稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』5章21~26節
(新共同訳7頁)
讃美歌:399, 300, 543
可能な方は讃美歌をご用意ください。(新共同訳7頁)
讃美歌:399, 300, 543
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」。『旧約聖書』『詩編』133編に記された言葉です。この言葉を白樺派の作家・武者小路実篤は「仲良きことは美しきことかな」との言葉にして受け入れ、用いていました。しかし不思議なことに、先ほどの『詩編』の祈りが礼拝で献げられなければならなかった背後には、血縁ないしは係累での争いが、『旧約聖書』の物語でも、そしてイエスの時代の人々の間でも絶えなかった現実が窺えます。思えば『創世記』に描かれる家族の物語は、決して幸せにあふれた一家に始まりません。天地の創造主なる神の似姿として創造されたはずの人に授けられた兄と弟。畑を耕すとされたカインは、牧畜を営む弟アベルの献げものに神が目を留めたのが赦せず、弟を殺害してしまいます。「罪」という言葉はカインとアベルの物語で初めて登場します。家族の殺害という戦慄する出来事に始まる物語が、ようやく族長物語のアブラハム・イサクを経て、ヤコブとその息子たちの物語にいたり、『創世記』の最後の場面で和解に及びます。続く『出エジプト記』におきましても、神の言葉を預かるモーセに比較するならば、兄アロンはどこか頼りなく、神に逆らう民衆の声を諫めることができません。そして混乱期を経てサウル・ダビデ・ソロモンという三代にわたるヘブライ王国の国王にありましても、とりわけダビデ以降は家族の諍いが神に対する昂ぶりと同時に生じ、国の混乱をもたらしてまいります。
「血は水よりも濃い」がゆえに絶えない争い。だからこそ、その現実のただ中でイエス・キリストは本日の言葉を語ります。「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。「最高法院」とはエルサレムの神殿で招集された議員によって行われる古代ユダヤ教の司法で最高の権限をもつ議会を指します。さらにイエスは「火の地獄」という言葉を、死後の世界にではなくわたしたちが暮らす世に重ねます。だからこそ、神に献げるべき献げものは、絶えず和解の実現とその感謝でなくてはならないとイエス・キリストは語るのです。
思えば『旧約聖書』の世界では、アブラハムの神と異なる神々を崇める人々でさえ、最初の人アダムとの係累として理解されました。何よりも血縁が重んじられた時代にありましては、係累は争いの火種であると同時に、人々がお互いを滅ぼす一歩手前で立ち止まる、対話の契機ともなり得ました。『ヨシュア記』以降、しばしば神の名による虐殺が命令されるという記事が『旧約聖書』には描かれますが、翻ればその記事は、人は神の名を借りなければ残酷にはなれないことの証しであり、だからこそ全ての神の命令の中で尊ぶべき十戒に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と刻まれているとは言えないでしょうか。
ときにはイスラエルの民とパレスチナの先住民ならびに異邦人との争いが赤裸々に記される『旧約聖書』。だからこそ人々は救い主の訪れを待ち望み、救い主イエス・キリストの訪れを、喜びとともに讃え、歌い、争いの念を鎮めていったのではないでしょうか。福音書にあってイエス・キリストは、どのような諍いがあろうとも、その諍いを癒してまいりました。「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」。身の回りにある家族の諍いは、和解に向けてのお互いの理解のために実に長い時を必要とする場合もあります。ふとしたきっかけの中で、それまで歩み寄れなかった家族の痛みに、全く異なる場所と全く異なる時間の中で気づかされ「愚かであった」と涙するときもあります。もっと早く事情が分かっていればと流す涙。それは、わたしたちの身近なところで起こる事々だけでなく、民同士の争い、国同士の争いに重なるとは言えないでしょうか。どのような激しい戦があったとしても、その次の世代、そしてさらにその次の世代にあっては、お互いが憎しみの情念から解放されて、神の御前に感謝の備え物を献げられるはずです。涙がこぼれ落ちそうになったら、怒りに震えるその中に置かれたら、わたしたちは天を仰ぎたいと願います。昼は虹、夜は星々を見つめながら、イエス・キリストと出会った人々は「被害者になったからといって、加害者になってよいとの話はない」と思ったに違いありません。他人のせいにせず、加害者が減れば被害者も減るという態度の転換を、神の愛の力は後押ししています。家族の和解はその中で生まれます。祈りましょう。