からイエスに従った弟子に向けられています。弟子と群衆とは身の上としては何ら変わりがありません。そのような人々に人の子イエスは塩という神が備え給う値、屋内をくまなく照らすともし火となる上質のオイルとしての値を備えているというのです。わたしたちはこの箇所で言う「立派な行いをする人」を「偉い人」と勘違いをしてきたのではないでしょうか。神との関わりを忘れて「誰に語りかけられたのか」を読み飛ばしてしまうのです。形ばかりの立派な行いには得てして闇が隠されています。祈りなき善良さも、他者を深く抑圧し、排除する力へと変わり果てていきます。

 ですから「立派な行い」とは、人々の目を引くわざばかりを示しているのではありません。誰よりもイエス・キリスト自らが、人の目に適う「立派な行い」ばかりをしていたのであれば、十字架で処刑されはしなかったでしょう。この箇所でいうところの「立派な行い」とは、その時代の身分の貴賎や貧富を問わず誰にでも開かれたわざであり、だからこそ言い逃れのできないという意味ではまことに厳しいものです。使徒パウロによれば、それは神の愛から生まれます。そして今のような様々なわだかまりが渦巻く中では「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(『ローマの信徒への手紙』12章8~21節)と響きます。わたしたちを取り巻く世界にはやり場のない怒りが渦巻き、些細なことで争いが起きては流れる涙があります。神を讃美する礼拝によって注がれる喜び。山上の垂訓でイエスが祝福した弟子を送り出した群れに連なるわたしたち。地の塩・世の光として祝福された者です。キリストに従う道をあゆみましょう。