2023年9月28日木曜日

2023年 10月1日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第19主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「無視せずに手をさしのべる勇気と愛」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』16 章 19~26 節
(新約聖書  141頁).

讃美=74,392,讃美ファイル 3,542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 学生時分の一時期に暮らしたアパートから最寄りの駅に着くまで何度も「兄ちゃんいい身体しとるなあ、仕事せえへんか」と声をかけられた思い出があります。大阪市西成区の「あいりんセンター」の周りにマイクロバスが多く集まり、手配師と呼ばれる人々が人手を集めていました。日雇い労働者の人手が足りないとされた時代の話ですが、身体に緊張が走った覚えがあります。あのころマイクロバスに乗り込んでいった、土木工事の作業服に身を固めた若者や中高年の方々がどこにいるのか定かではありません。

 今その場所にいってみれば齢を重ねた人が不自由になった手足でふらふらと自転車を漕いでいたりぼんやりと佇んでいたりとの様子を見ます。辛そうにされている様子に思わず手を出して「この街の倣いと違うことはするな」とお叱りを受けたこともあります。そのような記憶をたどりながら本日の『聖書』の箇所を味わってみますと様々な事柄に気づかされます。人の子イエスの物語る譬えには人物が二人描かれます。片や「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日をぜいたくに暮らす金持ち」、片や「この金持ちの家の門で、できものだらけの姿で横たわる貧しい人ラザロ」です。人の子イエスが強調するのは、名をもつ人物がラザロであることから分かります。また譬えであるにせよ、死後の世界を舞台にしているという点でも異色の物語となっています。ヘブライ人は死後の世界を問題視しないからです。しかし敢えてそのような筋書きを用いて強調したい事柄がこの物語にはあるようです。それではこのラザロが亡くなり、金持ちが葬られた後、二人はどうなったというのでしょうか。

 ラザロは死に、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに招かれます。そして金持ちは陰府の炎の中で次のように叫びます。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。(略)ラザロをよこして、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」。しかし返事は次の言葉でした。「(略)お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。ラザロと金持ちとの間には深淵があり、互いに行き来は出来ません。金持ちが兄弟にこのような場所に来ないよう伝えてほしいと願えば「『律法の書』と『預言者の書』がある。これに耳を傾ければよい」との返事。死んだ者の誰かが甦り兄弟のところへ行けば悔い改めるだろうとの声には『律法の書』と『預言者の書』に耳を傾けなければ、たとえ甦ってもその言葉は聞き入れられないと突き放され続けます。

 こうして読み進むうちにわたしたちはある疑問にたどり着きます。それはこの金持ちは死んだ後にこれほどまでに苦しまなくてはならない悪事を働いたのかという問いです。東アジア文化圏でいう因果応報論に則する死後の世界には地獄があり、このような苦しみの中を彷徨いますが、この金持ちは具体的に悪事を働いたとは記されていません。ただし、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに暮らしていた」、そしてこの金持ちは家の前に横たわる皮膚病に冒されたラザロに気づかず、残飯すら与えなかった態度が記されます。すなわち門前にいたラザロを一切視野に入れなかったその無関心さのゆえに、そして関わりを持とうともせずにその財産を「自分の贅沢のため」だけに用いていたというところに、永劫の苦しみを受ける理由があったとしか考えられません。そういたしますと『ルカによる福音書』の主たる読み手として想定されたローマ帝国の身分の高い役人や富裕層には極めて耳の痛い話となります。福音書の書き手はそれとしてローマ帝国の支配を認めてはいても、その中に生じている富の格差に決して無関心ではないとはっきりと語りかけているからです。

 現代の格差社会にあって、わたしたちは「このままでよいのだろうか」との問いを絶えず抱えています。極端な貧しさの中で今なお食に事欠くこどもたちがいる一方で、インバウンド景気を狙った宿泊施設の料金は天井知らず、です。新今宮駅からそびえ立つ高級リゾートホテルを眺めますと、手配師に声をかけられた折以上の目眩を感じます。福音書の物語で絶えず「それでよいのか」と問われる事柄とは「わたしのものはわたしのもの」という独占です。しかし独占にばかり気を囚われていますと、わたしたちは一人だけで生きていけるとの錯覚に陥り、他者との関わりを斬り捨て、誰をも愛せず、誰からも愛されないという洞穴に閉じ込められてしまいます。『聖書』が示す生き方とは、イエス・キリストが伝える生き方とは、神に愛され、隣人を愛するというあり方です。教会関係者にはかつての日雇い労働者とは異なる時代の貧しさに喘ぐ人々のためにおにぎりを作ろうとされる人がいます。また「こども食堂」では他の年齢の方の肩身が狭かろうと別の名称のもとで奉仕する方々がいます。礼拝でも献金の備えをされる方々がいます。奉仕と献身のかたちには多様性があります。その豊かさを尊び、キリストが癒しを求める人を見捨てずにあゆんだそのあり方を本日は分かちあいたく願います。かつて日雇い労働者の声をすべて受けとめようと完璧さを求めたあり方を顧みながら、今わたしは教会から教えられるばかり。イエス・キリストに超えられない深淵はありません。そこにはあふれる希望があります。

2023年9月20日水曜日

2023年 9月24日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第18主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「世のための教会」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』16 章 1~13 節
(新約聖書  140頁).

讃美=226, 191, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 事実がどうであれ、主人の財産をごまかすか、または横領していると告げ口され、帳簿を出せと迫られた管理人がいました。「土を掘る力もなく、物乞いするのも恥ずかしい」と自分の生活力のなさを知る管理人は、解雇されても自分を迎え入れてくれる人々を作るため、主人に借りのある者を一人ひとり呼び、「油百バトス」とある帳簿を半分の量に書き換えさせ、「小麦百コロス」との帳簿を実際の数字の八割に書き直させます。保身というよりは「どの道解雇されるはずだ」との思いを前提とした管理人のなりふり構わないやり方。それは結果として貸し出した油や小麦の返済を額面通り強引に迫るのではありませんでした。どの道商品は劣化し、いわばアウトレット商品化しているはずですから、実は貸した方にも借りた方にも損のない道筋を結果として見出したこととなり、貸した方にも借りたほうにも世間の評判にも、いわば「三方よし」の結果を導き出し、思い込みに反して主人に褒められた、という物語を人の子イエスは語ります。ただわたしたちがこの箇所で注意したいのは、工夫のために奔走した管理人そのものにではなく、イエス・キリストがこの譬えを用いて何を言わんとしていたのか、という点です。

 それは第一には「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」に始まる教えです。これは何も「なりふり構わない仕方で得た富で」という意味ではありません。福音書の中で問われる正義とは本来は神の御旨通りにあゆむという意味です。しかしその時代の古代ユダヤ教の基準となった「正義」とは実際には『律法の書』を守る生活態度としての面が強調されるばかりで、先ほどの譬えのような、礼拝での話にも上らない日常のやりとりの中で見られる柔軟な発想は困難でした。イエス・キリストは「不正にまみれた富」と言っています。つまり「富」とはそのものとしては正しくも何でもなく、どれほどの財産を所有しているかどうかが生き方としての正しさを決定するものではないと言うのです。確かに『旧約聖書』の『出エジプト記』では財産に示される豊かさを「金の雄牛」として崇拝したイスラエルの民の一部は十戒の前に絶たれ、今や滅びの最中にある豊穣な都市国家ソドムから逃れる最中、思わず街を振り返ってしまったロトの妻は塩の柱になったというな「富」の崇拝を戒める物語は無数に描かれます。しかし他方で、わたしたちは日々の糧としての財産を否定して生きるわけにもまいりません。だからこそ10節では「不正にまみれた富」が「ごく小さなこと」として、些細なことであっても疎かにはできない事柄として理解され、「富」そのものが礼拝の対象ではないながらも、「本当に価値あるもの」との関わりの中で理解され、「二人の主人に仕えることはできない」、すなわち手段は手段として、すべての被造物の根本を司る神が神とは鮮やかに一線が引かれます。教会は世のために仕えます。絶えず移ろう世に奉仕します。そしてわたしたちも世に属する者です。道の定まらない狼狽えがちな者でもあります。ただしこの世界そのものは、神自らが創造された場です。不正にまみれた世にあって、神の愛を宣べ伝えるには、身近なところにある希望を見つけ出し、分かち合うわざこそが肝要だと本日の箇所は訴えているようです。経済的な富をもたらす生産性という観点からは決して見定められず、見定めてはいけないのがいのちの尊さです。

 イエス・キリストが語る神の国とは、この世の破壊や否定に成立つ「破局的終末論」とは全く異なった特性を帯びます。この世を神の愛が包み込んでいくのであり、その只中にわたしたちはあるという理解に立ちます。わたしたちはエデンの園に暮しているのではありません。教会とて世と関わりを持たずに済む場ではありません。むしろわたしたちは、箱舟物語で洪水が引いた後の、神の赦しの世界に暮しています。大自然のいきものとて、食物連鎖の只中に暮しています。これはいのちが別のいのちの犠牲の上に成立つ生態系です。しかしそれはそれぞれのいのちがそれぞれの特性に応じて生き長らえる環境を前提としており、特定のいきものばかりが繁栄を謳歌する「弱肉強食の世界」とは全く異なります。わたしたちの世も決して弱肉強食論や自己責任論では片づけられません。多様な特性がその多彩さに応じて、それぞれの個性が神に祝福されたものとして用いられ、隣人のために誠実に用いられる交わりの只中にあります。イエス・キリストに根を下ろした生き方が示すあり方です。

 一般に、わたしたちは自分たちの暮らしを富のありやなしやで計ろうとしがちです。確かにそれは分かりやすい尺度ではあります。しかしそこには誰かとの比較の上で成立つ、かりそめとしての幸福しかありません。イエス・キリストはわたしたちに伝えたのは、何よりも「貧しい者は幸いである」という教えと生き方であり、孤独からの解放、「独占する」というありようからの解放です。幸せや豊かさの基準が絶えず移ろう世にあるわたしたちだからこそ、神は世のいのちをすべて等しく尊くお造りになり祝福されたとの喜びを伝えてまいりましょう。それこそが「世のための教会」というあり方の多様性を裏づけるものだと確信します。


2023年9月14日木曜日

2023年 9月17日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第17主日礼拝 ー

―長寿感謝の日礼拝―

時間:10時30分~



説教=「いつまでも新しくされるわたしたち」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』15 章 25~32 節
(新約聖書  139頁).

讃美=517,520, Ⅱ192,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 父親の遺産の半分を前借りして旅に出たのはよいけれど、大金の殆どを遊興に用い、それに輪をかけて飢饉に襲われ、身を持ち崩して豚飼いの手伝いをする羽目になった弟。汗みどろの日々が続く中でふと父親を思い出し、たとえ雇い人の一人にされてもよいからとの一念で帰郷します。父親はこの弟を冷たくあしらうどころか喜びにあふれ服を着せ、履物を備え手に指輪をはめ、肥えた子牛を屠り宴会まで催します。他方で弟不在の間、黙々と父親に仕えてきた兄は不平を漏らします。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」と物語が展開する本日の箇所は、教会やキリスト教の枠を超えて知られる「放蕩息子の譬え」と呼ばれます。本日お読みしたのは兄と弟の帰還を祝った父親との対話ですが、父と兄弟の関係の複雑さは新鮮さを失うどころか却って時を超えてわたしたちに深い問いを突きつけます。福音書での聴き手は「徴税人や罪人」となります。

 さてもしこの物語が『旧約聖書』に記されていたならば果たしてどのような顛末になっていたかと幾度も考える機会がありました。「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞えてきた」と始まる箇所は『出エジプト記』では「十戒」を神から授かり、山から降りてきたモーセの物語を彷彿とさせます。そして音楽や踊りに興じる人々は、奴隷解放の神を忘れ、金で作られた雄牛を囲み、イスラエルの民が興じる舞い踊りに重なります。その後この宴に連なった者たちはモーセに従った人々の剣にかかり、三千人の男性を頭とする家族が絶たれたとの記事につながります。あるいは『創世記』には神が弟アベルの献げものを喜び、兄カインの献げものを退けたとの物語があります。妬みと憎悪に駆られた兄は弟を殺害します。いずれにしても物語の読み手や聴き手であるわたしたちには極度の緊張が強いられ、その物語の顛末に深く傷つくところです。どうしてこのような取り返しのつかないことになってしまったのかという消化できない問いかけがそこには残ります。あるいはモーセの帰還を待ち続け神の言葉をひたすら待望する態度こそが正義なのだと生き方に枠をはめられてしまっても戸惑うところがあります。

 しかし本日の箇所では、物語が決して一方的に意味づけられてはいないと気づかされます。「遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」という弟の旅路にしても、何が放蕩で何が無駄遣いなのかはっきりとは語られてはいません。本人は前借りした父親の遺産を用いて何をしていたのでしょうか。確かに端から見れば放蕩や遊興に見えたかも知れませんが、本人は自分に託された人生とは何かと、当時は決して安全とはいえない旅路の中で試行錯誤を繰り返する中、ぼろ雑巾のような身の程を知り、夢破れて帰宅するほかありませんでした。このような家族をわたしたちはどのように迎え入れるのでしょうか。

 また本日の箇所では、家族や家庭を支えようとする兄の使命感をひしひしと感じるとも申せます。ともに働くはずの弟がいないのですから、身動きしがたいその状況を何とかしなくてはとの焦りにも駆られていたでしょう。兄は帰宅した弟を囲む宴に加わろうともせず、父親の宥めにも応じようとはいたしません。父に向けた言葉とは「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。いのちがけの旅から帰還した弟への妬みと憎悪を感じてあまりある箇所です。ただ不思議なことに、この家族崩壊寸前の状況の中で最も苦悩したはずの父親は、ただただ黙って兄の訴えに耳を傾けます。ひたすら言い分に耳を傾けるのです。わたしの青春時代はあなたのもとで失われてしまったとでも言いたげな兄の主張を決して否定しないのです。そしてその上で、「子よ、お前はいつもわたしとともにいる。わたしのものは全てお前のものだ」と遺産のみならず、おそらくは農場、また労働者であるところの人々も、みなお前に属するのだと宣言します。その上で「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当然だ」と語りかけます。おそらく文脈からは「弟を悪くいうのはもう充分だろう。あなたもこの喜びの座に早く加わりなさい。わたしもあなたとともにいる」と呼びかけているともいえます。

 わたしたちの中で、思い通りに事を運びながら齢を重ねた人など誰一人おりません。しかし本日の箇所では『旧約聖書』では血生臭い物語に繋がるはずの物語、そして家族を巡る悲しい事件の報道が絶えない現代にあって、どのような生き方であったとしても神は必ずともにいてくださるとのメッセージを発信し続けています。そしてもし置かれた場所が当事者のいのちや生涯にふさわしくなければ、そこを離れて、旅する逃れの道もあるのだとはっきりと示しています。本日は長寿感謝の日礼拝です。かけがえのない生き方の中で授かった賜物が当事者の心にどのように映ろうとも、分かちあいの中で喜びの宴になると確信する礼拝です。

2023年9月6日水曜日

2023年 9月10日(日) 礼拝 説教

   ー聖霊降臨節第16主日礼拝 ー

時間:10時30分~



説教=「一心不乱にあなたを愛する神」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』14 章 25~33 節
(新約聖書  137頁).

讃美=Ⅱ167,420,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
  「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないならば、わたしの弟子ではあり得ない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、わたしにふさわしくない」。一緒についていこうとした大勢の群衆に向けて、人の子イエスはこのように語りかけます。福音書のすべての物語からこの言葉だけをきりとって理解するならば、すべての人間関係を否定してでも、イエス・キリストに従わなくてはならないという理解すら生まれます。事実そのような呼びかけに応え、すべての人間関係を絶ち切って教会の交わりに加わらなくてはならないと誤解されて、この箇所が理解された時に、『聖書』を味わう一人ひとりに大きな圧力をもたらす、または実際に家族との関わりを絶って教会に集うという、見方によってはカルト化した集団さえもたらすリスクをはらんでまいりました。しかし『聖書』という書物はわたしたちの身近な人間関係を破壊するような生き方や、画一化された生活の枠というものをわたしたちに決して求めてはいません。例えば『ルカによる福音書』より前に記された『マルコによる福音書』1章29節では、すべてを捨てて従ってきたはずのイエスの筆頭弟子とされるシモン・ペトロの姑のもとへイエスはまいります。姑は熱を出して寝込んでいたのですが、人の子イエスはこの熱病を癒します。もしイエス・キリストがわたしたちに出家のような生き方を求めているとするならば、このような記事は記されないと思われます。どだい、家族を捨ててキリストに従ったとの思いから弟子たちの間に生まれたのは「誰がイエスの次に偉いのか」という歪んだ傲慢さであり、何かを斬り捨てようとも、より「キリストへのふさわしくなさ」が際立つだけであったというのが福音書の物語の伝えるところでした。

 それは先ほどの箇所の後半にも読みとれるところです。ひとつには「塔を建てようとする者」、もうひとつには「戦の和睦の話」の譬えです。高い塔を建設する場合には緻密な計算が必要ですが、人の子イエスが主題とするのは塔の建設に必要な経費、すなわち予算です。予算を綿密に練らないことには、土台を築くだけに終わり、人々から嘲りを受けるだろうという話。これは、キリストに従うという道には祈りの中での熟慮というものが必要であり、衝動的なものであってはならないとの誡めが隠されています。人の欲求によるのではなく、キリストに従うというわざは神の愛との出会いと招きに拠るものであることがこの箇所では強調されています。人の思いのみによるあゆみの脆さは、何よりもイエスの弟子たちが示しています。

 第二に示された「戦の和睦の話」からは、極めて冷静な人の子イエスの現実認識が窺えます。二万の軍隊が押し寄せるに際して、こちらには一万の軍勢しかない。その場合、どうすればよいのかを「腰を据えて」、つまり冷静になり、その後の行く末も含めて王は考えるものだ。もし敵わないと判断したならば、犠牲を避けるために使節を送って和睦を求めるだろうという話です。

 この二つの譬え話に示されている事柄とは、その人自らの衝動的な服従の誡め、そしてそのままでは争いにいたるはずの相手との和解を、イエス・キリストは自らの服従への道筋として捉えているというところです。キリストを基として生きる生活は、決して今ある暮らしの否定にはただちには繋がりません。DV問題や家族間の問題の解決は個人の意志としての信仰の問題というよりはその人自らの暮しや社会全体の問題であり、場合によれば裁判所という司法機関や警察という行政機関の発動をも必要とします。むしろその結果暮らしや心に刻まれた爪痕が何をもたらすのかとキリストに問いかけ、癒しを乞い願う中で、キリストに従う道が拓かれてまいります。関係者との和解の問題のみならず、自らの肯定しがたい爪痕との和解がキリストにおいて起きるとき、その人は赦され、新たな「やり直し」の時を備えられてまいります。その赦しのために神は、髪を振り乱してわが子のために奔走する母親のように、わが身を省みずにその人に愛をそそいでまいります。まさに「一心不乱」という言葉があてはまるありようです。

 このメッセージを聞いたローマの市民たちは、果たして何を思ったことでしょうか。『ルカによる福音書』は、身分の高い役人に献呈された福音書という一面ももっています。土木建築はローマ帝国に地中海世界を網羅する物流のネットワークをもたらしました。また現代にいたるまで数々の建築も遺されています。他方で武力によって帝国の意志に反する勢力を徹底的に潰すという仕方で「ローマの平和」を実現しました。イエス・キリストの譬えは、そのような人々の現実を否定するのではなく、まず自らの足下を指差し、建築を依頼された者の暮しの重圧と、戦の中で流血を可能な限りに避けるために智恵を絞る王を引き合いに出しています。いずれの判断も、自らの保身や立場を考えていては、成し遂げられません。そのわざの途方もない重圧を振り向けられたとき、自らの力の限界を悟り、キリストに根を下ろした暮らしを選ぶほかはなくなります。追いかけてくる神の力に、イエス・キリストに依り頼むことによってすべてを委ねるのです。一心不乱にわたしたちを愛する神に身を委ね、神の智恵を授かりたいと願います。

2023年8月31日木曜日

2023年 9月3日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第15主日礼拝 ー

時間:10時30分~



説教=「上座を好む人、末席に座る人」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』14 章 7~14 節
(新約聖書  136 頁).

讃美=243, 495,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 安息日に設けられた食卓の座。今も昔も変わらないのは主賓席に始まる来賓の席の設定です。この設営が宴席を設ける側にとって注意を払わなくてはならないのは、すでに『創世記』のヨセフ物語で、ヨセフが放り込まれた牢獄に、ファラオの宴席を設営する給仕長が料理長と並んで、牢獄に繋がれているところからも分かります。もちろん本日の箇所は安息日の食卓の席ですので『創世記』のそれとは意味合いは大きく異なりますが、それでも食事の席や宴席の順序には洋の古今を問わず注意が要ります。

 しかし本日の『聖書』の箇所で人の子イエスが招かれた食卓の席とはそれほどフォーマルなものではなかった模様です。何せ当初は人の子イエスを試みるために設けられたような一面さえもっていた食卓の席です。水腫の人を前にしたイエスの判断に人々は沈黙するほかありませんでした。その沈黙を破るかのように招待を受けたファリサイ派の律法学者たちが次々と食卓に着こうといたします。その席順は市井にあって尊敬されるだけでなく、食卓を設けた議員でもある人物に近い者から奥の席へと招かれるのが常でしたでしょうし、その場にいた人々はその習慣に従って座席に着こうとしたことでしょう。安息日の食卓とて世の倣いの延長線上にあることに、誰も気づいていません。そのような場の雰囲気を人の子イエスは水腫を患った人とともにいたそのままの勢いで変えてまいります。婚宴の席で上座に座るよりもむしろ末席への着席を勧めながら「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とのメッセージを分かち合います。さらには昼食や夕食の会を設けるときには友人や親類、親しい富裕層よりも、返礼のできないところに置かれた貧しい人、身体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、つまり何らかの助けが必要な人を招くようにと語ります。食事をともにするという当時としては交わりを深めるにあたって必須ともいうべき場が、互いに助け合い支えあうことにより、より主なる神の恵みを湛えた場所となるというのです。家族に身体の不自由な人や知的に障碍をもつ人々がいたとしても、それを「罪の結果」という意味づけしか許されずひた隠しにする他なかった食卓の列席者にとっては、この教えはまさに目から鱗の落ちるようなメッセージでしたでしょうし、人の子イエスを試そうとした人々にも感銘を与えたと思われます。

 ただしこのようなメッセージが繰り返し幾度も福音書に記されなくてはならなかった背後には、ローマ帝国に公認される以前より初代教会にさえ、世にあってイエス・キリストの復活を基とした福音の喜びを発信するというより、世の栄達にすり寄り同化しようとする破れがあった状況を示してもいます。『ヤコブの手紙』2章には「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたはこちらの席におかけください』と言い、貧しい人には、『あなたはそこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのでありませんか」と記されるからには、現代にも通じる苦悩と課題がすでに福音書の時代、イエス・キリストによる宣教と神の愛を証しする時代からつきまとっていたとも言えます。その影の出処を明らかにし、絶えずわたしたちが見直していくためには、絶えずわたしたちがイエス・キリストに立ち返る必要があります。わたしたち一人ひとりと同じように、教会もまた齢に相応しい振る舞いを重ねるためには、職務や歴史を自画自賛するのではなく、誰のためにイエス・キリストはその教えを語り伝え、神の愛を証しされ、十字架にお架かりになり、葬られて復活されたのかを問いただす必要があります。その問いただしの中で、誇るところの何もないわたしたちのために、イエス・キリストは神の愛をお示しになりました。その愛にわたしたちは深く喜ぶのです。

 絶えず移ろう世にあって教会もまた絶えず新たにされてまいります。教会がそれまでの慣習を見つめ直し、多くの出会いの中で刷新されていくありかたはまことに大切ではあります。齢の積み重ねを尊び、幼子とともに喜び、互いに支え合う共同体は世にあって決して当たり前ではない交わりであると申せましょう。しかしだからこそ抱えている繊細さやデリケートさというものもあります。その実に壊れやすい繊細さが神の愛を映し出すためには、どれほど世の常識とは異なって見えたとしても、恐れずにイエス・キリストの教えと振舞いに示された道筋を確かめ、歩んでいく姿勢が求められます。上座を遠ざけ、末席を求めるあり方は、時に称賛されるどころか、人々から失笑を買う時もあるかもしれません。周囲の人々に戸惑いをもたらすかもしれません。日本社会ではどのように映るかと思い悩むかもしれません。けれどもわたしたちは食卓に招くべき人々を知っています。恐れずに堂々と、キリストに示された神の愛に背中を押されるあり方を選んでまいりましょう。神の備え給う食卓に遠慮は要りません。


2023年8月25日金曜日

2023年 8月27日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第14主日礼拝 ー

時間:10時30分~



説教=「愛は憎しみに勝つ」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』14 章 1~6 節
(新約聖書  136 頁).

讃美=66, 461,Ⅱ 171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 ひと口にファリサイ派、または律法学者と申しましても福音書では決して十把一絡げに扱えるわけではありません。人の子イエスの教えに敵愾心を剥き出しにして、その抹殺を企てる者もいれば、イエスの『聖書』の解き明かしに賛意を表明する者もおりました。またその教えが分からないからといって端から否定するのではなく、夜半に訪ねて「新しく生まれる」との教えの真意を問いかけるニコデモのような者もおり、十字架刑に処せられた後の人の子イエスの亡骸を、社会的地位を顧みずにひきとり埋葬したアリマタヤのヨセフもまたファリサイ派であったと申します。『使徒言行録』で当初はキリスト教徒の弾圧に熱心であったサウロは「なぜわたしを迫害するのか」とのキリストの言葉と出会い使徒として伝道活動に励むこととなります。そのように一人ひとりの顔を思い浮かべたときに、各々の『聖書』の理解も様々であったことが分かろうというものです。少なくとも人の子イエスとファリサイ派とは、その時代のユダヤ教の教えである『律法の書』と『預言者の書』をともにしていたと言われます。ですからファリサイ派の人々と人の子イエスは「復活」という出来事をともに正面から受け容れておりました。

 ただし問題はファリサイ派一人ひとりの『聖書』理解と人の子イエスの教えを重ねたとき、そこにボタンの掛け違いが起きてはいなかったかというところにあります。ちなみにイスラームの場合、ラマダーンという断食の教えにあたる期間があります。この期間には陽が昇ってから沈むまでは自らの唾さえ飲み込んではならないという考えもあり、その点では徹底しているのですが、本日のファリサイ派はどうも様子がおかしいのです。と申しますのも、本日描かれるファリサイ派の議員は、保守的に考えれば何もしてはならないはずの安息日にイエスの訪問を受け容れているからです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを作り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別したのである」と『出エジプト記』の十戒にはあります。ですから、人の子イエスを食事のために受け容れたからには、議員でもあるこのファリサイ派の人物は僕(しもべ)に命じ、食卓の準備を命じていたはずです。その意味では本日登場するファリサイ派もまた、一定の解き明かしに則してイエスを迎え入れていたはずです。そこで問われるのは、その解き明かしは「何のために」という素朴な問いかけを鍵としています。

 「何のために?」。人々はイエスの様子をうかがっていた、とあります。なぜならその時、水腫を患っている病人がその中にいたからです。水腫を含めて、重い皮膚病に罹患している人は、人々の交わりからは退けられなくてはならないと『レビ記』一三章にはあります。ですから当時の常識ではこの水腫に罹患した患者はこの場にはいるはずがないのです。それにも拘わらず、「律法の専門家たちやファリサイ派の人々」と複数の専門家に囲まれるようにして、この水腫が発症している患者はその場に棒立ちとなっています。実に残念ながら、この水腫の罹患者は、人の子イエスを試みるために引き出されてきた可能性が高いのです。何と酷い仕打ちでしょうか。イエス・キリストを陥れるために、人格を否定され、わざわざ安息日に見世物のように引き出されてきたこの病人。人の子イエスを陥れるための憎しみによってこの場に連れてこられたとも言えます。

 イエス・キリストはこのような傲慢な人々に「安息日に病気を治すことは律法で赦されているか、いないか」と問いかけます。イエス・キリストへの憎しみに凝り固まった人々は、その憎しみのゆえに安息日の規定を歪めましたが、イエス・キリストは「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者もいるだろうか」と語りかけます。人を辱めるかどうかという問題以前に、家族や暮しに欠かせない家畜が生きるか死ぬかの瀬戸際に置かれたら、譬え安息日といえどもあなたがたは助けるだろうというメッセージを語ります。そもそも『律法の書』が記されたのも、『聖書』の物語に則するならば、奴隷であった人々が神に解放された後、行くべき道を違わぬよう備えた教えであり、神の愛なしには解き明かしは大きな混乱を招きます。実は律法は福音の養育係なのです。イエス・キリストは病人の手を取り、病気を癒してお返しになった、とあります。この場に登場するファリサイ派の人々は、この病人の手をとることすらできませんでした。イエス・キリストが行なったわざとは、その態度とは正反対でした。貶めや蔑みに基づいた謀は、結局は恐怖という名の壁を越えることはありません。しかし手を取って癒しに専念したイエス・キリストのわざには今なお深く心を打たれます。神の愛がそこには溢れているからです。

 何かの誤解がわたしたちの交わりに生じたとき、わたしたちはあらためて相手の手をとりながら「真意はどこにあるのか」と勇気とともに問い尋ねましょう。主なる神に背を押されて育まれる交わりには、憎しみや誤解に打ち勝つ神の愛が備えられています。

2023年8月18日金曜日

2023年 8月20日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第13主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「あきらめてはならない」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』13 章 1~9 節
(新約聖書 134 頁).

讃美= 85, Ⅱ 157,Ⅱ 171.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
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【説教要旨】
 とある事故なり出来事があれば、必ずその原因がある。科学の分野や犯罪捜査の世界では言わずもがなではありますが、それがみだりに用いられるあまり、所謂「似非科学」に近い話をわたしたちは「みんなが言っているから」という理由によりわれ知らずして受け容れがちです。実際にはわたしたちも知らない不確実な事柄が折り重なってひとつの目に見える出来事が出るはずなのに、特定の原因だけをとりあげてその人の現状を誤解するという、関わり方として見れば何とも無責任なあり方はすでに『旧約聖書』『ヨブ記』にあるヨブの友人たちの言葉に明らかです。ともすればそれは根拠のない「陰謀論」にさえなり得ます。

 しかし実際のところ、何が苦しみで何が苦しみではないかという考え方に始まって、それはみな人によって千差万別です。さらには隣人の苦しみを説明したり、自らが諦めようとする折にそのような持論をぶつけたりするなどもってのほかであります。自然災害の原因をその地域の土地の具合や誰かの責任として尋ね求める場合に限って、自らの居場所は安全圏に置いている場合もあり、それは説教者も例外ではありません。「AだからBとなった」という話を聞きにわたしたちは礼拝に招かれてはいないのです。

 本日の『聖書』の箇所では、教えを語る人の子イエスのもとに突如として報せが入ります。それは「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた」との衝撃的な話でした。この一節を見れば分かるように、総督ピラトは時に見せしめのための暴力も辞さない仕方で領地の運営にあたっていました。「ローマの平和」のためには犠牲も厭わずというのが皇帝の代官である総督の振舞です。おそらくこれはユダヤ州での暴動を抑えるためにではあったことでしょう。しかし人々がローマ帝国の暴力よりも、犠牲となったガリラヤ人を誹ったのは人の子イエスの言葉から分かります。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったからと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」。人の子イエスの裁判の折には、バラバ・イエスという強盗の烙印を押された死刑囚が恩赦の対象として立たされました。おそらくその時代のローマ帝国によるユダヤの統治は決して無血では済まなかったようです。この「強盗」という言葉には今でいう「国家転覆罪」も含まれていたからです。ガリラヤの人々はピラトに殺害されたガリラヤ人にどのような印象を覚えたでしょうか。毎日のささやかな平安を脅かす者として「暴力など使うからだ」「騒動を起こすからだ」「わたしとは関係ない」と呟いたかも知れません。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ」との言葉には、犠牲者との関係を遮断するあり方を誡めるメッセージが響きます。あなたがたも同じ責めを担っているのだとの言葉です。さらには、エルサレムにあるシロアムの塔の事故で亡くなった人々も決して無関係ではないと語ります。応報論によって強化される自己責任論に、イエス・キリストは見事に釘を刺しているのです。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」。高圧的な制度が押しつける自己責任論をイエス・キリストは厳しく誡めます。確かに原因と結果はあるでしょう。しかし、無分別に用いられるところの因果応報の論理は結局のところ、傷つく当事者との関係を絶つ、誤った認識を深めるだけに終わります。そこには虚しい諦めと言い訳しか残らないでしょう。

 それではこの諦めと言い訳を克服する道筋はどこにあるのでしょうか。イエス・キリストは次の譬え話を話します。則ち、ぶどう園に植えた実りのない無花果を切り倒せと命じる主人の姿です。三年間も畑にデッドスペースがあるのは考えものだから捨ててしまおうというのです。けれども世話をし続けてきた園丁は主人の命令に敢えて抗議をいたします。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。園丁はただ単に「このままにしてください」と慰留したのではありません。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と無花果が実るべく新たな労を担おうと申出るのです。福音書で「無花果」が終末の訪れを象徴する植物だとして踏まえると、福音書が求められた時代にすでに噂された「神の愛の統治など嘘っぱちである」との不安と諦めを、イエス・キリスト自らが誡めているようです。しかしそれは、諦めに沈む人々を排除するという具合にではなく、肥料をやり、より丁寧に世話をすることにおいてであります。キリストは「神などいない」と呟く人にこそ寄り添って元気づけてくださるのです。

 「主の祈り」では「御国がきますように」と祈ります。その祈りの言葉には「神の平和」を待ち望む態度も含まれます。わたしたち一人ひとりは弱くても、神自らがキリストを通して、またキリストの名による交わりを通して違いに励ましあえるのです。身体の疲れが出やすい季節ではありますが、希望にあふれた生き方を諦めてしまうことと話は別です。体力が衰えるのと、志をすててしまおうとする気持ちは全く別の問題です。わたしたちは様々な交わりの中で、予期しない出会いの中で絶えずキリストのお世話になっています。キリストから聖霊という名の肥やしを備えられ、祈りつつ希望にあふれた道をあゆみましょう。