2019年12月29日日曜日

2019年12月29日(日) 説教

「悲しみを喜びに変える真理」
『マタイによる福音書』2章1~6節
稲山聖修牧師

 救い主の誕生を告げ知らせる星を見つけ、ヘロデ王のもとに参じた賢者たち。王への謁見を許されるだけの学識を備えたこの人々。教会では東方の三博士と呼ぶ場合もあるが、その呼称は乳飲み子イエス・キリストへの献げものが黄金・乳香・没薬の三つに対応した読み込みの結果生じた理解に過ぎず、実際は何名だったのかは分からない。名詞が複数形であり、その性別すらも記されてはいない。
その賢者たちが選んだ道。それは各々の国で授かっていたポストをキリストを世に遣わした神に委ねて、御子イエス生まれた場所を探す道であった。賢者たちはこの旅に全てを賭けている。この旅は、あらかじめ安全が確保された「旅行」ではなく、賢者たちの学識でさえ尊ばれることもない道を行かねばならないというリスクをはらんでいる。けれども賢者たちの関心は定常業務であるところの「観察」に留まるのではなく、「現地へ赴く」という「勇気」を伴っている。飼い葉桶の乳飲み子を通して働く、神の愛である「聖霊の招き」がこの場にも及ぶ。

聖霊の力は、御子の誕生に明らかにされた神の真理によって、世の様々な隠し事や偽りにも踏み込む勇気を人々に与える。ヘロデ王は賢者たちの問いを前にして自分の権威を脅かされる身の危険を感じている。またその時代にエルサレムに住んでいた、民衆の目の届かないところでローマ帝国の飼い犬となり地位を保っていた人々もまた不安を抱く。しかし「民の祭司長たちや律法学者たち」は、言葉の率直さを踏まえれば、全く違う表情をしていたことが分かる。例えばヘロデ王が問い質したのは「どこに生まれることになっているのか」という内容。だから答える側としては「ユダヤのベツレヘムです」とさえ応じればそれで済むはずだ。しかし『マタイによる福音書』の書き手は、旧約聖書の預言者の書『ミカ書』5章に手を加えて「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいもの・ではない」と記す。ヘロデ王と、集められた祭司長たちや律法学者たちが、各々異なる方角を向いていた。単なる祭司長たちや律法学者たちではなく、「民の」という修飾語がつき、さらに「皆集めて」とあることから、これもまたヘロデ王が力づくでかき集めた人々であることが分かる。律法学者は聖書の記事に手を加えることで自らの喜びを率直に述べ、ヘロデ王に一矢報いる。預言者の言葉は、神の御旨から離れた権力や人々に対する批判にもなり得るからだ。神の真理を前にしてヘロデはますます追いつめられていく。

しかしわたしたちは東方の訪問者の物語に疑問を抱く。なぜなら『マタイによる福音書』2章16節以下に「さて、ヘロデは占星術の学者たちに騙されたと知って、大いに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」とあるからだ。東方の賢者たちの訪問がなければ、この子たちは殺されずに済んだのではないかと問う人もいるかもしれない。しかしながら世の権力だけを頼みとする者は、おのれの依って立つところが覆されようとするときには、時に想像もできない残酷さを露わにするものだ。権力が弱者に牙をむく残酷さを『マタイによる福音書』は隠さず書き記す。公文書には決して書き記されない権力者の振る舞いにスポットライトが当たる。かような所行に及んだヘロデ王には、もはや王たる資格はない。だからもはやこの物語で律法学者の発言の後、福音書の書き手はヘロデ王とは記さず、単に「ヘロデ」と語るだけだ。神の御旨を顧みない王から、神はその力を剥奪され、飼い葉桶に眠る乳飲み子にその力を委ねられる。そしてその乳飲み子は、やがてベツレヘムで何の過ちも犯さずに殺害されていったこどもたちの苦しみ、そして親たちの悲しみを背負って、救い主としての道を歩み、そして十字架の上でその悲しみと苦しみを告発する。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。神に見捨てられたと涙するほかない人々を、救い主は放置しない。救い主は文字通りそのような悲しみの中に佇むほかない人々とともに歩まれる。その歩みはやがて復活の光、いのちの光をもって世の民をつつみこむ。神が世に遣われた真理とは、そのように全てのいのちを抑圧から解放し、悲しみを喜びに変える真理だ。主なる神は御子イエス・キリストの真理によってすべてのいのちに新たな息吹をそそがれる。世の課題が白日の下にさらされようとしている今年もやがて終わる。新しい年も神の真理に背を押されて進みたい。



2019年12月22日日曜日

2019年12月22日(日) クリスマス礼拝説教

「世に勝利するいのちの力」
『ルカによる福音書』2章8~21節
説教:稲山聖修牧師

『ルカによる福音書』ならではの特性。それは序文で福音書が成立するまでの経緯、そしてテオフィロという人物に献げられている事実が率直に記されているところにもある。
テオフィロは皇帝に謁見が許されるような立場のローマ帝国の官僚だったと言われる。『ルカによる福音書』の書き手はローマ帝国の支配を否定しない。けれどもその筆が世の力に媚売ることはない。母マリアが救い主を身に宿したその喜びを歌う「マリアの賛歌」では「主はその腕で力を振い、思い上がる者をその座から打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」とある。ローマ帝国から人間扱いされなかった人々には喜びの知らせ。
しかし政治権力の中枢におりながら保身に流れがちな人々には身震いせずにはおれない言葉である。『ルカによる福音書』では、イエス・キリストが、その誕生のときからローマ帝国に対する勝利をすでに手に納めているかのような文体で記すところが、同じクリスマス物語でも『マタイによる福音書』とは異なる。『ルカによる福音書』が描き出すのは、世の力であれば、それがローマであろうとエジプトであろうと到底果たすことのできない神の支配が御自身の全き愛に根ざすこと、そしてその神の支配の完成のために、ローマ帝国でさえも「ただの器」として用いることも捨てることもできるという「神の全能」である。

その働きを端的に示すのが本日の箇所。羊飼いたちがそこにいる。救い主のもとに携えてくる贈り物は、その手にはない。それどころか、羊飼いたちは住民登録すら行なわない。ヨセフやマリア、ザカリアやエリザベトには名前があるが、羊飼いたちには名前がないのだ。ローマ帝国という巨大な国家組織においては、人と人とがその名によって呼び合う関わりは稀であった。羊飼いたちは人としてまともに扱われてはいない。しかし、そのような事情の中にあるからこそ、主の天使が真っ先に神の栄光の輝きの中につつみこむのだ。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。「あなたがた」と呼ばれるのは無名の羊飼い。この羊飼いたちが、ローマ帝国の民全体を代表している。天使に語りかけられているのはローマ皇帝でも、ポンテオ・ピラトでも官僚のテオフィロでもない。貴族に天使が現れたところで、いったい誰が受け入れるというのだろうか。

それでは羊飼いたちが出会う救い主はどこにいるのか。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。飼い葉桶の乳飲み子。家畜の餌桶に眠る乳飲み子がメシアであるという。その姿こそが世にお生まれになった救い主の姿である。ローマ皇帝を頂点とし、家畜小屋の餌桶をどん底とする世の力が、今や神への讃美によって一刀両断される。神の愛の圧倒的な力により、羊飼いたちは鎖から解放される。夜通し羊の番をするという過酷で強いられたありようから解き放たれ、喜びあふれ自ら歩みだす羊飼いたち。どのような術をとったのかは一切関心が払われず、羊飼いたちはマリアとヨセフ、そして飼い葉桶の乳飲み子を探しあてる。そして「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」。我知らずして羊飼いたちは、救い主の誕生を告げ知らせる宣教のわざを担うにいたった。羊飼いたちは宣教のわざを、乳飲み子に献げている。世の役目を留保してでも、羊飼いは救い主の誕生を証しする。飼い葉桶の乳飲み子を軸にして開かれた垂直線が、人々とのつながりの中で地平線へと延びていく。垂直線と水平線が飼い葉桶の乳飲み子において交わり、それはいつしか十字架のかたちとなる。

「テオフィロさん、あなたはこの喜びを味わったことがありますか。もし知らないのであるならば、わたしたちの交わりに是が非でも加わってください」と語りかける不可能な事柄を可能にする、覚悟と勇気に根ざした喜び。その喜びは今、時を超えてわたしたちにも届いている。イエス・キリストの誕生を心から祝おう。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。クリスマスの希望と喜びをひしひしと感じる。

2019年12月15日日曜日

2019年12月15日(日) 説教

「想定外の恵みに救われて」
『ヨハネによる福音書』1章19~24節
説教:稲山聖修牧師


 『ヨハネによる福音書』では、イエス・キリストは神の御子であり、神の言葉であるとの理解に立つ。言葉は全く異なる他者相互の交わりを可能にする、今のところは人間のみに見られる特質だ。互いにへりくだって相手の言葉に耳を澄ますのであれば、言語が異なっていても次第に相手の事情が分かるが、反対に自己主張の衝動に捕われると、同じ言語を用いていても話が噛み合わなくなる。旧約聖書の『創世記』に記された「バベルの街」がよい例である。住民は日干し煉瓦を焼き、新たな煉瓦を発明する。技術革新に伴う人々とは「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」。根拠も必然性もない、右肩上がりの妄想に突如憑りつかれた人々がそこにいる。ともすれば天を超えていこうと勢いづく人々には謙遜さがない。その結果人々は街を造りの最中に互いの言葉に耳を傾けなくなる。主なる神が人のもとに降りてきて呟くには「我々はくだって行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしよう」。その結果、言葉が混乱して意思疎通が不可能になるという物語。そのような人の破れの只中に飛び込んできたのが神の言葉イエス・キリストだ。「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。あたかも荒れ野に神を讃美する幕屋が張られるように、人の荒んだありようの中に宿り、修復しがたい神と人との交わりを新たにする。


「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたはどなたですか』と質問させたとき、彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」との箇所が今朝の聖書。『マタイによる福音書』によれば洗礼者ヨハネは「さし迫った神の怒り」を、清めの洗礼を受けに来たファリサイ派やサドカイ派の人々に告げ知らせる。厳密には、イスラエルの民の拠り所を探求したファリサイ派と、エルサレムの神殿を軸として政治的に活動したサドカイ派は、その時代の「ユダヤ教」という大まかな括りには納まらない。ファリサイ派の場合はモーセ五書と、預言者の書物を重んじ復活信仰に立つが、他方でサドカイ派が基とするのはモーセ五書のみ。彼らは復活信仰には立たたない。人々を巻き込むその分裂の責任を逃れたまま、のこのこ清めの洗礼を受けるとは論外だと洗礼者ヨハネは檄を飛ばす。それが今日の箇所では、祭司や神殿に仕えるレビ人も含めてファリサイ派であるとして設定し直されている。救い主を待ち望む態度とこの世を生きる態度との間で彼らにも混乱が生じる。「あなたはあの預言者なのですか」。あの預言者とは、福音書の舞台となる時代に待ち望まれていた預言者エリヤ。洗礼者ヨハネは「そうではない」と返す。使者となった祭司やレビ人は困り果て、「それでは一体、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと思うのですか」。返す言葉は『イザヤ書』40章の「主の道をまっすぐにせよ」との言葉。バビロン捕囚期のただ中で、抑留の身の中で解放の知らせを語った人々の言葉が記されている。これは権威や政治的な力にのみ依り頼む勢力を、神が必ず打ち倒すという高らかな宣言でもある。



さて『イザヤ書』と同じく待降節に味わわれる預言者の書に『ミカ書』5章1節がある。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中からわたしのために、イスラエルを治める者が出る」との言葉。この言葉が『マタイによる福音書』では次のように書き換えられる。「お前はユダの指導者の中で決して一番小さい者ではない」。福音書の書き手はなぜこのように語り得たのか。それは洗礼者ヨハネからいのちのともしびを手渡されたイエス・キリストこそが救い主だとの深い確信を得ていたからであろう。想定外の、圧倒的な神の恵みを前に、わたしたちは直ちに喜びに包まれるのではなくて、正直なところ、戸惑いや混乱からは逃れられない。その状況は今まさにわたしたちの歴史のただ中で多くの混乱として生じている。しかしその混乱は、ひょっとしたら新たな時代をもたらす地殻変動でもあるかもしれない。その中でまことの力をもつのは、「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神がわれわれと共におられる』という意味である」と記されるイエス・キリストのいのちの輝きだ。わたしたちの混乱に先行して、混沌とした世に道を備える神の愛。飼い葉桶に眠るインマヌエルの神から発するいのちの輝きに全てを委ねて歩みたい。

2019年12月8日日曜日

2019年12月8日(日) 説教

「主に近づきいのちを授かる」
『ヨハネによる福音書』5章34~40節
説教:稲山聖修牧師
「主は国々の争いを裁き、多くの民を誡められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち砕いて鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。アドベントによく味わわれる『イザヤ書』。この言葉を始め、『イザヤ書』は福音書の形成に大きく影響を与えている。思えばイエス・キリストの誕生は、旧約聖書とは不可分であることに、日本人の誰が気づいているというのだろう。
 『ヨハネによる福音書』の中で記される、イエス・キリスト自らの証しが今朝の箇所だ。「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」。この福音書の中でキリストを示す一本の指としての存在感を示すのが洗礼者ヨハネだ。勿論福音書の著者の名前とは別の人物であるが。それにしてもなぜ繰り返し洗礼者ヨハネが際立たされるのか。直接の読み手として想定されたギリシアの世界観の影響を色濃く受けた人々が、神という言葉を恣意的に用いて救いに関する考えを妄想するのを止めさせ、旧約聖書とのつながりを強調するためではないだろうか。出エジプトの出来事はおろか『イザヤ書』すら知らない人々のために「最後の預言者」として初代教会が周知していた洗礼者ヨハネを際立たせ、人間の想念の産物としての神ではなく、歴史に具体的に働きかけ、一人ひとりと出会われるアブラハムの神が遣わした救い主として、世の全てのいのちが愛されていることを徹底的に強調するためだと思われる。
『ヨハネによる福音書』の背後には、神の名を用いて世のありかたを否定したり、身体が諸悪の根源だからといって蔑む考え方が無数にあった。そのような考え方に影響された場合、世の終末に教会組織に属する人々は救われ、それ以外の人々は滅びるというような歪んだ選民思想が生まれることもある。『ヨハネによる福音書』は、人が勝手にその名を用いることのできる「想念としての神」を論じるのではない。歴史に働きかけ、具体的な出会いをもたらすハプニングを創造するところの、イエス・キリストを通して働きかける神である。そしてその神は世がどれほど過ちや破れに満ちていたとしても、しっかりと抱きしめてくださる神でもある。その神の現臨がイエス・キリストにすべてを託された。だから次の言葉が記されるとも言える。「わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」。「燃えて輝くともし火」に表されるのは、自らを燃やしてあかあかと燃えて世を照らす、かがり火のようなものであったろう。人々はその明かりに向けて集まり、船はその光を見て陸に近づいたことを知る。それは世を否定するための炎ではなくて、人々に安らぎを与えるための炎であった。洗礼者ヨハネはこの炎。もちろんこの炎とて放置しておけば弱まり、消えてしまう。だからこそ「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」と語る。そこでは神は「神(God)」としてではなく、「父(Father)」として語られる。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになったわざ、つまり、わたしが行っているわざそのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。父なる神は、自らを知らない諸国の人々にさえ、温かな関わりを求めておられる。
 聖書を知りながらもイエス・キリストの姿を歪曲したり否定しながら読み込む人々が『ヨハネによる福音書』の成立した時代にもいた。むべなるかな。自分に迫るいのちの輝きには、時に人は堪えられない。アフガニスタンの復興に献身された中村哲医師が生涯を全うされた知らせを聞く。かの国では大統領も棺を担いだが、日本でその生き方に正面から向き合おうとする政治家は何人いるのだろう。また教会の群れの中にも、この世の否定のため、この世の何か好ましくないものを否定するために、神という言葉を濫用する姿もある。社会との関わりはその姿にはない。しかし、旧約聖書に記された神は人間にどのように向き合ったか。自らとの約束を破り、楽園を追放されるアダムとその伴侶にさえ「死んではいけない」と皮の衣を着せられる愛をお持ちの方なのだ。その愛がイエス・キリストの降誕によって鮮やかに示され、「わたしのところへ来なさい!」と今なお招く神の姿が浮かびあがる。洗礼者ヨハネが示したイエス・キリストの誕生の出来事を感謝したい。いのちをともに授かろう。


2019年12月1日日曜日

2019年12月1日(日) 説教

「救い主は必ず来る」
『イザヤ書』52章7~10節
説教:稲山聖修牧師


66章からなる『イザヤ書』。この書物は概ね三部に分かれる。1章から39章まではエルサレムが滅亡にいたるまでの40年間のイザヤと呼ばれる預言者の言葉、40章から55章まではバビロン捕囚期に活動した第一イザヤに連なる預言者の言葉、そして56章から終章まではバビロン捕囚の後にエルサレムへと帰還し、その地で直面した新しい課題に向き合いながら、イスラエルの民を超えて異邦人へと広がりゆく神の国の訪れを決定的な希望として語った言葉が記されるという。今朝味わうのは抑留されていた時代を背景とした文章である。
 「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられたと、シオンに向かって呼ばわる」。抑留の地において、この預言者は喜びの訪れを語る。「良い知らせを伝える者の足」。遣わされた使者のメッセージは「よい知らせ」。「福音」という言葉元来の意味はイザヤ書にあるとおり「よい知らせ」だ。その知らせは何に繋がるのか。それは「平和」であり「救い」。そしてその平和と救いは「あなたの神は王となられた」という堅く結びつく。そして「あなたの神は王となられた」。「王が神となった」のではなく「神が王となった」。この言葉にはこれまで犯し続けてきたイスラエルの民の過ちの歴史が暗示される。

出エジプトの旅が終わり約束の地に入り長い月日が経ち、サムエルという人物が人々を導いていたそのとき、イスラエルの部族には異邦の民の干渉を招く内紛が数多くあった。その中ではサムエルの息子もまた「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」。現状打開のために長老たちは中央集権的な政治体制の象徴でもある王を求めるが、サムエルにはその言い分は悪と映った。祈りの中でサムエルは聴く。「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」。『サムエル記上』8章では、このありようが同書に描かれるイスラエルの民の過ちの端緒として記される。この過ちを踏まえてこその「あなたの神は王となられた」との言葉。それはイスラエルの民の態度の転換だけには留まらない。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。抑留の地から遠く、廃墟となったエルサレムに希望が語られる。うち捨てられたその街には絶望や嘆きではなく、喜びが戻るのだ。
旧約聖書の物語には、過ちを犯した民を救おうとするとき、神は天使を派遣して人々を精査するというパターンがある。しかしもはやそのような精査は不要である。バビロン捕囚そのものが民の過ちを示しているからだ。人々は粉々に砕かれている。この絶望のただ中で、神の遣わす唯一無二の救い主の訪れが待望される。

バビロン捕囚という、言葉にできない悲しみと囚われの中で、イスラエルの民は自らは鎖に繋がれたまま、なおも神が備えたもういのちの希望のメッセージに耳を傾けた。「平和と恵みの良い知らせ」に包まれ希望を備えられた。現代のわたしたちはバビロン捕囚ならぬ、利己主義と虚構に溢れたエゴイズム捕囚の中にある。見えない鎖で自分自分をがんじがらめにしては責任転嫁を平然と行なう。その頑なな心を、飼い葉桶に安らう乳飲み子イエス・キリストは「弱さ」という力でもって見事に打ち砕く。そして廃墟に重なる荒んだ心に「ともに喜び歌え」とのメッセージを届け、隣人との交わりの扉を開く。この喜びに包まれて礼拝は献げられる。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と『詩編』で詩人が語るように。神の前に崩れ落ちて胸を打ち叩いて悲しむ人々の祈りが、喜びに変わる。その出来事が救い主との出会いの中で起きる。今、この時代。待降節の中、キリストとの出会いを待ち望み、祈らずにはおれない。

2019年11月24日日曜日

2019年11月24日(日) 説教

「神の平和の実りを告げる」
『ヨハネによる福音書』18章37~38節
説教:稲山聖修牧師

 イエス様がお働きになった場所では、稲の代わりに麦を育てて人々は暮らしていました。お米は炊いてご飯にしたり、お餅にしたりしていただきますが、麦は石臼で引いて粉にし、パンにして食べます。上等の小麦を食べられるのは少しの数の偉い人ばかり。それでもみんながお腹を空かせることなく暮らせるのはとても大切なことでした。けれどもそのような暮らしでさえ続けるのは難しいものでした。戦争が起きれば兵隊さんの食べ物として持っていかれてしまいます。日本ではあまり見かけませんが、バッタの群れに襲われて麦が全て食べられてしまうこともあります。草がとれない寒い季節には麦わらは家畜の餌にもしますが、やはりこれも軍隊がとっていってしまうことも多かったと聞いています。お金持ちは汗水垂らして集めた麦を僅かばかりのお金で買い取って高く売ろうとします。農家の人は本当に苦労ばかりしていました。

 そのような農家の人々を始めとした有名ではない人々とイエス様はお話をしたり、外には出られないような病気に罹った人、目の見えない人、耳の聞こえない人の苦しみを癒して回りました。あるときには、生まれつき目の見えない人に出会われたこともあります。畑仕事もできない人でした。お弟子さんはイエス様に尋ねます。「先生、この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。イエス様はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現われるためである」。イエス様はそうやって多くの人を支えたり、励ましたり、病気を治したりしていかれました。けれどもこれが、イエス様の時代の偉い人やお金持ちの人々には気に入らなかったのです。気に入らなかったというより、怖かったといったほうがよいでしょう。なぜならば、イエス様はどんなに立派なお屋敷に暮らしていても、お金をどれほどたくさんもっていても、できないような神様のお仕事を次から次へと行っていきますし、イエス様と出会った人々は、お金持ちの誰よりも幸せそうな顔をしているからです。人々のお腹を空かせたまま、病気のままでほったらかしにする王様よりも、本当の王様はイエス様なのでないかという人も出てきました。偉い人やお金持ちはイエス様がだんだん邪魔になってきました。辛い思いをしている人を励ます言葉でさえ、うるさい言葉としか聞こえなくなってきました。そしてとうとう、やってもいない疑いをかけられて、イエス様は逮捕されてしまったのです。「この人は自分を王様にしたい悪人だ」。多くの人を助けたイエス・キリストは、今度はご自分が助けた人の味わった苦しみをともにすることとなりました。



 今日の箇所はイエス様が裁判を受けている場面です。ピラトという人は、ローマの身分の高い、裁判官よりも身分の高いところでイエス様が助けたような貧しい人を王様よりも強い力で支配している人でした。ピラトは尋ねます。「お前はやはり王なのか」。イエス様が答えるには「王様だと言っているのはあなたの方です。わたしは何が正しいのか分かるようになるために生まれました」。ピラトは尋ねるには「正しい事とは何のことだね」。イエス・キリストは黙っていました。なぜかと言えば、ピラトは自分の聞きたいことしか聞こうとしないことはイエス様には分かっていたし、苦労しながら麦を育てたり、あまりにも貧しくて麦を育てることもできない人の話など、お屋敷に住んでいるピラトが聞くはずもないと分かっていたのかもしれません。ピラトはとうとう「この男には何の罪も見いだせない」と言う始末でした。ピラトはイエス様が悪いことを何もしていないと認めてしまったのです。それではなぜイエス様は十字架にかけられてしまったのでしょうか。わたしたちが長い時間をかけて祈り考えなくてはならないことです。

 イエス様は苦しんでいる人々の苦しみや悲しみを背負うためにこの世にお生まれになったと聖書には書いています。みなさんは一日何度食事をしますか。それも食べられないおともだちがわたしたちのすぐ隣に暮らしています。今朝の礼拝で献げてくださった食べ物はそのおともだちと分けあいます。どうかそのおともだちを心から尊敬してください。そのようなイエス様のお仕事が、わたしたちにも任されているのだと思い起こしましょう。

2019年11月17日日曜日

2019年11月17日(日) 説教

「渇きをうるおすキリストの滴」
『ヨハネによる福音書』6章28~35節
説教:稲山聖修牧師



 本日の聖書は『ヨハネによる福音書』の物語。『ヨハネによる福音書』は他の福音書に比較すると、歴史的なイエス・キリストの歩みをたどるというよりは、他の福音書を下敷きにして救い主の姿をあらためて思いめぐらし、その時代のものの考え方の限界に対して、旧約聖書のアブラハムの神、出会いの中でハプニングを起こされる神、そして復活という道筋の中でわたしたちの世界と死後の世界の垣根を吹き飛ばす神を問いかけ、そしていかなる世にあっても、いのちの光を絶やすことのないイエス・キリストのメッセージを衝突させて、キリストの勝利を讃えようとする色彩に溢れているように思われる。
 今朝の箇所は、湖の畔でイエス・キリストが五千人に五つのパンと二匹の魚を分かち、人々を満たした出来事の翌日という設定だ。イエス・キリストがパンを分かち合う恵みというハプニング、すなわち奇跡を行なった箇所から物語は始まる。キリストと弟子を求める群衆は、懸命に追い続け、ついには前日の場所からは向こう側の岸辺にいたことを突きとめる。そして語るには「ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか」。


 キリストが答えるには「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。キリストを探し求めてきた群衆はその多くが無名であり、従って概ね貧しい人ばかりだ。だからパンを食べて満腹したからキリストを求めたからとしても何ら咎め立てを受ける筋合いはない。けれどもキリストは語る。救い主の訪れであるときのしるしを見なさい!と。そして「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子をお認めになり、証しされたからである」。
 イエス・キリストは群衆にさらなるステップアップを求める。それは修行や訓練を前提ではなく、すでにキリスト自らを探し求める道のりに明らかだ。濃密な対話のもと、群衆は問いかける。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。イエス・キリストが答えるには「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。群衆が問うには「それではあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。わたしたちの先祖は、荒野でマナを食べました」。群衆は旧約聖書『出エジプト記』にある、エジプト脱出のただ中で、飢えに苦しむ難民同然の人々に神が食べさせた食糧を想起する。イエス・キリストは答える「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」。イエス・キリストは、食糧を備えたのはモーセでなく、あなたがたの先祖を奴隷の住いから解放したアブラハムの神であると断言する。人々の眼差しをモーセその人から、その人物が生涯を賭けて示そうとした出会いの神、奴隷解放の神へと誘おうとする。群衆は熱心に問いかける。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。キリストが答えるには「わたしはいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない」。
 『ヨハネによる福音書』19章28節では、この福音書ならではの祈りが込められた、イエス・キリストの言葉が記されている。磔刑にされて絶命する際にキリストが語った言葉は「渇く」であった。イエス・キリストは救い主としての働き全てを通して、出会う人々の渇きを満たし、自ら「渇く者」となった。救い主はそのような苦しみをもって、わたしたちに復活のいのちを備えてくださった。
 
 わたしたちは本日教会のバザーを行なう。確かにバザーの収益は大切だが、それ以上に大切なものがある。それはイエス・キリストに根を降ろす教会の交わりを通して育まれる潤いだ。効率とひき換えに交わりを失った現代の「渇いた時代」に教会はあらゆる仕方で神の潤いを分かち合おうとする。わたしたちは喜びに満ちたハプニングとしての出会いを求めていきたい。今日一日を神さまの愛の力に満たされた素晴らしい日にしたいと思う。

2019年11月10日日曜日

2019年11月10日(日) 説教

「おさなごに証しする神の愛」
『ヨハネによる福音書』8章55~59節
説教:稲山聖修牧師


石川県の犀川沿いには口伝承の物語として次のような話があるという。暴れ川として知られるこの川にほど近い村に弥平という父親と、お千代という娘が暮らしていた。お千代は手まり遊びが大好きな娘だった。
お千代が熱を出してしまい生死の境を彷徨う。思い詰めた弥平はお千代がうなされながら呟く「小豆まんま食べたい」という願いを叶えるために一度だけ盗みを働く。庄屋の家に入り一握の米と小豆をぼろ布袋に入れて、お千代にその粥を食べさせた。そのお陰かお千代はみるみる健やかになって「小豆まんま食べた、うんめいまんま食べた」と歌いながら手まり遊びをした。
長雨が続く。川が溢れんばかりの勢いで流れていく。氾濫が迫るとき村では人柱を立てる倣いがあった。川の主(ぬし)によからぬことをしたとの疑いをもたれた者が人柱となる。お千代の手まり唄を聞いたという者が現れ、その年の人柱は弥平となった。お千代はそのわけを後日村人から聞き、幾日も泣き続けた後、言葉を失い、とうとう村から姿を消した。さて何年も経った後、村はずれに住う猟師が、久しぶりに獲物に恵まれたと喜んでいたとき、見覚えのある面影の娘が木陰に立っていた。ぽつりと言うには「雉も鳴かずば撃たれまい」。
この伝承の背後には、人柱という慣わしへのやり場のない憤りと悲しみがある。最も悲劇的なのは、お千代の手まり唄が川の氾濫に劣らない悲しみをもたらすところだ。おさなごの天真爛漫さが父の死の呼び水となってしまう。義憤と悲しみがなければ物語は決して語り伝えられなかったはずだ。
ところでこの伝承とは対照的に、おさなごの天真爛漫さが世の権力に打ち勝つ物語をわたしたちは知っている。「自分の地位にふさわしくない者には見えない布地」で作られた衣装でお披露目のパレードをして、大人たちがおべんちゃらの拍手をする中、あるこどもが「なんにも着てないよ!」と叫び、続いて群衆の中に「なんにも着ていらっしゃらないのか?」とざわめきが広がり、遂には「何も着ておられない!」という騒ぎの中、パレードは続くという社会風刺の物語。アンデルセンの童話「裸の王様」だ。おさなごの天真爛漫さという宝がどのような彩を放つのか。これがこどもたちの置かれた社会を映す鏡として、物語の書き手や言い伝えの担い手すら気づかないないままに描かれているようでもある。

イエス・キリストもある種の天真爛漫さを湛え、無邪気さに溢れているように思える。その天真爛漫さや無邪気さは、わたしたちのそれと深く共鳴するところだ。イエス・キリストは決して悟りを開いた人物ではなかった。エルサレムの都を眺めてそのさまを嘆いては涙し、徴税人と食卓を囲んでは笑顔とともに語らい、エルサレムの神殿の境内で両替商の机をひっくり返す気性の激しさももつ。その振る舞いの源は、父なる神と直接結びついたところの天真爛漫さだ。だからこそイエス・キリストは絶えず真理を示し、恐れ知らずである。
「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と迫る反対者を恐れずにイエス・キリストは語る。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見て、喜んだのである」。反対者たちが「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエス・キリストは答える。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる以前から、『わたしはある』」。「わたしはある」とは、『出エジプト記』でモーセがホレブ山に登った時に示されたアブラハムの神の名前。イエス・キリストはこの言葉を語ることによって、自らが神から遣わされた救い主であることを示す。究極の天真爛漫さとしての姿をも併せもつ、神の言葉という真理がそこにある。
今わたしたちがこどもたちに証しできるのは何か。手がかりはお千代のために泥を被りながら遂には生き埋めにされていった弥平の姿だ。しかしわたしたちが受けとめる弥平の姿は、口伝承の弥平とはその姿を変えている。「雉も鳴かずば撃たれまい」から「屋根の上で時の訪れを告げ知らせる雉の声」となっている。その声は村中に響き渡り、おさなごに「もう泣くことはない」「どんどんてまり遊びをしなさい」「安心してご飯を食べなさい」「喜びの歌を歌いなさい」と語りかけ、大空を駆けていく御使いとなった弥平の姿がある。人柱としていのちを奪われても、神の愛が世におよび完成するとき、キリストにあって復活する弥平の姿だ。「わたしはある」という名のアブラハムの神は語る。「大丈夫だ。わたしはいつもあなたとともにいる」。イエス・キリスト自らが、主の祈りの中で「父よ」と呼ばわったように、わたしたちも「天にましますわれらの父よ」と始まる「主の祈り」を献げることを赦されている。イエス・キリストに根を降ろす中で、齢を重ねながら、わたしたちもまた神の子の一人としての祝福に授かる。「大丈夫だ。わたしはいつもあなたとともにいる」。インマヌエルの神・イエス・キリストがおさなごたちを自らの愛でつつんで導き、おとなを正気に立ち返らせてくださるのだ。



2019年11月3日日曜日

2019年11月3日(日) 説教

『ヨハネによる福音書』3章16~21節
「真理の足跡をたどって」
説教:稲山聖修牧師

わたしたちの世のあり方は一人ひとりのかけがえのない歩みを、交換可能なデータという仕方で、また情報として扱うという一面をもつ。それは現代の情報化社会ではやむを得ないところではある。けれどもその「やむを得ない」ところに胡座をかくならば、わたしたちは神が授けたいのちの尊厳を見失うことにもなる。永眠者記念礼拝で覚えられる兄弟姉妹は一人ひとりがかけがえのない顔をもっており、その人ならではの歴史を世に刻んでこられた方々であるのにも拘らず、である。しかし旧約聖書を重んじ、アブラハムの神との関わりを何よりも大切にする人々は、いのちというものが、自らの思いも含めて決して意のままにはならないどころか、言語を絶する状況の中でもなお特別な役割を託されたと確信した上で、同胞の死にざまだけでなく生きざまをも証言する役目を深く自覚していく。かの人々は僅かな隙間であっても神の授けたもう可能性に賭ける。そして齢を問わずその責任を全うするというところに旧約聖書の民の希望がある。その希望に満ちた眼差しは、神の愛の支配へと向けられ、そして次の世代の人々との関わりをより堅くする、まだ見ぬ未来へと向かっている。

それでは福音書に記されているところの真理について、わたしたちはどのように語るべきであろうか。天に召された兄弟姉妹の歩みに示された道。それは朧であるにせよ、確たるものとして証しされたアブラハムの神の真理であり、イエス・キリストが示された真理であり、人々がそれによって自由にされるところの真理である。『ヨハネによる福音書』3章19節には次のようにある。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行なう者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ないからである」。天に召された兄弟姉妹が歩まれた世がこの言葉に重なる。また同時に、この聖書の言葉はもう一つ大切な事柄をわたしたちに語る。それは「それが、もう裁きになっている」との一節である。わたしたちはもはや世を裁く必要はない。神の刻まれた歴史に手を加えようとする者を、さまざまな偽りを語る者を、誘惑する者を恐れたり、断罪する必要すらない。なぜならば、神が自らの手によってそのような世に介入され、苦しむ者を助けあげてくださるからである。そのような神の愛のわざが、イエス・キリストによって示されている。「しかし、真理を行なう者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。天に召された兄弟姉妹は、各々世にあってさまざまな葛藤や苦悩を抱えて歩まれていった。しかしそれらの葛藤や苦しみが、イエス・キリストにあっては和解と喜びに変えられるのである。




今わたしたちは、天に召された兄弟姉妹とともに礼拝を執り行っている。それは決して懐かしい時代への想起には留まらない。それどころか、イエス・キリストを通して、わたしたちには、天に召された兄弟姉妹と語り合うことまでも赦されており、ぜひともそうするべきである。それは単なる死者との対話ではない。イエス・キリスト自らも、山の上でモーセやエリヤと語り合われたと聖書には記されている。新約聖書の舞台では、モーセもエリヤもその人としては天に召されているが、イエス・キリストは神の栄光のもとで語り合う。それは活ける神の歴史との対話だからである。それはわたしたちもいのちの光の中で再会するであろうところの、復活を約束された、まことに大切な方々との対話である。「イエス・キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり」とわたしたちは使徒信条を告白する。イエス・キリストは古代にあって死者が赴くであろうとされた地の底にまで突き進まれた。生者と死者の深い一線を超えられた。そのわざを確かめながら、わたしたちは死後の世界という幻から、イエス・キリストに照らされたいのちの光のもと、世に遺された真理の足跡をたどる。そこには旧約の民からイエス・キリストを通してわたしたちに拓かれた、活ける真理としての神にいたる道がある。主にある再会を待ち望みながら、召された兄弟姉妹とともに礼拝を守る喜びに、心から感謝したいと願う。主なる神は全ての民を覚えてくださる。そして天に召された兄弟姉妹も、世にあるわたしたち一人ひとりをも覚えてくださる。御自身が愛する民を神が忘れるはずはがない。その記憶が、わたしたちのいのちの喜びを育むのだ。

2019年10月27日日曜日

2019年10月27日(日) 説教

ローマの信徒への手紙3章21~31節
「信仰義認とは」 
説教:渡辺敏雄牧師

 今から500年ほど前1517年10月31日ヴィテンベルクの城壁の扉にカトリック教会に対して95箇条の抗議文を貼り、宗教改革ののろしを上げたのがマルチン・ルターでした。そしてその炎は燎原の火のごとくヨーロッパに燃え広がることになったのです。その宗教改革の大きな原理の一つとしてあるのがいわゆる「信仰義認」であります。信仰によって義とされるというのがあります。当時のローマカトリック教会が免罪符を買うことによって罪は赦され、天国に入ることができると説いたのに対して、ルターはいやそうではない。私たち人間のわざによって、何か功績、功徳によって救われるのではない。「信仰によって義とされ」、救われるのだと説いていったのです。
 ここでわたしたちが気をつけなければならないことは、信仰によってと訳されていることで、わたしたちの信仰の力によって、義とされる、救われると勘違いしないことです。信仰と訳されていますが、本当は「真実」という意味であります。パウロ書簡において信仰と日本語で訳されている言葉は、真実と言い換えた方がいいのです。私たちは、真実によって義とされ、救われるのです。では誰の真実か。それは神の真実です。イエス・キリストの真実です。人間の真実ではありません。信仰によってと訳されますと、人間の側にある信仰によってと考えてしまいがちになりますが、そうではありません。功徳は言うまでもなく、人間の信仰さえ、あえて言うなら世間で聖人と言われている人たちの信仰さえ、自らを義とはなしえないのです。あくまでわたしたちは義とされるのです。受け身であります。義とする主語は神であります。神の私たちに対する真実が、イエス・キリストに現れた神の真実が私たちを義とするのです。あえて言うなら、そのことを信じることによって、その恵みを受け取ることによって私たちは義とされる、良しとされるのです。

 そしてさらに重要なことは、わたしたちを義とする神の真実は、わたしちをまた聖とする、清くするということです。いわゆる聖化です。義認と聖化とは表裏一体です。義認なき聖化はありえないし、聖化なき義認もありえないのです。ペテロの手紙一、1章15節で「聖なる方に倣って、あなたがた自身も聖なる者になりなさい」と言われています。パウロもまたローマの信徒への手紙12章1節で「自分の身体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてとして献げなさい」と言われています。このように言われて、では聖なる者となるためにがんばらなくてはとなりますと、生活がしんどくなります。義務のようにとってしまいますと、生活は窮屈になってまいります。ここでも聖とする主体は神であります。神がわたしたちを聖なる者とするのです。私たちは聖なる者としていただくのであります。自分が自分の力で聖なる者となるのではなく、神がしてくださる、その力を私たちは受け取るのであります。そのために私たちは神に対して、心をいつも開いていく必要があります。聖霊をわたしたちの心のうちに迎え入れていくのです。聖霊によってわたしたちは聖とされるのです。聖霊においてイエス・キリストを内に迎え入れるのです。キリストの心を我が心としてもらうのです。イエス・キリストにおいて現れた神の真実によって聖なる者とされるのです。聖なる者とされるとは、聖人になることではありません。聖徒としてより一層完成されるのです。そのことで大事なことは祈りです。祈りにおいて「神様、どうかわたしを聖なる者にしてください」と祈るのです。神さまはわたしたちが聖なる者となることを望んでいますから、祈りに応えて、日々聖化の道を歩ませてくださいます。罪人でありつつ、一方では、聖なる者へと近づけてくださる。その途上に私たちは今生きているのです。イエス・キリストに現れた神の真実によって義とされた私たちの歩みは始まっています。また聖化の歩みも始まっています。今日の聖書の箇所31節「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」と言われていることはそのことです。律法が義務として機能するのではなく、恵みとして機能するとき、神が恵みとしてわたしたちに与えてくださった律法が本来的意味を確立するのです。恵みが恵みとして機能するのです。日々のわたしたちの義認と聖化の歩みの根拠、根底にあるのは、あの十字架においてわたしたちに示された罪ある者を義とする神の真実です。その神の真実は今生きているときも、また死ぬるときにおいても根拠であり、根底にあるものであり、また大いなる希望でもあるのです。

2019年10月20日日曜日

2019年10月20日(日) 説教

《こどもとともにまもる礼拝》

「わたしの大切な人はだれですか?」
『ルカによる福音書』10章25~29節
パネルシアターによるメッセージ:稲山聖修牧師


 イエスさまの言葉を受け入れられない、ある律法学者が次のように尋ねました。「先生、何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」。イエスさまが答えるには「聖書にはどのように書いてあったかな?」。ニコリともせず律法学者は「<心を尽くし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい>とあります」と言いました。イエスさまは「すばらしい!それをやってごらんなさい。そうすればいのちを得られますよ」と勧めましたが、律法学者は「それでは、わたしの隣人とはだれですか?」と重ねて問いました。イエスさまは答えをそのまま教えません。その代わり、譬え話となる物語をお話になりました。それは次のようなものです。
 聖なる都エルサレムから、人の往来の賑やかな街エリコに続く一本の道がありました。岩だらけの荒れ野を通る、寂しくて、時には危険な道でした。そこにある旅人がやってきました。「さあ、急がなくっちゃ。エルサレムでお祈りも済ませたことだし、神さまはきっと守ってくれるに違いない。あの町はサマリア人やいろいろと面倒な人たちもいるんだが、ともかく用事を済ませなくては」。そんなまじめな旅人の前に立ちはだかる人影がありました。何と盗賊です。「おう、兄さん、なかなかご立派な身なりだな。どこへいくんだ」。「何ですか突然に。わたしは旅の途中なのです。道をどいてください」。「偉そうに何を言ってやがるんだ。みんな、やっちまえ!」その声を聞いたとたん、旅人は気を失ってしまいました。身体がしびれて動けませんが、とても熱くなっているのは分かりました。旅人は殴られ蹴られ、お金も服も一切奪われて、裸同然の姿で道端に倒れたまま動けません。「だ、誰か助けてください、助けて...」と思っても、ろれつが回らないのです。


 その場所に、旅人とは反対の方向を急ぐ祭司が通りかかりました。「エルサレムの仕事に遅れそうだ。しっかりお祈りの言葉を献げられるかな。いや、そんな心配をするよりも、まずは集中あるのみ!神さまお助けください」。そんな祭司の視界に飛び込んできたのは、道端に倒れ伏している、先ほどの旅人です。祭司は心に思いました。「...うわっ!これはひどい怪我だなあ。気の毒だけれども、これは身体が持たないだろう。それよりもエルサレムの仕事、仕事」。血を流して倒れているその人から目を背けて、通り過ぎていきました。次にやってきたのは、レビ人。祭司のお手伝いを始め、神殿でのお仕事をする人です。この人もどこか忙しそうです。「全くもう、あの祭司は人使いが荒くて困るよな。忘れ物をとってきなさい、なんてよくも言えたものだ。あれが神さまに仕える人なのか。それにしても急がなくては!」。そんなレビ人の視界に飛び込んできたのは、道端に倒れ伏している、先ほどの旅人です。レビ人は心に思いました。「ごめん、時間がないのよ...」。レビ人も目を背けて、通り過ぎていきました。最後に通りかかったのはサマリア人の旅人です。この人は血まみれの旅人を見るや「これは大変だ。消毒になりますから、ぶどう酒を注ぎますよ。それから化膿どめに油も塗っておきます。我慢してくださいね。包帯もしましたから。さ、ロバに乗せますよ。いのちに勝るものはなしってね、心配しないでくださいよ」。サマリア人は旅人を宿まで運んで「大将、一大事だ。この人を看病してやってくれ。お金なら日当二日分置いていくから。帰りに寄るから、足りなかったらその時に言ってくんない」。
 このようなお話をした後で、イエスさまは律法学者に語りかけました。「誰が旅人の隣人になりましたか?」。律法学者はこう言います。「その人を助けた人です」。そこでイエスさまは力強く仰せになりました。「あなたも同じようにしなさい。そうすればいのちが得られますよ」。
 そしてさらに、わたしたちはこの譬え話で、また大切なことに気づきました。祭司やレビ人、そしてサマリア人を結ぶ大切な人がいたことを。それは道に倒れて痛みを堪えている、身ぐるみはがされた旅人でした。この旅人の姿は誰かに似てはいませんか。わたしたちには十字架に架けられたイエス・キリストの姿が重なります。この旅人は、何か素晴らしいことができるはずもありませんが、祭司・レビ人・サマリア人という、立場も考えも違う人々との関わりを結んだからです。イエスさまが伝えてくださった、神の平和を実現する人になりましょう。

2019年10月13日日曜日

2019年10月13日(日) 説教

『ルカによる福音書』16章19~24節
「神が祝福する貧しさとは」
説教:稲山聖修牧師

本日は神学校日・伝道献身奨励日礼拝。伝道者とは概して、世にある冷笑主義や嘲笑を避けて通ることはできない。伝道者に嘲笑を甘んじて受ける覚悟がなければ、その人は世の闇や病を表に出し、癒すことができないからである。少なからずの伝道者が心身ともに病を抱え込んでいる。けれどもその伝道者の病が、その教会や社会の病を映し出しているのは明らかだ。「綺麗事を言ったところでお金があるに越したことはないじゃないか。君も若いなあ」とキリストをなじる声が今日のテキストからは聞こえるようだ。「不正な管理人の譬え」の物語を嘲笑する「金に執着するファリサイ派」に切り返したイエス・キリストが、さらに紡いだ言葉。それが今朝の箇所だ。長い譬え話なのでポイントを抑えながら解き明かしてみる。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた」。衣を染める紫の染料は、パレスチナでは採集できない材料から作られる。それは地中海で獲れる希有な貝の体液を陽の光に照らして得られる。実に高価である。後には一般には禁じられるまでになった。この金持ちは、そのような高価な衣を日々当り前のように着ては「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。「放蕩息子の譬え」で用いられる「放蕩」とは無駄遣いを意味してはいるものの、具体的な使途についてははっきりとは記されない。しかしこちらの金持ちの場合は実に具体的に描かれる。「遊興に耽る日々」と理解して間違いはないだろう。注目するべきはこの金持ちの家の門の前に、雨露を凌ぐ家さえもない貧しい者が身を横たえていた、という事実。遊興に耽るため家を出入りする度に、金持ちは門の前に横たわる瀕死の貧しい人に気づく機会は一度ならずあったはず。しかしその姿は金持ちには関心の外にある。台風の中風雨に晒され続ける路上生活者に重なる。

 もちろんこの譬え話の軸となるのは金持ちではなくて瀕死の人である。金持ちには名前がない。しかし門前の路上に横たわる人には名前がある。「ラザロ」がその名前。世の富における事情では対照的な二人。しかし、逝去の後は全く対照的なところに身を置くこととなる。そもそも福音書の中で死後の世界が具体的に描かれる箇所は多くはなく、その点でもこの箇所は異色だ。ラザロは天使たちに宴の席にいるアブラハムの隣へと連れられていく。一方で金持ちは陰府の世界で苦しみながらアブラハムとラザロを遙か彼方に仰ぐ。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」。金持ちの関心事は、単純に自分のことだけだ。まずアブラハムは、この金持ちは生きている間によいものを、ラザロは悪いものをもらっていたが、今ラザロは慰められ、金持ちは悶え苦しむと語る。そしてラザロと金持ちの間には渡ることのできない淵がある、と記される。二人は分断されている。しかしなおも金持ちは食いさがる。「せめてラザロを父の家に遣わし、五人の兄弟にこの場所に来ることがないよう言い聞かせて欲しい」。この求めにアブラハムは「お前の兄弟にはモーセと預言者がある。それに耳を傾けることだ」と答える。「モーセと預言者」とはその時代の聖書を指している。納得しない金持ちに、アブラハムは、仮に復活したとしても、聖書の語るところに無関心であるならば、生き方を改めることはないと説く。
この譬え話で問われるのは、金持ちがラザロに一瞥もしなかったこと、そしてその妨げとなったのが、金持ちには自らの富であったということだ。この話を聞いた「金に執着するファリサイ派の人々」はどのように応えたのだろうか。この人々の姿は、実は後の教会のあり方に対する痛烈な反面教師にもなっている。その時その時の権威に、玉虫色の衣を着ては唯々諾々として従うばかりの交わり。そこには人の欲得や情念はあったとしても、神の愛の力である聖霊への感謝はあるというのか。今の世にあって、わたしたちは心ない言葉を受ける機会も少なくはない。そのときこそ、わたしたちに対して神に祝福された貧しさが問われる時だ。わたしたちが根を降ろすのは神ご自身であり、教会は聖書を通してその事実を受け入れる。ラザロの貧しさあればこそ、わたしたちはお互いに支え合うことができる。陰府にまで降ったイエス・キリストが、かの金持ちをも救ってくださることを待ち望めるのだ。キリストは全ての分断の壁を越えて進む。それがわたしたちの希望となる。勇気を持とう。

2019年10月6日日曜日

2019年10月6日(日) 説教

「泥まみれの姿を祝福する神」
『ルカによる福音書』16章9~13節
説教:稲山聖修牧師


イスラエルの民の歴史は、人々を奴隷生活から解放したアブラハムの神への従順よりも反抗が目立つ。その中でも深刻だったのは「偶像を刻み、それを礼拝する」とのわざ。旧約聖書が「偶像崇拝」という言葉で遠ざけようとしたのは、エジプト王国で祀られていた「金の牡牛」の像だった。「金の牡牛」とは、ファラオを始めとした王国が求める、富や豊かで快適な暮しを象徴する豊穣の神。飢饉や疫病が今よりも絶えず暮しを脅かしていた時代にあっては、それもまた一つの考え方やあり方であるとも言えるが、なぜこのありかたから遠ざかるよう繰り返し聖書に記されてきたのか。それは、人間の定めた目的や果実、成果が絶対化されて、本来は地位や身分を超えて尊ばれなくてはならないはずの「いのちの尊厳」が、いつの間にか人の尺度に基づいて序列化・排除・否定されることを通して危険に晒されるとの理解が、旧約聖書には隠されているからだ。他方でわたしたちは、物々交換の世界に暮らしてはいない。景気も数値でなくては分からないというジレンマを、わたしたちは抱えている。
 本日の譬え話が記されるのは、ローマ帝国による支配が完成された中で成り立つ文書である『ルカによる福音書』。その中にイエス・キリストの語った「不正な管理人の譬え」が記される。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった」。横領との噂が立った財務の管理人。主人は噂の真偽とともに「会計の報告書を出せ、管理を任せるにはいかない」と迫る。管理人はこの時点で自己弁明をせず、その後に身の振り方に思いを巡らす。「主人から仕事を外されるかもしれない。とはいえ額に汗して働く力も無く、物乞いをするほど面子を捨てることもできない」。そこで管理人は早々に自分の解雇を見通して「自分を家に迎えてくれる者」を作ろうと、借用書の改竄を試みる。「油100バトス」。1バトスは23リットルだとされる。この借入料を半分にしようと試みる。「小麦100コロス」。1コロスは230リットルだとされる。これを80コロスに書き換えようとする。公文書偽造は今昔を問わず重大な犯罪のはずだが、主人は管理人の振る舞いを機転として受けとめて評価して解雇せず、告訴もしない。これは一体どういうことなのか。

「会計の報告書を出せ」と詰め寄った主人は、結局は被害届を出さず管理人の手法を褒めた。実はこの譬え話、管理人が何をしたのかという面よりも、主人が関心を寄せていた事柄が要になる。主人には油や小麦といったものは、大切な商品であると同時に消費ないし消耗されていく品目でもある。金銀財宝ではないところが決め手。需要がなければ油は放置され劣化する。小麦も値打ちが下がる。農産物の出来高は年によって決して一定ではない。価格も変動する。そうした損得を主人は見越している。けれども肝心なのは補填や、価格が不安定な品目の証文を、管理人自ら泥を被るリスクとともに書き換え一定の関わりを作ろうとした、というところにある。これには政財界の歪んだ「お友だち」とは紙一重ながら決定的に異なるところがある。それは「自分を家に迎えてくれるような者」を増やすこと。この管理人が求めていたのはキャリアを失ったとしても態度を変えずに関わってくれる友人だ。リスクを冒して暮しを助けてくれた事実は恩義となり、商品としての油や小麦に勝る。この譬え話の流れに則するのであれば、お金や社会的な立場を、主人も管理人も決して絶対視してはいなかったという理解も可能だ。管理人の信用は転じて主人の信用につながる。神の愛はこうして証しされる。
イエス・キリストは経済のみに偏った繁栄の儚さを説く。そして同時に、移りゆく世にあってどれだけ人々と信頼を深め「永遠の住処にいたる喜び」を証ししたかどうかが問われると語る。神礼拝と世にある働きは決して分断されない。その上でイエス・キリストは語る。「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない」。「神と富とに仕えることはできない」との言葉が、16章にある譬え話の結びとして記される所以である。
 わたしたちが根を降ろすのはイエス・キリストに示された神であり、それは旧約聖書では奴隷解放の神となる。この軸がぶれるならば、わたしたちは変わりゆくものと、変わらないものとの見極めを誤り、他者の痛みや苦しみを軽んじては鈍感になっていくだろう。逆にその軸を手放さなければ、この世の尺度だけでは曖昧な雰囲気の示す事柄を、誰にも明らかな確信として授かることができる。社会・経済とも混乱の最中にあるが、何が最も大切なのか。泥を被りながら生きた人々の群像を通して、イエス・キリストが語る言葉に、今こそ耳を傾けよう。

2019年9月29日日曜日

2019年9月29日(日) 説教 

「地図にない道に踏み出す勇気」
『ルカによる福音書』15章11~24節
説教:稲山聖修牧師


今朝の聖書箇所のテーマを考える上で欠かせない「兄弟」という言葉を主題とする『詩編』133編は、次のように始まる。「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」。この詩は「兄弟がともに座っている」姿は決して当り前ではないとの前提で編まれている。
その葛藤は今朝の譬え話にも見出される。よく知られる「放蕩息子」の譬えの物語は家族間のトラブルから始まる。仲のよい兄弟は登場しない。登場人物は父親、二人の息子、放浪中の下の息子が身を寄せる農場主、父親の僕たち。次男は父親に対して唐突に遺産の生前贈与を求める。そして何日も経たないうちにこの財産を現金に換え、遠い国に旅立つ。その国がどこにあるのかも分からないような旅。旅の最中、実家に連絡する術はない。次男は放蕩の限りを尽くす。そして旅の成果は皆無。散財した次男を試練が襲う。「ひどい飢饉」。飢饉は人心を荒ませ、旅の最中にいるその人にも容赦しない。その手元にはタラントン銀貨一枚も、銅貨二枚もない。旅人は難民同然の姿に身を落とす。次男はもはや、滞在先の国での立場にいるのか分からず、身元も証明する術もない。

 幸いにもそのような次男坊が死なずに済んだのは身を寄せる農場があったからだとの声もあろう。しかしこの農場主は決して心ある人には思えない。次男坊は農場で奴隷に等しい労働を強いられ、あろうことかユダヤ教の倣いでは屈辱としか思えない豚の世話をするにいたる。勿論、農場主には豚のほうが大切なのは言うまでもない。豚は繁殖力の強い「商品」だ。農場主は飢饉が酷いほど儲けは多くなる。次男坊は豚の餌を盗み食いしながらようやく父親を思い出す。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。わたしたちの日常からすれば、次男坊の苦しみは因果応報・自業自得。同情の余地はなし。それは彼も自覚するところ。勘当も覚悟しながら、次男坊は無給労働を強いる農場主とは異なる態度で労働者に向き合っているはずの父親のもとに帰りたいと願う。飢饉とは無縁ではない中、父親もまた農場の経営に必死であったろう。その父を身近で支えていたのは長男。農業は決して楽な仕事ではない。家族としての役目を放棄して物乞い同然の姿で帰郷した弟に長男は冷たい。けれども父親は次男の帰郷をことのほか喜び、抱きしめてほおずりをし、口づけする。そして「雇い人の一人にしてください」という言葉を遮り、考えられる最高のもてなしをして、祝宴を設ける。兄にはこれが受け入れられない。

この譬え話が色褪せないのは、因果応報・自業自得・自己責任という言葉の示す壁が崩され「失敗」が赦されているところにある。この特徴は当時や現代の常識とは真逆な、神の愛を顕わしている。そうなると次男坊の「放蕩」という言葉も単に遊興三昧に耽ったというありがちな解釈では充分ではなくなる。次男坊の「放蕩」とは即ち学問や藝術、また異なる文化との出会いという、農場にいては決して知ることがなかった世界を求めての旅だったかもしれない。親の七光りが通じない世界に次男は果敢に挑み、そして敗北して帰郷した弟。兄はその弟を非難する。その非難は父親の祝宴にも向けられるが、そんな兄に父親が言うには「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。詰め寄る長男に、父親は相続に関する確約を交わす。兄は決して報いのない働きを続けてきたのではないが、わだかまりを抱えたままだ。譬え話は父親の一方的な宣言で終わる。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当り前だ」。気になるのはその後の展開だが、それは想像の域を出ない。けれども誰よりも父親が苦しみぬいたのは確かだ。次男の身の上を案じ続ける父の姿。落ち延びてきた身を抱きしめる姿には、因果応報・自業自得・自己責任との言葉は力を持たない。しかも次男の出迎えには、父を支えてきたという点で、兄もまた貢献している。実は弟だけでなく兄も、地図のない道を歩み続けてきたのだ。
異なる人生行路を歩んだ兄弟は、父親の苦難を通して交わりを回復したのではないか。父なる神の痛みは、十字架でのキリストの苦しみを通してのみ知るところだ。今の時代、誰もが家庭に困難や課題を抱えている。その地図のない道に歩む勇気をキリストの拓いた道に重ね、人生の旅路を感謝したい。その旅は希望に満ちている。

2019年9月22日日曜日

2019年9月22日(日) 説教

『ルカによる福音書』14章25~33節
「キリストに委ね、腰を据える」
説教:稲山聖修牧師

 本日の箇所ではイエス・キリストが係累との断絶を勧めているかのように響く。誤解される箇所の一つだ。
「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、こども、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない。自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではあり得ない』」。もしも係累との絶縁を中心にして理解するのであれば、御言葉に聴き従う歩みは困難になるどころか、結局は教会のあり方にも歪みがもたらされる。聖書に記されなくても今の世には家族をめぐる深い絶望がある。親が子を殺め、子が親を殺めるという、旧約聖書に記された眉をひそめるような物語が、現実の出来事としていたるところで起きている。聖書には放蕩息子という言葉がある。他方で身近なところでは、わが子に心身にわたって依存するところの毒親という言葉さえ生まれている。そのようなところでは、単に係累を絶つという話ではキリストの証人にはなれない。そう思い込んでいる集団があれば、もはやカルトだと言ってよい。

先ほどのイエスの言葉は、続く物語から極めて深い思慮に根ざしていることが分かる。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに充分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない」。
イエスは塔の建築と戦争の講和を弟子の資格の条件に譬えて語る。建築の譬え話では建築に関わるコストの話が中心となる。戦争を譬え話に出す場合、勝利が見込めない戦をいかに講和に導くかという話をする。犠牲を出さずに平和を実現するためには私怨に走ってはならない。どちらの場合にも求められるのは私利私欲や私的な存念に基づく短慮ではない。あくまでも公共性を伴う長期的な展望が必要だ。神の公共性を世に現わすのであれば何を第一にするべきなのかを腰を据えて祈り、考えなさいとキリストは語っているのではないだろうか。

 こと公共の問題になれば、わたしたちは一旦、家族の事柄を神様に委ねてテーマに集中しなくてはならない。勿論、私的な満足感や充実感を犠牲にしてであっても、担うべき課題に向き合い、ことの優先順位をつけなくてはならない。この公共性という考えは、わたしたちには共有するのが実に困難である。儒教道徳の影響の強い国々では、どうしても家族親族のためにという気持ちが公共性に先んじてしまうという歴史があるが、それはわたしたちも例外ではない。本来ならば公共性を伴う事柄を家族親族、またはごく親しい間柄の「お友だち」で独占しようとする。その結果、その狭い枠から外れていくところの人々への関心が希薄になる。「教会は敷居が高い」という言葉は「お上品に振る舞っている人ばかり」という意味というよりは、むしろキリスト教の衣装を纏っていても、その内実は家族親族や「お友だち」の交わりであったり、内輪しか顧みないという、世界のどこにでもあり得る出来事が、聖書との関わりで一段と際立たされているからではないだろうか。
そのような壁や限界を突き崩し、新しい風を吹かせるために必要なのは、眼差しをイエス・キリストに集中するという態度だ。それがわたしたちにはまことに決定的な問いとなる。わたしたちのありようは、十字架のイエス・キリストの眼に適うものなのか。この不断の問いかけと確認があればこそ、わたしたちは分断された家族関係の中で嘆くほか無い人の悲しみや、家族が崩壊してなおも懸命に生きようとする若者の勇気に、向き合うことができるのはないだろうか。地縁血縁を問わず広がっていく神の家族のあり方は、老若を問わず孤独に苛む人々の希望となる。時の経過の中でわたしたちの身体だけでなく家族の関わりも変容するが、わたしたちは恐れてはならない。キリストに委ね、腰を据える中で、必ず道は拓ける。

2019年9月15日日曜日

2019年9月15日(日) 長寿感謝の日礼拝 説教

『ルカによる福音書』18章1~8節
「祈りは必ず聴かれる」
説教:稲山聖修牧師

今朝の「やもめと裁判官の譬え」には、義しい人の姿はどこにも描かれない。むしろ職務本来のあり方からはかけ離れた、「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」が軸になる。この裁判官は18章5節では「不正な裁判官」とさえ言われる。実はこの「不正」という言葉が聖書もの用いられ方を考えると本日の聖書箇所は実に興味深い展開を秘めていることが分かる。
もとより「不正」という言葉が裁判や裁きにあたって用いられる場合、それは裁判に寄せられる信頼そのものを台無しにするわざとなる。『サムエル記』で先見者サムエルは老いて後、自らの務めを二人の息子に託する。しかし二人の息子は「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」ある。『サムエル記』の「不正」は批判されるべき、糾されるべき「不正」であり、堤に空いた穴のような扱いとなる。これが民の不信を招き、イスラエルの民は神との契約よりも王を絶対視するあり方を選ぶ。滅びへの序局となるのがサムエルの息子の不正だ。

しかしイエス・キリストの譬え話における裁判官の「不正」の場合、その意味は変わってくる。不正な裁判官と向き合うのは一人のやもめ。伴侶を失った寡婦は貧しい身の上であり、正しさが世にあってはそのものとしては通じないことを、自らの傷みを通して知り抜いている。その女性が訴えるには「わたしを守ってください」。不正な裁判官は、正しい裁判をこのやもめから求められた。裁判官はその粘り強さに次第に押されていきます。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」。不正な裁判官は自らの不正のゆえに己を砕かれて、いつしかやもめを虐げる諸々の問題と向き合うこととなる。きっかけがどうであれ、次第にやもめを支える重要な役割を担っていくことになる裁判官。今や彼は神の正しさを表わす器として用いられていく。イエス・キリストはやもめの切実な訴えを「祈り」に重ねているのは明らかだ。教条主義的に人を裁くばかりの人々の見通しすら、神の愛の働きは超えていく。
「この不正な裁判官の言いぐさを聴きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。神とのまじわりの中で、生きづらさや傷みを抱えたところのやもめの訴えに耳を傾けた不正な裁判官は、その不正さのために神に用いられるという逆転が起きる。イエス・キリストのリアリズムがこの箇所には描かれる。
思えば毀誉褒貶、世の中の様々な評判は絶えず移ろう。その評判に基づいて善悪が振りかざされたとき、人間は時として邪悪な姿を露わにする。不正ではなく「邪悪」である。なぜならその判断基準は時として思い込み、即ち予断や偏見に基づく場合が殆どだからだ。神の愛を証しした人々の多くは、必ずしもその時代からはよい評判に包まれていたわけではない。名声が目的ではないからだ。「神の正しさ」は、世にあっては指差されることからは決して逃れることはできない。公民権運動で知られるキング牧師や、メキシコシティーオリンピック銀メダリストのピーター・ノーマン、また杉原千畝の生涯というものは、世の人の目からすれば、ただちに幸せだったと言えるだろうか。

本日は長寿感謝の日礼拝を迎えた。齢を重ねた方々には混沌とした人の世のさまを見極められ、だからこそ、授けられた知恵には侮れないところがある。いのちの本質を見極める視点は、頑迷固陋さにではなく、イエス・キリストに根を下ろすことによって拓かれる。長きにわたる人生の歩みは、絶えず移ろう世にあって、自らの身体の変容も受けとめながら、イエス・キリストとの関わりを確かめてこられた歩みでもある。これは若者の輝きに劣らぬ、かけがえのない宝である。不条理や困難や嘆きの中で献げられる祈りは必ず聴かれる。自己実現の願いや単に夢が適ったりすることとは異なる次元が拓かれるからだ。やもめの献げる叫びと訴えにも似た祈りと出会いの中で、不正な裁判官は、悩み苦しむ者の声を聴く神から、彼にしかできない役目を託され、そのわざに邁進したことだろう。神の愛が備える出会いと交わりの中で重ねられた齢を、一同でお祝いし、神に感謝しよう。

2019年9月8日日曜日

2019年9月8日(日) 説教

ルカによる福音書 13章31~35節
説教:「親鳥が雛をつつむように」
説教:稲山聖修牧師



人間は実に身勝手なもので、前向きな展望を抱けなくなると、次は異なる文化や言語を用いる人々を蔑んで、本来の課題から目を遠ざけようとする。本日登場するファリサイ派の人々は、その時代のユダヤ教のグループの中でも『律法』や『預言者』といったその時代のユダヤ教の聖書を解き明かし、一般には尊敬を集めていた人々だ。イエス・キリストに論戦を挑む一方で、今朝の箇所ではいささか立ち振る舞いの趣が異なる。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。クリスマス物語に登場するヘロデ大王の息子、領主ヘロデ。洗礼者ヨハネの首を刎ねたあの男だ。元来ヘロデの一族は、イスラエルの民の歴史に連なる正当な王朝を乗っとり権力を手にした家系に属する。だからファリサイ派の本流には本来は不倶戴天の間柄。だからイエス・キリストの身の危険を察知したファリサイ派の一部の者たちは、尋常ならざることだとキリストのもとに駆け込んでくる。
しかしイエス・キリストは、迫る身の危険を伝えにきたファリサイ派を、メッセンジャーとして用いる。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にはすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」。「狐」とは狡猾な領主ヘロデのあだ名。キリストの語った言葉は、その清廉潔白さを伝えるだけではなく、かつて首を刎ねた洗礼者ヨハネのわざを、イエス・キリストが継承しているとの事実を突きつける。これは領主ヘロデを恐怖のどん底に陥れたに違いない。「三日目には全てを終える」との言葉は「三日目には全てが完成する」との解き明かしも可能だ。即ち、人の子イエスが救い主として託されたわざは、復活によって完成するのであり、ヘロデがいくら首を刎ねたところでそれは恐るるに足らずという挑戦的な言葉としても響く。

けれどもその身を慮って訪れたファリサイ派の人々に向けたキリストの言葉は「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないからだ」。神に備えられた道を歩むイエス・キリストの「決断」である。イエス・キリストが赴くところは権謀術策の渦巻くところ、そしてキリスト自らを冒涜する人々さえ待ち受けているところの都エルサレムだ。裏通りに入れば物乞いや病人がたむろするその一方で、力を手にした人々がきらびやか、かつ、わが物顔にふるまうという、旧約聖書に記された姿からはほど遠い街となったエルサレム。一体そこで何が起きたというのか。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとはしなかった」。イエス・キリストは決してエルサレムを否定することはなかった。人の子イエスの時代には、エルサレムはローマ帝国の支配下にあり、神殿の存続も最終的にはローマの政治的判断に依っており、大帝国の支配を受け入れた有力者の場でありその象徴にすらなっていたのにも拘らず。神の前に立つならば、重篤な病に罹ったこの都を、キリストは決して見捨てない。イエス・キリストは文字通りその身を神の言葉として、その過ちに満ちた態度を改めさせようと呼ばわってきた。けれどもその言葉は尽く拒絶されてきたのである。もはやエルサレムは詩編で歌われるような聖なる都ではない。考えようによっては『創世記』のソドムの街よりも深い病に罹っていた。イエス・キリストは、そんなエルサレムになおも分け入ろうとする。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を調えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。これは葬儀の式文にも用いられる『ヨハネの黙示録』の言葉だ。イエス・キリストはわたしたちの暮しの中に分け入る。そして神の愛の力であるところの聖霊の働きは、汚れてしまったわたしたちのありようを全て明らかにしながらも、わたしたちの破れを包んでくださる。聖書の言葉でしか癒されない夜もあるだろう。日本に在るキリスト者としての証しのわざ、在日キリスト者としての働きが、各々の場で試される時代を迎えようとしている。エルサレムならぬ、この地において。