―長寿感謝の日礼拝―
時間:10時30分~
【説教要旨】
説教=「いつまでも新しくされるわたしたち」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』15 章 25~32 節
(新約聖書 139頁).
讃美=517,520, Ⅱ192,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
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父親の遺産の半分を前借りして旅に出たのはよいけれど、大金の殆どを遊興に用い、それに輪をかけて飢饉に襲われ、身を持ち崩して豚飼いの手伝いをする羽目になった弟。汗みどろの日々が続く中でふと父親を思い出し、たとえ雇い人の一人にされてもよいからとの一念で帰郷します。父親はこの弟を冷たくあしらうどころか喜びにあふれ服を着せ、履物を備え手に指輪をはめ、肥えた子牛を屠り宴会まで催します。他方で弟不在の間、黙々と父親に仕えてきた兄は不平を漏らします。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」と物語が展開する本日の箇所は、教会やキリスト教の枠を超えて知られる「放蕩息子の譬え」と呼ばれます。本日お読みしたのは兄と弟の帰還を祝った父親との対話ですが、父と兄弟の関係の複雑さは新鮮さを失うどころか却って時を超えてわたしたちに深い問いを突きつけます。福音書での聴き手は「徴税人や罪人」となります。
さてもしこの物語が『旧約聖書』に記されていたならば果たしてどのような顛末になっていたかと幾度も考える機会がありました。「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞えてきた」と始まる箇所は『出エジプト記』では「十戒」を神から授かり、山から降りてきたモーセの物語を彷彿とさせます。そして音楽や踊りに興じる人々は、奴隷解放の神を忘れ、金で作られた雄牛を囲み、イスラエルの民が興じる舞い踊りに重なります。その後この宴に連なった者たちはモーセに従った人々の剣にかかり、三千人の男性を頭とする家族が絶たれたとの記事につながります。あるいは『創世記』には神が弟アベルの献げものを喜び、兄カインの献げものを退けたとの物語があります。妬みと憎悪に駆られた兄は弟を殺害します。いずれにしても物語の読み手や聴き手であるわたしたちには極度の緊張が強いられ、その物語の顛末に深く傷つくところです。どうしてこのような取り返しのつかないことになってしまったのかという消化できない問いかけがそこには残ります。あるいはモーセの帰還を待ち続け神の言葉をひたすら待望する態度こそが正義なのだと生き方に枠をはめられてしまっても戸惑うところがあります。
しかし本日の箇所では、物語が決して一方的に意味づけられてはいないと気づかされます。「遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」という弟の旅路にしても、何が放蕩で何が無駄遣いなのかはっきりとは語られてはいません。本人は前借りした父親の遺産を用いて何をしていたのでしょうか。確かに端から見れば放蕩や遊興に見えたかも知れませんが、本人は自分に託された人生とは何かと、当時は決して安全とはいえない旅路の中で試行錯誤を繰り返する中、ぼろ雑巾のような身の程を知り、夢破れて帰宅するほかありませんでした。このような家族をわたしたちはどのように迎え入れるのでしょうか。
また本日の箇所では、家族や家庭を支えようとする兄の使命感をひしひしと感じるとも申せます。ともに働くはずの弟がいないのですから、身動きしがたいその状況を何とかしなくてはとの焦りにも駆られていたでしょう。兄は帰宅した弟を囲む宴に加わろうともせず、父親の宥めにも応じようとはいたしません。父に向けた言葉とは「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。いのちがけの旅から帰還した弟への妬みと憎悪を感じてあまりある箇所です。ただ不思議なことに、この家族崩壊寸前の状況の中で最も苦悩したはずの父親は、ただただ黙って兄の訴えに耳を傾けます。ひたすら言い分に耳を傾けるのです。わたしの青春時代はあなたのもとで失われてしまったとでも言いたげな兄の主張を決して否定しないのです。そしてその上で、「子よ、お前はいつもわたしとともにいる。わたしのものは全てお前のものだ」と遺産のみならず、おそらくは農場、また労働者であるところの人々も、みなお前に属するのだと宣言します。その上で「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当然だ」と語りかけます。おそらく文脈からは「弟を悪くいうのはもう充分だろう。あなたもこの喜びの座に早く加わりなさい。わたしもあなたとともにいる」と呼びかけているともいえます。
わたしたちの中で、思い通りに事を運びながら齢を重ねた人など誰一人おりません。しかし本日の箇所では『旧約聖書』では血生臭い物語に繋がるはずの物語、そして家族を巡る悲しい事件の報道が絶えない現代にあって、どのような生き方であったとしても神は必ずともにいてくださるとのメッセージを発信し続けています。そしてもし置かれた場所が当事者のいのちや生涯にふさわしくなければ、そこを離れて、旅する逃れの道もあるのだとはっきりと示しています。本日は長寿感謝の日礼拝です。かけがえのない生き方の中で授かった賜物が当事者の心にどのように映ろうとも、分かちあいの中で喜びの宴になると確信する礼拝です。