2021年5月13日木曜日

2021年5月16日(日) 説教(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「なみだの雨が止む日を待ち望む」 
説教:稲山聖修牧師

聖書:『ルカによる福音書』24章44~53節  
(新約聖書161頁)

讃美歌:158, 171, 544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類(動画事前録画版、ライブ中継動画版)ございます。

説教動画は「こちら」をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。
ライブ中継のリンクは
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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 連日の新型コロナウイルスの報道の中で、わたしたちは具体的な予防対策を立てるというよりは、医療のインフラが機能しなくなり、医療従事者の方々も過労のどん底にあるとの話を聞き、打ちひしがれる日々を過ごしています。また、自分が罹患しないか、または感染させないかどうかとの不安を抱え続けなければならない毎日に疲れを覚えています。そのような中で味わう今朝の聖書の箇所は、復活したイエスが弟子の前に現れて焼いた魚を食べ、復活の出来事が夢幻ではないとの証しを伝えます。そして続くのは、わたしたちが今日『旧約聖書』と呼ぶ書物に刻まれた約束が今まさに完成すると宣言し、弟子たちの心の目が開かれて、神の愛の証しと教えを宣べ伝えるわざを託されるという内容です。しかもそのわざの始まる場所とはキリストが十字架に架けられ、殺害された町であり、キリスト自らも「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子を何度集めようとしたことか。だがお前たちは応じようとはしなかった」と嘆いた場所から始まると語ります。「高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と、弟子の心には深く爪痕を残した町に残り続けなさい、というところが、ガリラヤへ行けとの言葉を託されるドラマとは異なる、『ルカによる福音書』ならではの言葉です。人の子イエスの宣教のわざの原点に戻るという意味よりも、十字架と復活こそが基であり、その出来事が弟子の心の目が開き、いよいよ使徒として覚醒するとともに、神の愛の宣教を任せながら、キリスト自らが天に昇っていくという描写。絶望に包まれていたエルサレムが「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあるとおり、喜びの町として全くその意味合いを変えてしまうのです。思えば「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある」神の約束とはどのようなものであったか、わたしたちは改めて思い起こすように求める声を聞きます。

 旧約聖書に記された神の約束。神の側からするならばその約束は一つであり、旧い約束と新しい約束に分断されはしませんが、人の側からするならば、多くの犠牲が強いられた恵みでもありました。祝福の御手の中にありながらも、アブラハムを始めとした族長たち、とりわけ女性たちは人生の局面では犠牲を覚悟せねばならず、モーセもまたエジプトの奴隷の家から解放された人々を導きながらも、そこにはやはり犠牲がなかったとは到底言い難い生涯がありました。モーセとその誡めの物語に続いて神の言葉をとりついで証しする者は、頑なな人々を前に、あるいは神に逆らう人々を前にして、多大なる犠牲を伴なわずにはおれませんでした。そして時にはそれが恵みだと見なされました。

 しかし復活したキリストが語る「約束の実現」は、救い主の死を最後にして、もはや神の愛の証しに際しての苦しみや犠牲は必要なものではなくなったとの宣言でもあるとも読みとれます。これは決して「福音の安売り」「神の愛のはき違え」ではありません。世の中へ絶望、鼻で息をする者への絶望を知りながらも痛みや苦しみに慣れっこにならず、ただキリストのみを見つめることによって備えられる喜びです。これまでとは異なり、互いの優劣を比べず歩みだした弟子たちの喜びです。「キリスト以外に救いはない」という言葉は裏を返せば、キリストがすべての犠牲を収めてくださったとの確信を言い表しています。この確信のもと、弟子は使徒としての次のステージに立つにいたります。

 変異株の感染力の強さの中でわたしたちは日々キリスト者として、そして市民として可能な限りの対応を心がけていますが、世にあっては保健所や医療従事者の方々の労苦に思いを重ねずにはおれません。また社会福祉施設や公共交通機関といったエッセンシャルワーカーの方々の働きにも思いを重ねずにはおれません。就労に苦しむ方々の痛みを感じずにはおれません。進路変更を迷う若者の悩みをともにせずにはおれません。泉北ニュータウン教会自体が「社会福祉法人地球の園」のわざなしには証しを語ることは困難です。だからこそわたしたちはこのような言葉を分かち合いたいと願うのです。それは「犠牲なき献身こそ真の奉仕」。構成員の自己犠牲にのみ頼る援助活動は決して長続きしないというナイチンゲールの言葉です。5月12日はナイチンゲールの誕生日でした。多くの犠牲を伴なう奉仕こそがまことであると、ときに思い込んでいたわたしたちには目から鱗が落ちるような思いではありますが、献身に伴うであろう犠牲を最小限にしなければ、その奉仕は長続きしないことを見抜いた言葉でした。それは彼女が聖書から聞いた言葉でもあったでしょう。なみだの雨に濡れそぼち立ち続ける必要はないと、祝福しながら弟子たちのもとを離れていくイエス・キリストはわたしたちにも語ります。そして天に傘を差しだしてくださります。暮らしに不安を感じる日が常態化する中で、その不安もまた、キリストの祝福に勝るものではないと確信し、祈り続けましょう。