説教:稲山聖修
聖書:『使徒言行録』17章22~34節
(新共同訳248頁)
讃美歌:298, 333, 543
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
『使徒言行録』には神の愛の力である聖霊に押し出された使徒の働きが記されてまいります。その中でもひときわ異彩を放つのがパウロ。血気盛んなファリサイ派の律法学者、すなわちユダヤ教の教えを解き明し、人々に伝えるために研鑽に励んでいた若き日のパウロ、すなわちサウロはその熱心さが昂じてイエスは救い主であるという声の中、喜びにあふれた人々を次々と拘束しては殺害者の手に渡していきました。「救い主はまだ訪れてはいない」とするユダヤ教の立場からすれば、救い主はイエスとしてわたしたちのもとに訪れたと喜ぶ者は「誤った思い込みに心酔する狂信者」としか映りません。サウロと名のっていたころのパウロはためらいを見せずに、身体の特性を問わずに喜びに包まれる人々を、あたかもそれが当然であるかのように人知れない集会所から引きずり出していったのでした。福音書にはイエスに癒やされ、満たされ、交わりを新たにされた人々の名前は全員が必ずしも記されません。「群衆」として歴史にうごめく人々に、いのちの光が宿され喜びにつつまれます。その光あふれる交わりに殺意の闇とともに立ち入ったのが若き日のパウロ。そのようなパウロが「なぜわたしを迫害するのか」とのキリストの声を聞き、神の愛である聖霊が注がれる中、地中海を囲む地域に福音を遍く伝えてまいります。途中さまざまな困難に遭遇するなか、出会う人であう人はパウロの証しするメッセージに目の当たりにし、また耳を傾けては深くそのあり方を問われました。
『使徒言行録』の物語には共通する道筋が幾つかあります。その一つとして、パウロを始め使徒が赴くところでは必ず混乱が生じるところです。混乱の中、使徒を退けようとする動きもあれば、メッセージに深く感銘を受けてキリストに連なる確信を公にして洗礼を授かるという動きも生まれます。また、使徒が人の目からすれば当初の目的を果たし得ず失敗にしか見えない状況の中で、キリストの交わりに連なる人々も出てまいります。その意味で言えば神の愛の力であるところの聖霊の働きは縦横無尽です。使徒自らにもはかり知れないところで神の愛のわざが及びます。
本日の聖書の箇所では、パウロが古代ギリシアの都市アテネを訪ねる中で起きた出来事が記されます。ギリシア哲学の源泉となった都市アテネにはその時代、エピクロス派やストア派といった時代を代表する知識人が数多くおりました。書物を読みふけり対話を通じて真理を探究するという、上辺からは浮世離れした人々にも思えますが、彼らを支える労役の殆どは奴隷が担っていました。だからそのような日常が可能でした。パウロはアレオパゴスという公の広場で、そのような人々に訴えます。「アテネの皆さん、あらゆる点であなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」。パウロの語りかけはアテネの人々の問題を指摘するところからは始めません。あくまでも相手の受容から始めます。人々はパウロの声に耳を傾けながらも、その話が「死者の復活」に及ぶと、ある者はあざ笑い、ある者は「いずれまた聞かせてもらおう」と聞く耳を塞ぎます。「それで、パウロはその場を立ち去った」との場面に限るならば、パウロの証しは失敗したとみることもできましょう。けれどもその中で「彼について行って信仰に入った者」が何人かおり、アレオパゴスの議員ディオニシオ、ダマリスという女性、その他の人々もいたと『使徒言行録』は記します。人々に仕えた奴隷もいたことでしょう。パウロのわざは決して虚しくは終わらなかったのです。
パウロの生涯をたどりますと、あらためて「キリストの証し」とは一体何だろうかと考えます。世にあって成功すること、願いが叶うこと。身を立て名をあげ、教会のわざに時と労力を費やすこと。「神の恵みによってこのような場に立った」との言葉ばかりを語ることだけが証しであるとわたしたちは勘違いしています。成功体験にすがる、功利主義的な考え方が幅を利かせるならば、わたしたちは聖書に記された神の愛のまことの証しを見失うことでしょう。このような考え方とは正反対のところにキリストの証しはあります。「愛がなければ無に等しい」。それは病の中にあり、失敗の中にあり、争いの中にあり、行き先の見えない現状にいらだち、嘆き悲しみに暮れて肩を落とす中で、なおも神の愛を忘れず、祈りを忘れないのであれば、あらゆることがキリストの証しとなって人々に示されます。パウロはその伝道を実質的には軟禁状態の中で全うしていきますが、若き日に立てたキリスト者を弾圧するという証しの立て方から、自らがキリスト者となり、かつて与えた苦しみをわが身に受けるばかりか、その渦へと入る中、人としての不十分さを抱えつつキリストの証しを立てました。キリストの愛の証しの多様性。この多彩さに目覚める時をわたしたちは迎えています。コロナ禍に限らず、世の新たな局面を迎え、祈りと御言葉の養いを大切にしましょう。
(新共同訳248頁)
讃美歌:298, 333, 543
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。
ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
【説教要旨】
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中継ライブ礼拝を献げます。
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【説教要旨】
『使徒言行録』には神の愛の力である聖霊に押し出された使徒の働きが記されてまいります。その中でもひときわ異彩を放つのがパウロ。血気盛んなファリサイ派の律法学者、すなわちユダヤ教の教えを解き明し、人々に伝えるために研鑽に励んでいた若き日のパウロ、すなわちサウロはその熱心さが昂じてイエスは救い主であるという声の中、喜びにあふれた人々を次々と拘束しては殺害者の手に渡していきました。「救い主はまだ訪れてはいない」とするユダヤ教の立場からすれば、救い主はイエスとしてわたしたちのもとに訪れたと喜ぶ者は「誤った思い込みに心酔する狂信者」としか映りません。サウロと名のっていたころのパウロはためらいを見せずに、身体の特性を問わずに喜びに包まれる人々を、あたかもそれが当然であるかのように人知れない集会所から引きずり出していったのでした。福音書にはイエスに癒やされ、満たされ、交わりを新たにされた人々の名前は全員が必ずしも記されません。「群衆」として歴史にうごめく人々に、いのちの光が宿され喜びにつつまれます。その光あふれる交わりに殺意の闇とともに立ち入ったのが若き日のパウロ。そのようなパウロが「なぜわたしを迫害するのか」とのキリストの声を聞き、神の愛である聖霊が注がれる中、地中海を囲む地域に福音を遍く伝えてまいります。途中さまざまな困難に遭遇するなか、出会う人であう人はパウロの証しするメッセージに目の当たりにし、また耳を傾けては深くそのあり方を問われました。
『使徒言行録』の物語には共通する道筋が幾つかあります。その一つとして、パウロを始め使徒が赴くところでは必ず混乱が生じるところです。混乱の中、使徒を退けようとする動きもあれば、メッセージに深く感銘を受けてキリストに連なる確信を公にして洗礼を授かるという動きも生まれます。また、使徒が人の目からすれば当初の目的を果たし得ず失敗にしか見えない状況の中で、キリストの交わりに連なる人々も出てまいります。その意味で言えば神の愛の力であるところの聖霊の働きは縦横無尽です。使徒自らにもはかり知れないところで神の愛のわざが及びます。
本日の聖書の箇所では、パウロが古代ギリシアの都市アテネを訪ねる中で起きた出来事が記されます。ギリシア哲学の源泉となった都市アテネにはその時代、エピクロス派やストア派といった時代を代表する知識人が数多くおりました。書物を読みふけり対話を通じて真理を探究するという、上辺からは浮世離れした人々にも思えますが、彼らを支える労役の殆どは奴隷が担っていました。だからそのような日常が可能でした。パウロはアレオパゴスという公の広場で、そのような人々に訴えます。「アテネの皆さん、あらゆる点であなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」。パウロの語りかけはアテネの人々の問題を指摘するところからは始めません。あくまでも相手の受容から始めます。人々はパウロの声に耳を傾けながらも、その話が「死者の復活」に及ぶと、ある者はあざ笑い、ある者は「いずれまた聞かせてもらおう」と聞く耳を塞ぎます。「それで、パウロはその場を立ち去った」との場面に限るならば、パウロの証しは失敗したとみることもできましょう。けれどもその中で「彼について行って信仰に入った者」が何人かおり、アレオパゴスの議員ディオニシオ、ダマリスという女性、その他の人々もいたと『使徒言行録』は記します。人々に仕えた奴隷もいたことでしょう。パウロのわざは決して虚しくは終わらなかったのです。
パウロの生涯をたどりますと、あらためて「キリストの証し」とは一体何だろうかと考えます。世にあって成功すること、願いが叶うこと。身を立て名をあげ、教会のわざに時と労力を費やすこと。「神の恵みによってこのような場に立った」との言葉ばかりを語ることだけが証しであるとわたしたちは勘違いしています。成功体験にすがる、功利主義的な考え方が幅を利かせるならば、わたしたちは聖書に記された神の愛のまことの証しを見失うことでしょう。このような考え方とは正反対のところにキリストの証しはあります。「愛がなければ無に等しい」。それは病の中にあり、失敗の中にあり、争いの中にあり、行き先の見えない現状にいらだち、嘆き悲しみに暮れて肩を落とす中で、なおも神の愛を忘れず、祈りを忘れないのであれば、あらゆることがキリストの証しとなって人々に示されます。パウロはその伝道を実質的には軟禁状態の中で全うしていきますが、若き日に立てたキリスト者を弾圧するという証しの立て方から、自らがキリスト者となり、かつて与えた苦しみをわが身に受けるばかりか、その渦へと入る中、人としての不十分さを抱えつつキリストの証しを立てました。キリストの愛の証しの多様性。この多彩さに目覚める時をわたしたちは迎えています。コロナ禍に限らず、世の新たな局面を迎え、祈りと御言葉の養いを大切にしましょう。