時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「あきらめてはならない」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』13 章 1~9 節
(新約聖書 134 頁).
讃美= 85, Ⅱ 157,Ⅱ 171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
【説教要旨】
とある事故なり出来事があれば、必ずその原因がある。科学の分野や犯罪捜査の世界では言わずもがなではありますが、それがみだりに用いられるあまり、所謂「似非科学」に近い話をわたしたちは「みんなが言っているから」という理由によりわれ知らずして受け容れがちです。実際にはわたしたちも知らない不確実な事柄が折り重なってひとつの目に見える出来事が出るはずなのに、特定の原因だけをとりあげてその人の現状を誤解するという、関わり方として見れば何とも無責任なあり方はすでに『旧約聖書』『ヨブ記』にあるヨブの友人たちの言葉に明らかです。ともすればそれは根拠のない「陰謀論」にさえなり得ます。
しかし実際のところ、何が苦しみで何が苦しみではないかという考え方に始まって、それはみな人によって千差万別です。さらには隣人の苦しみを説明したり、自らが諦めようとする折にそのような持論をぶつけたりするなどもってのほかであります。自然災害の原因をその地域の土地の具合や誰かの責任として尋ね求める場合に限って、自らの居場所は安全圏に置いている場合もあり、それは説教者も例外ではありません。「AだからBとなった」という話を聞きにわたしたちは礼拝に招かれてはいないのです。
本日の『聖書』の箇所では、教えを語る人の子イエスのもとに突如として報せが入ります。それは「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた」との衝撃的な話でした。この一節を見れば分かるように、総督ピラトは時に見せしめのための暴力も辞さない仕方で領地の運営にあたっていました。「ローマの平和」のためには犠牲も厭わずというのが皇帝の代官である総督の振舞です。おそらくこれはユダヤ州での暴動を抑えるためにではあったことでしょう。しかし人々がローマ帝国の暴力よりも、犠牲となったガリラヤ人を誹ったのは人の子イエスの言葉から分かります。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったからと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」。人の子イエスの裁判の折には、バラバ・イエスという強盗の烙印を押された死刑囚が恩赦の対象として立たされました。おそらくその時代のローマ帝国によるユダヤの統治は決して無血では済まなかったようです。この「強盗」という言葉には今でいう「国家転覆罪」も含まれていたからです。ガリラヤの人々はピラトに殺害されたガリラヤ人にどのような印象を覚えたでしょうか。毎日のささやかな平安を脅かす者として「暴力など使うからだ」「騒動を起こすからだ」「わたしとは関係ない」と呟いたかも知れません。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ」との言葉には、犠牲者との関係を遮断するあり方を誡めるメッセージが響きます。あなたがたも同じ責めを担っているのだとの言葉です。さらには、エルサレムにあるシロアムの塔の事故で亡くなった人々も決して無関係ではないと語ります。応報論によって強化される自己責任論に、イエス・キリストは見事に釘を刺しているのです。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」。高圧的な制度が押しつける自己責任論をイエス・キリストは厳しく誡めます。確かに原因と結果はあるでしょう。しかし、無分別に用いられるところの因果応報の論理は結局のところ、傷つく当事者との関係を絶つ、誤った認識を深めるだけに終わります。そこには虚しい諦めと言い訳しか残らないでしょう。
それではこの諦めと言い訳を克服する道筋はどこにあるのでしょうか。イエス・キリストは次の譬え話を話します。則ち、ぶどう園に植えた実りのない無花果を切り倒せと命じる主人の姿です。三年間も畑にデッドスペースがあるのは考えものだから捨ててしまおうというのです。けれども世話をし続けてきた園丁は主人の命令に敢えて抗議をいたします。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。園丁はただ単に「このままにしてください」と慰留したのではありません。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と無花果が実るべく新たな労を担おうと申出るのです。福音書で「無花果」が終末の訪れを象徴する植物だとして踏まえると、福音書が求められた時代にすでに噂された「神の愛の統治など嘘っぱちである」との不安と諦めを、イエス・キリスト自らが誡めているようです。しかしそれは、諦めに沈む人々を排除するという具合にではなく、肥料をやり、より丁寧に世話をすることにおいてであります。キリストは「神などいない」と呟く人にこそ寄り添って元気づけてくださるのです。
「主の祈り」では「御国がきますように」と祈ります。その祈りの言葉には「神の平和」を待ち望む態度も含まれます。わたしたち一人ひとりは弱くても、神自らがキリストを通して、またキリストの名による交わりを通して違いに励ましあえるのです。身体の疲れが出やすい季節ではありますが、希望にあふれた生き方を諦めてしまうことと話は別です。体力が衰えるのと、志をすててしまおうとする気持ちは全く別の問題です。わたしたちは様々な交わりの中で、予期しない出会いの中で絶えずキリストのお世話になっています。キリストから聖霊という名の肥やしを備えられ、祈りつつ希望にあふれた道をあゆみましょう。
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』13 章 1~9 節
(新約聖書 134 頁).
讃美= 85, Ⅱ 157,Ⅱ 171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
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とある事故なり出来事があれば、必ずその原因がある。科学の分野や犯罪捜査の世界では言わずもがなではありますが、それがみだりに用いられるあまり、所謂「似非科学」に近い話をわたしたちは「みんなが言っているから」という理由によりわれ知らずして受け容れがちです。実際にはわたしたちも知らない不確実な事柄が折り重なってひとつの目に見える出来事が出るはずなのに、特定の原因だけをとりあげてその人の現状を誤解するという、関わり方として見れば何とも無責任なあり方はすでに『旧約聖書』『ヨブ記』にあるヨブの友人たちの言葉に明らかです。ともすればそれは根拠のない「陰謀論」にさえなり得ます。
しかし実際のところ、何が苦しみで何が苦しみではないかという考え方に始まって、それはみな人によって千差万別です。さらには隣人の苦しみを説明したり、自らが諦めようとする折にそのような持論をぶつけたりするなどもってのほかであります。自然災害の原因をその地域の土地の具合や誰かの責任として尋ね求める場合に限って、自らの居場所は安全圏に置いている場合もあり、それは説教者も例外ではありません。「AだからBとなった」という話を聞きにわたしたちは礼拝に招かれてはいないのです。
本日の『聖書』の箇所では、教えを語る人の子イエスのもとに突如として報せが入ります。それは「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた」との衝撃的な話でした。この一節を見れば分かるように、総督ピラトは時に見せしめのための暴力も辞さない仕方で領地の運営にあたっていました。「ローマの平和」のためには犠牲も厭わずというのが皇帝の代官である総督の振舞です。おそらくこれはユダヤ州での暴動を抑えるためにではあったことでしょう。しかし人々がローマ帝国の暴力よりも、犠牲となったガリラヤ人を誹ったのは人の子イエスの言葉から分かります。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったからと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」。人の子イエスの裁判の折には、バラバ・イエスという強盗の烙印を押された死刑囚が恩赦の対象として立たされました。おそらくその時代のローマ帝国によるユダヤの統治は決して無血では済まなかったようです。この「強盗」という言葉には今でいう「国家転覆罪」も含まれていたからです。ガリラヤの人々はピラトに殺害されたガリラヤ人にどのような印象を覚えたでしょうか。毎日のささやかな平安を脅かす者として「暴力など使うからだ」「騒動を起こすからだ」「わたしとは関係ない」と呟いたかも知れません。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ」との言葉には、犠牲者との関係を遮断するあり方を誡めるメッセージが響きます。あなたがたも同じ責めを担っているのだとの言葉です。さらには、エルサレムにあるシロアムの塔の事故で亡くなった人々も決して無関係ではないと語ります。応報論によって強化される自己責任論に、イエス・キリストは見事に釘を刺しているのです。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」。高圧的な制度が押しつける自己責任論をイエス・キリストは厳しく誡めます。確かに原因と結果はあるでしょう。しかし、無分別に用いられるところの因果応報の論理は結局のところ、傷つく当事者との関係を絶つ、誤った認識を深めるだけに終わります。そこには虚しい諦めと言い訳しか残らないでしょう。
それではこの諦めと言い訳を克服する道筋はどこにあるのでしょうか。イエス・キリストは次の譬え話を話します。則ち、ぶどう園に植えた実りのない無花果を切り倒せと命じる主人の姿です。三年間も畑にデッドスペースがあるのは考えものだから捨ててしまおうというのです。けれども世話をし続けてきた園丁は主人の命令に敢えて抗議をいたします。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。園丁はただ単に「このままにしてください」と慰留したのではありません。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と無花果が実るべく新たな労を担おうと申出るのです。福音書で「無花果」が終末の訪れを象徴する植物だとして踏まえると、福音書が求められた時代にすでに噂された「神の愛の統治など嘘っぱちである」との不安と諦めを、イエス・キリスト自らが誡めているようです。しかしそれは、諦めに沈む人々を排除するという具合にではなく、肥料をやり、より丁寧に世話をすることにおいてであります。キリストは「神などいない」と呟く人にこそ寄り添って元気づけてくださるのです。
「主の祈り」では「御国がきますように」と祈ります。その祈りの言葉には「神の平和」を待ち望む態度も含まれます。わたしたち一人ひとりは弱くても、神自らがキリストを通して、またキリストの名による交わりを通して違いに励ましあえるのです。身体の疲れが出やすい季節ではありますが、希望にあふれた生き方を諦めてしまうことと話は別です。体力が衰えるのと、志をすててしまおうとする気持ちは全く別の問題です。わたしたちは様々な交わりの中で、予期しない出会いの中で絶えずキリストのお世話になっています。キリストから聖霊という名の肥やしを備えられ、祈りつつ希望にあふれた道をあゆみましょう。