説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』11章25~30節
(新約聖書20頁)
讃美歌:66,74,544
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(新約聖書20頁)
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(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
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礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。
ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
【説教要旨】
聖霊降臨節のただ中、風は初夏の薫りがします。今年度を迎えてふた月を数えるところですが、みなさまには礼拝を全うするにあたり献げられる祝祷に注意深く耳を傾けておられますか。一般には「仰ぎ乞い願わくは、父なる神の愛、イエス・キリストの御恵み、聖霊の御交わりが、あなたがたとともに、いつまでも永久にありますように」という祈祷に集約されてまいります。「あなたがたとともに」が「わたしたちとともに」となる場合もあり、かつて伝道師として初めて薫陶を授かった教会の牧師はそのように祝祷を献げていました。昨年から泉北ニュータウン教会の礼拝では、祝祷とは世にあるわたしたち、また関わる人々だけでなく、すでに主のみもとにあり、安らぎの中にある兄弟姉妹とともに、という文言を加えております。それはなぜでしょうか。
それは、今献げられているこの礼拝は、決して世にあるわたしたちに独占され、私物化されるものではなく、あくまで主なる神に向けられた感謝であり、その声は天に召された兄弟姉妹にも及ぶのだと、わたしたち自らが確かめるためでもあります。仮に席が空いていたとしても、そこには召された兄弟姉妹や関係者が座っておられるとの確信の中で礼拝を献げているのだと、在宅礼拝を献げている今だからこそ、より深く心に刻みたいと願うところ。何よりもまず聖書のメッセージに合致するところであると、稲山個人の存念ではなく、あくまでも御言葉から聴き、そして読み取るからです。みなさまはどのようにお考えになるでしょうか。
本日の聖書の箇所は、人の子イエスが悔い改めを行わなかった町々を叱りつけた厳しい態度から一転して、一切の憤りから解き放たれたかのように神を讃えるという内容になっています。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心にかなうことでした」。世にあって全ての町々がイエス・キリストを受け容れたのではなく、世にある全ての人々がイエスを喜びとともに迎えたわけでもありません。聞くに堪えない言葉も投げかけられたことでしょう。けれどもイエス・キリストは、そのような人々の言葉や振るまいをも含めて、すべてが「御心にかなうことであった」として肯定してまいります。「父のほかに子を知るものはない」、世にあって人の子イエスを理解するものはおらず、キリストを通して示される者以外には、父なる神との関わりに目覚める者もいないと語ったのち、それでもなお「疲れた者、重荷を担う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎ、すなわち平安を得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と語ります。
人の子イエスは、わたしたちにはご自身の姿を直に詮索する仕方でのあゆみ寄りを絶っているようでもあります。イエスがどのような人であったか、わたしたちは聖書を通して知るほかに道筋がありません。おそらくわたしたちは隣人に対してもせいぜい「分かった気」になっている程度かもしれません。けれども本日の箇所には、それでも「疲れた者、重荷を担う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と招いてくださっています。そして疲れや重荷を通して、ご自身への道が拓かれるのだと語るのです。今日もまたため息に終わったという、徒労こそまことの疲れであり、重荷とはわたしたちの背中や心にこびりついて離れない鉛のような不安なのかもしれません。イエス・キリストはそのような思い煩いは「わたしが担う」とは言わず、逆に「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」というのです。「軛」とは家畜をともに作業させるために二頭が離れないようにする首枷の横木を指します。キリストに丸投げするというよりも、その徒労や不安をともにされることで、キリスト自らがわたしたちを招いてくださるというのです。だからこそまことの平安があるというのです。イエス・キリストに従う。イエス・キリストを生きる。これ以上の底はないという痛みと苦難の中で出会う時に、わたしたちもまた福音書に描かれ、キリストと出会う者の一人となる。自らを聖書の中に投げ込むことによって、わたしたちは幼子のもつような弱さを通して、キリストと出会います。神の愛の力であるところの聖霊の働きは、召された者も地にある者にも、ともに及び、堅く結びつけてやみません。この確信を分かち合いましょう。今、この時。キリストを通して、隣には大切な方々だけでなく、召された大切な方も、ともにいると確信してくだされば幸いです。
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礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。
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【説教要旨】
聖霊降臨節のただ中、風は初夏の薫りがします。今年度を迎えてふた月を数えるところですが、みなさまには礼拝を全うするにあたり献げられる祝祷に注意深く耳を傾けておられますか。一般には「仰ぎ乞い願わくは、父なる神の愛、イエス・キリストの御恵み、聖霊の御交わりが、あなたがたとともに、いつまでも永久にありますように」という祈祷に集約されてまいります。「あなたがたとともに」が「わたしたちとともに」となる場合もあり、かつて伝道師として初めて薫陶を授かった教会の牧師はそのように祝祷を献げていました。昨年から泉北ニュータウン教会の礼拝では、祝祷とは世にあるわたしたち、また関わる人々だけでなく、すでに主のみもとにあり、安らぎの中にある兄弟姉妹とともに、という文言を加えております。それはなぜでしょうか。
それは、今献げられているこの礼拝は、決して世にあるわたしたちに独占され、私物化されるものではなく、あくまで主なる神に向けられた感謝であり、その声は天に召された兄弟姉妹にも及ぶのだと、わたしたち自らが確かめるためでもあります。仮に席が空いていたとしても、そこには召された兄弟姉妹や関係者が座っておられるとの確信の中で礼拝を献げているのだと、在宅礼拝を献げている今だからこそ、より深く心に刻みたいと願うところ。何よりもまず聖書のメッセージに合致するところであると、稲山個人の存念ではなく、あくまでも御言葉から聴き、そして読み取るからです。みなさまはどのようにお考えになるでしょうか。
本日の聖書の箇所は、人の子イエスが悔い改めを行わなかった町々を叱りつけた厳しい態度から一転して、一切の憤りから解き放たれたかのように神を讃えるという内容になっています。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心にかなうことでした」。世にあって全ての町々がイエス・キリストを受け容れたのではなく、世にある全ての人々がイエスを喜びとともに迎えたわけでもありません。聞くに堪えない言葉も投げかけられたことでしょう。けれどもイエス・キリストは、そのような人々の言葉や振るまいをも含めて、すべてが「御心にかなうことであった」として肯定してまいります。「父のほかに子を知るものはない」、世にあって人の子イエスを理解するものはおらず、キリストを通して示される者以外には、父なる神との関わりに目覚める者もいないと語ったのち、それでもなお「疲れた者、重荷を担う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎ、すなわち平安を得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と語ります。
人の子イエスは、わたしたちにはご自身の姿を直に詮索する仕方でのあゆみ寄りを絶っているようでもあります。イエスがどのような人であったか、わたしたちは聖書を通して知るほかに道筋がありません。おそらくわたしたちは隣人に対してもせいぜい「分かった気」になっている程度かもしれません。けれども本日の箇所には、それでも「疲れた者、重荷を担う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と招いてくださっています。そして疲れや重荷を通して、ご自身への道が拓かれるのだと語るのです。今日もまたため息に終わったという、徒労こそまことの疲れであり、重荷とはわたしたちの背中や心にこびりついて離れない鉛のような不安なのかもしれません。イエス・キリストはそのような思い煩いは「わたしが担う」とは言わず、逆に「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」というのです。「軛」とは家畜をともに作業させるために二頭が離れないようにする首枷の横木を指します。キリストに丸投げするというよりも、その徒労や不安をともにされることで、キリスト自らがわたしたちを招いてくださるというのです。だからこそまことの平安があるというのです。イエス・キリストに従う。イエス・キリストを生きる。これ以上の底はないという痛みと苦難の中で出会う時に、わたしたちもまた福音書に描かれ、キリストと出会う者の一人となる。自らを聖書の中に投げ込むことによって、わたしたちは幼子のもつような弱さを通して、キリストと出会います。神の愛の力であるところの聖霊の働きは、召された者も地にある者にも、ともに及び、堅く結びつけてやみません。この確信を分かち合いましょう。今、この時。キリストを通して、隣には大切な方々だけでなく、召された大切な方も、ともにいると確信してくだされば幸いです。