時間:10時30分~
【説教要旨】
説教=「世のための教会」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』16 章 1~13 節
(新約聖書 140頁).
讃美=226, 191, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
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事実がどうであれ、主人の財産をごまかすか、または横領していると告げ口され、帳簿を出せと迫られた管理人がいました。「土を掘る力もなく、物乞いするのも恥ずかしい」と自分の生活力のなさを知る管理人は、解雇されても自分を迎え入れてくれる人々を作るため、主人に借りのある者を一人ひとり呼び、「油百バトス」とある帳簿を半分の量に書き換えさせ、「小麦百コロス」との帳簿を実際の数字の八割に書き直させます。保身というよりは「どの道解雇されるはずだ」との思いを前提とした管理人のなりふり構わないやり方。それは結果として貸し出した油や小麦の返済を額面通り強引に迫るのではありませんでした。どの道商品は劣化し、いわばアウトレット商品化しているはずですから、実は貸した方にも借りた方にも損のない道筋を結果として見出したこととなり、貸した方にも借りたほうにも世間の評判にも、いわば「三方よし」の結果を導き出し、思い込みに反して主人に褒められた、という物語を人の子イエスは語ります。ただわたしたちがこの箇所で注意したいのは、工夫のために奔走した管理人そのものにではなく、イエス・キリストがこの譬えを用いて何を言わんとしていたのか、という点です。
それは第一には「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」に始まる教えです。これは何も「なりふり構わない仕方で得た富で」という意味ではありません。福音書の中で問われる正義とは本来は神の御旨通りにあゆむという意味です。しかしその時代の古代ユダヤ教の基準となった「正義」とは実際には『律法の書』を守る生活態度としての面が強調されるばかりで、先ほどの譬えのような、礼拝での話にも上らない日常のやりとりの中で見られる柔軟な発想は困難でした。イエス・キリストは「不正にまみれた富」と言っています。つまり「富」とはそのものとしては正しくも何でもなく、どれほどの財産を所有しているかどうかが生き方としての正しさを決定するものではないと言うのです。確かに『旧約聖書』の『出エジプト記』では財産に示される豊かさを「金の雄牛」として崇拝したイスラエルの民の一部は十戒の前に絶たれ、今や滅びの最中にある豊穣な都市国家ソドムから逃れる最中、思わず街を振り返ってしまったロトの妻は塩の柱になったというな「富」の崇拝を戒める物語は無数に描かれます。しかし他方で、わたしたちは日々の糧としての財産を否定して生きるわけにもまいりません。だからこそ10節では「不正にまみれた富」が「ごく小さなこと」として、些細なことであっても疎かにはできない事柄として理解され、「富」そのものが礼拝の対象ではないながらも、「本当に価値あるもの」との関わりの中で理解され、「二人の主人に仕えることはできない」、すなわち手段は手段として、すべての被造物の根本を司る神が神とは鮮やかに一線が引かれます。教会は世のために仕えます。絶えず移ろう世に奉仕します。そしてわたしたちも世に属する者です。道の定まらない狼狽えがちな者でもあります。ただしこの世界そのものは、神自らが創造された場です。不正にまみれた世にあって、神の愛を宣べ伝えるには、身近なところにある希望を見つけ出し、分かち合うわざこそが肝要だと本日の箇所は訴えているようです。経済的な富をもたらす生産性という観点からは決して見定められず、見定めてはいけないのがいのちの尊さです。
イエス・キリストが語る神の国とは、この世の破壊や否定に成立つ「破局的終末論」とは全く異なった特性を帯びます。この世を神の愛が包み込んでいくのであり、その只中にわたしたちはあるという理解に立ちます。わたしたちはエデンの園に暮しているのではありません。教会とて世と関わりを持たずに済む場ではありません。むしろわたしたちは、箱舟物語で洪水が引いた後の、神の赦しの世界に暮しています。大自然のいきものとて、食物連鎖の只中に暮しています。これはいのちが別のいのちの犠牲の上に成立つ生態系です。しかしそれはそれぞれのいのちがそれぞれの特性に応じて生き長らえる環境を前提としており、特定のいきものばかりが繁栄を謳歌する「弱肉強食の世界」とは全く異なります。わたしたちの世も決して弱肉強食論や自己責任論では片づけられません。多様な特性がその多彩さに応じて、それぞれの個性が神に祝福されたものとして用いられ、隣人のために誠実に用いられる交わりの只中にあります。イエス・キリストに根を下ろした生き方が示すあり方です。
一般に、わたしたちは自分たちの暮らしを富のありやなしやで計ろうとしがちです。確かにそれは分かりやすい尺度ではあります。しかしそこには誰かとの比較の上で成立つ、かりそめとしての幸福しかありません。イエス・キリストはわたしたちに伝えたのは、何よりも「貧しい者は幸いである」という教えと生き方であり、孤独からの解放、「独占する」というありようからの解放です。幸せや豊かさの基準が絶えず移ろう世にあるわたしたちだからこそ、神は世のいのちをすべて等しく尊くお造りになり祝福されたとの喜びを伝えてまいりましょう。それこそが「世のための教会」というあり方の多様性を裏づけるものだと確信します。