ー聖霊降臨節第19主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「無視せずに手をさしのべる勇気と愛」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』16 章 19~26 節
(新約聖書 141頁).
讃美=74,392,讃美ファイル 3,542.
学生時分の一時期に暮らしたアパートから最寄りの駅に着くまで何度も「兄ちゃんいい身体しとるなあ、仕事せえへんか」と声をかけられた思い出があります。大阪市西成区の「あいりんセンター」の周りにマイクロバスが多く集まり、手配師と呼ばれる人々が人手を集めていました。日雇い労働者の人手が足りないとされた時代の話ですが、身体に緊張が走った覚えがあります。あのころマイクロバスに乗り込んでいった、土木工事の作業服に身を固めた若者や中高年の方々がどこにいるのか定かではありません。 今その場所にいってみれば齢を重ねた人が不自由になった手足でふらふらと自転車を漕いでいたりぼんやりと佇んでいたりとの様子を見ます。辛そうにされている様子に思わず手を出して「この街の倣いと違うことはするな」とお叱りを受けたこともあります。そのような記憶をたどりながら本日の『聖書』の箇所を味わってみますと様々な事柄に気づかされます。人の子イエスの物語る譬えには人物が二人描かれます。片や「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日をぜいたくに暮らす金持ち」、片や「この金持ちの家の門で、できものだらけの姿で横たわる貧しい人ラザロ」です。人の子イエスが強調するのは、名をもつ人物がラザロであることから分かります。また譬えであるにせよ、死後の世界を舞台にしているという点でも異色の物語となっています。ヘブライ人は死後の世界を問題視しないからです。しかし敢えてそのような筋書きを用いて強調したい事柄がこの物語にはあるようです。それではこのラザロが亡くなり、金持ちが葬られた後、二人はどうなったというのでしょうか。
ラザロは死に、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに招かれます。そして金持ちは陰府の炎の中で次のように叫びます。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。(略)ラザロをよこして、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」。しかし返事は次の言葉でした。「(略)お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。ラザロと金持ちとの間には深淵があり、互いに行き来は出来ません。金持ちが兄弟にこのような場所に来ないよう伝えてほしいと願えば「『律法の書』と『預言者の書』がある。これに耳を傾ければよい」との返事。死んだ者の誰かが甦り兄弟のところへ行けば悔い改めるだろうとの声には『律法の書』と『預言者の書』に耳を傾けなければ、たとえ甦ってもその言葉は聞き入れられないと突き放され続けます。
こうして読み進むうちにわたしたちはある疑問にたどり着きます。それはこの金持ちは死んだ後にこれほどまでに苦しまなくてはならない悪事を働いたのかという問いです。東アジア文化圏でいう因果応報論に則する死後の世界には地獄があり、このような苦しみの中を彷徨いますが、この金持ちは具体的に悪事を働いたとは記されていません。ただし、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに暮らしていた」、そしてこの金持ちは家の前に横たわる皮膚病に冒されたラザロに気づかず、残飯すら与えなかった態度が記されます。すなわち門前にいたラザロを一切視野に入れなかったその無関心さのゆえに、そして関わりを持とうともせずにその財産を「自分の贅沢のため」だけに用いていたというところに、永劫の苦しみを受ける理由があったとしか考えられません。そういたしますと『ルカによる福音書』の主たる読み手として想定されたローマ帝国の身分の高い役人や富裕層には極めて耳の痛い話となります。福音書の書き手はそれとしてローマ帝国の支配を認めてはいても、その中に生じている富の格差に決して無関心ではないとはっきりと語りかけているからです。
現代の格差社会にあって、わたしたちは「このままでよいのだろうか」との問いを絶えず抱えています。極端な貧しさの中で今なお食に事欠くこどもたちがいる一方で、インバウンド景気を狙った宿泊施設の料金は天井知らず、です。新今宮駅からそびえ立つ高級リゾートホテルを眺めますと、手配師に声をかけられた折以上の目眩を感じます。福音書の物語で絶えず「それでよいのか」と問われる事柄とは「わたしのものはわたしのもの」という独占です。しかし独占にばかり気を囚われていますと、わたしたちは一人だけで生きていけるとの錯覚に陥り、他者との関わりを斬り捨て、誰をも愛せず、誰からも愛されないという洞穴に閉じ込められてしまいます。『聖書』が示す生き方とは、イエス・キリストが伝える生き方とは、神に愛され、隣人を愛するというあり方です。教会関係者にはかつての日雇い労働者とは異なる時代の貧しさに喘ぐ人々のためにおにぎりを作ろうとされる人がいます。また「こども食堂」では他の年齢の方の肩身が狭かろうと別の名称のもとで奉仕する方々がいます。礼拝でも献金の備えをされる方々がいます。奉仕と献身のかたちには多様性があります。その豊かさを尊び、キリストが癒しを求める人を見捨てずにあゆんだそのあり方を本日は分かちあいたく願います。かつて日雇い労働者の声をすべて受けとめようと完璧さを求めたあり方を顧みながら、今わたしは教会から教えられるばかり。イエス・キリストに超えられない深淵はありません。そこにはあふれる希望があります。