2018年8月5日日曜日

2018年8月5日(日) 平和聖日礼拝 説教「神の平和を語り継ぐ涙と喜び」稲山聖修牧師

2018年8月5日
ローマの信徒への手紙9章30~32節
マルコによる福音書10章13節~16節
「神の平和を語り継ぐ涙と喜び」
平和聖日礼拝説教:稲山聖修牧師

 教会がサロン的な社交場と袂を分かつのは、天に召された方々をも包み込む交わりを築きあげるところにも明らかだ。聖書の伝えるところでは宇宙万物の主なる神は、アブラハムの神として告知される。その御手の中では、逝去された方々も、わたしたちと同じく被造物として召されている。その交わりは、イエス・キリストとの関わりの下で検証されるべき、世に刻まれた歴史を、生きた声として響かせ、わたしたちとの対話を重ねている。吉田満。『戦艦大和ノ最期』の著者であり、大和の生き残りである彼は1960年代、教会で兵士たちが犬死にであったとの声にふれ、おだやかな口調で「そのことは、今度ゆっくりと話しましょう」と答えた。

 「イエスが触れていただくために、人々がこどもたちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った」。「人々」と訳される言葉は、「群衆」と訳される「オクロス」。芥子粒のような「その他大勢の人々」を示す。名もなき人々の間で「メシア」との評判のあった主イエスのもとに連れてこられたこども。「こどもたち」には所有格がない。親のないこども、世にいう孤児がいたかもしれない。イエスに触れていただく、とは癒しのわざをも意味する。病気のこども、障がいを抱えたこども。弟子にはこどもたちは排除の対象でしかなかった。イエス・キリストは憤る。「こどもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」。イエス・キリストの受難の歩みは、このこどもたちの弱さと痛みを分かちあい、十字架の上での苦しみを頂点とするものでもあった。敗戦後の上野に溢れた戦災孤児。「あいのこ」と呼ばれたこども。引揚の最中落命したこども。被曝孤児。毒殺された障がい児。キリストは、神の国とはこのような者たちのものであると語る。「はっきり言っておく。こどものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そして、「こどもたちを抱きあげ、手を置いて祝福された」。癒しを超えて注がれる祝福があった。「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです」。パウロは、なぜイスラエルの民にではなく、まず異邦人に神の選びが臨んだのかを語る。内向きで交わりを欠き、目的化した律法主義的な義。それが暴力を常にはらむところも見抜いているところは鋭い。
 戦艦大和の乗組員は内地の人々だけではない。士官の出身大学には、京城帝国大学、台北帝国大学があった。日系二世で日本国籍を選んだ者もいた。芥子粒扱いの兵士がいた。その思いを背負いながら吉田は戦後、銀行員として歩んだ。「進歩のないものは決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れてきた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今日目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ」。吉田が戦後に加筆した士官の言葉。戦死・戦病死だけでなく、犠牲となった全ての人々には家族や関係者がいた。敵視され、蔑視され、殺害した相手にも愛する家族がいた。平和聖日に始まる八月。復活のキリストという窓を通して、逝去された人々、苦しみを担い続けた人々との交わりの中、涙を伴う神の平和を語り継ぐわざを感謝とともに喜び、犠牲の上に活かされている者として、各々のあり方を主の前で確かめる月を、今年も迎えた。

2018年7月29日日曜日

2018年7月29日(日) 説教「わたしたちを救う地の塩の役目」 稲山聖修牧師

2018年7月29日
ローマの信徒への手紙9章27~28節
マルコによる福音書9章42節~46節
「わたしたちを救う地の塩の役目」
稲山聖修牧師

 キリストの弟子だという理由で一杯の水を飲ませてくれた者を主イエスは「わたしを信じるこれらの小さな者」と呼ぶ。人に敬われずなおもイエス・キリストと、希望のもとにつながりを持ちながら奉仕に励んだ初代教会の関係者がいた。今朝の箇所で主イエスの誡めの言葉は、神なき世の組織の論理に気をとられていた教会の指導者に向けられる。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になって命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつかずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。主イエスは「地獄(ゲヘナ)」という旧約聖書にはない死後の世界を語る。何とも異様な場面だ。犯罪や戦争の結果もたらされる災いより「小さな者の一人をつまずかせる」わざの方が重大な罪悪なのだ。それでは「小さな者の一人をつまずかせる」という重大な過ちと、わたしたちは袂を分かつことができるのか。
 それは無理なのだ。「人は皆、火で塩味をつけられる」。このような過ちは、そこに居直ることは赦されないが、さりとて避けることもまた実に難しい。この前提に立った上で「人は皆、火で塩味をつけられる」と記した後、次の言葉が続く。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか」。「塩はよいものである」とキリストは語る。この教えは分かりづらく、実に飛躍に満ちている。つまずきをもたらす者はゲヘナの炎に落ちるとしながら「人は皆、火で塩味をつけられ」、そして「塩は良いものである」と言葉が続くからである。何が言いたいのだろうかとわたしたちは困惑する。
 おそらく、神の前にあって、キリストを頭として仰ぐ一方で、人の交わりでもある教会は、あまりにも人間的な営みの中で人をつまずかせてしまうという危うさを絶えずはらんでいる。その深い反省があるのだろう。たとえ善意に端を発したとしても、人をつまずかせる過ちは、わたしたちにも確かに身に覚えがある。新しく教会を訪れた人を、わたしたちはどのように迎えているのか。
 パウロは本日の箇所で、誰が神の国につながる選びに属しているのかは、イスラエルの民にも隠されており、人の知るところではないと選びの秘義を語る。教会の働きは「これまで」と「今・この時」そして「これから」という時の中で進む一方で、天地創造と神の国が訪れとの時の間に起きる出会いに「わたしたち」が向き合う道筋を問う。その中間の時の中では、ゲヘナという言葉すら伴いながら誡めを受ける苦い失敗もある。けれどもその過ちは、それに気づきながら涙するわたしたちに、赦しを語りかけるキリストの励ましと決して無縁ではない。それは地の塩・世の光としての役目の発端ともなり得るからだ。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。教会が自らの過ちから目を背けることなく、祈りの中で胸に手を当てるならば、過ちでさえも宝となり、教会に繋がる交わりから恨みを消し去る神の平和をもたらす。その証しがわたしたちの役目だ。家庭や職場で人知れず証しを立てていく。喜びに満ちた光の道が敷かれている。


2018年7月22日日曜日

2018年7月22日(日) 説教「一杯の水への感謝がもたらす力」稲山聖修牧師

2018年7月22日
ローマの信徒への手紙9章24~26節
マルコによる福音書9章38節~41節
「一杯の水への感謝がもたらす力」

稲山聖修牧師
  弟子のヨハネの耳打ちのような言葉から今朝の聖書箇所は始まる。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないのでやめさせようとしました」。ヨハネの言葉は「誰がいちばん偉いか」という「権威」や「序列」をめぐる弟子の間の議論と無縁ではない。『マルコによる福音書』の書き手は、権力欲や支配欲といった、いつの時代も教会を混乱させてきた課題を弟子の争いや咎め立てに重ねているようでもある。
 ヨハネが非難する相手はイエス・キリストの名を用いて癒しのわざを行っているのであり、非難を受ける筋合いはどこにもない。けれども弟子のヨハネには許しがたい分派活動に映った。「わたしたちに従わないのでやめさせようとしました」。弟子が歯止めをかけようとする理由は「わたしたちに従わない」という点だけで、癒しのわざ自体に問題があるのではない。それにも拘わらず弟子は自らの下に相手を従えようとする。私心に深く根ざした支配欲がむきだしにされている。
 この弟子ヨハネに対してイエス・キリストは語る。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。キリストが見渡す教会の交わりは、弟子の思いよりもはるかに広い。その広い展望に立つがゆえに、見方によっては実にしたたかな言葉さえ語っている。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。かの人々が異なる文化に属していようとも、どのような言語を用いようとも、どのような礼拝様式を伴っていようとも。いろいろ意見があったとしても、わたしたちが礼拝に出席するにあたって、少しでも理解を示してくれる方々がいるならば、たとえ直に教会とのつながりがなくても「味方」であり「サポーター」なのだ。実に心強いではないか。この言葉を伝承として重んじ、福音書に刻んだ信仰の多様性への理解に、わたしたちは学ぶところが大きい。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と続けて主イエスは語る。
 このように、宣教や教会のあり方は、わたしたちの自問自答の枠を超えて、より多彩な交わりからの声に耳を澄ませる必要がある。五〇年を重ねようとする泉北ニュータウン教会の交わりは、関わる人々を「内部」から支えてきただけに留まらず、むしろ交わりの「外部」からも支えられてきたのではないだろうか。「外部」から差し出された一杯の水に支えられてきた事実を無視しては、教会のあゆみの正当な検証は難しい。教会に集う人々を包み込む神の愛の包容力は、一杯の水から始まると言っても過言ではない。その水には、苦悩する者の涙が拭われる、神の国の交わりが映し出されている。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民でない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれる」とパウロは語る。神の選びは、このように多様性と豊かさに満ちており、わたしたちには気づきもしなかったところから、キリストに従う者を目覚めさせる。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からではなく、異邦人の中からも召し出してくださった」。このパウロの言葉をたどることで、わたしたちは、イエス・キリストが示した、実に壮大な展望を分かちあえるのではないだろうか。乾ききったこの時代の中での一杯の水への感謝。混乱と頽廃を極める世にあって、絶望の闇の扉を打ち砕くキリストとの出会いが、すでに教会の内外から開かれている。

2018年7月15日日曜日

2018年7月15日(日) 説教「信仰のないわたしをお助けください」 稲山聖修牧師

2018年7月15日
ローマの信徒への手紙9章19~20節
マルコによる福音書9章14節~29節
「信仰のないわたしをお助けください」
稲山聖修牧師

 本日の聖書の箇所ではイエス・キリストによる癒しの物語が記される。それは盲人の目を開く癒しの物語とはまた異なる。「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」。実はこの「一同」という言葉で示されるのはペトロとヤコブ、そしてヨハネの三名だけだ。それは9章の「山上の変容の物語」の続きであるからだ。下山してきた弟子とイエス・キリストは、人々の暮らす世界の只中へと入る。待つのは残りの弟子達と律法学者たちとの議論。そのさまは大勢の群衆の衆目の下にあった。言葉のぶつけ合いを耳にした大勢の群衆からは失望とやり場のない悲しみが窺える。「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した」。不毛な議論に消耗した群衆が目前の事態を収めてくださるのはキリスト以外に他はないとの、切実な助けの声。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取憑かれて、ものが言えません」。この問いかけの中で、最も苦しんでいた当事者の声が記される。
イエス・キリストが問いかける中、明らかになったのは、第一には、霊に取憑かれた息子を助けて欲しいという父親の叫び。「霊が取憑いている」という新約聖書の表現に基づくならば、その霊を追い出せば問題は解決する。けれども、キリストの問いかけの前に明らかにされた第二の事柄は「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」という失意であった。弟子たちと律法学者の不毛な議論の発端はここにある。「本当の当事者が誰なのか、救いを求めている人が誰なのか」。イエス・キリストはこの当事者との関わりが絶たれた、関係断絶の世に対して大いに憤る。「なんと信仰のない時代なのか」。この箇所で「信仰」と呼ばれる事柄を「神との関わりの中で開かれる、大切にしなければならない人との関わり」と読み替えてみる。この憤りは言うまでもなく弟子たちや律法学者、それに大勢の群衆の中にいる野次馬意識の人々にも向けらている。けれども主イエスは憤りを「時代」に向ける。この社会のしくみ全体だ。イエス・キリストの人々に向けている愛は、絶えず忍耐を伴う。破れをそれとして受け入れる痛みの故に。
 イエス・キリストはさらに問う。「このようになったのは、いつごろからか」。答える父親の声に、キリストもまた当事者として耳を傾ける。こうなったのは、幼い頃からだ。今もその最中にいる。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中水の中に投げ込んだ。おできになるならば、わたしどもを憐れんでお助けくださいという叫び。イエス・キリストは父親に三たび問う。「『できれば』と言うか。信じる者には、何でもできる」。やり直しの効かない場面でキリストは問いかける。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。父親として何もできないという深い破れに、イエス・キリストの力があふれんばかりに注がれる。父親は自己救済を求めてはいない。息子の助けを乞う。父親は自分には一切執着せず、涙とともにキリストだけを見つめる。そしてイエス・キリストもまた発作に苦しむ息子を凝視する。父親からキリスト、キリストから長患いを抱えた息子。この眼差しこそが、霊を追い出せなかった弟子たちには欠けていたのではなかろうか。弟子たちが人目をはばかりながら語った「なぜわたしたちはあの霊を追い出せなかったのか」との台詞には、神の国どころか、苦しむ当事者の姿すらも目に入らない、弟子たちの態度が窺える。弟子たちは自分の能力の問題に帰してしまっているのだ。弟子たちの癒しのわざは自己完結のものでしかなく、したがって病を癒すに足る祈りを欠いていた、すなわち神との関わりを欠いていたのではないか。パウロの記す「どうしてわたしをこのように造ったのか」との問いには、自ら与えられた現状に対し、感謝に満ちた関わりを持ち得ない悲しみが記される。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。諦めを破るいのちの叫びは祈りとなり、イエス・キリストの愛の中でわたしたちを新たにする。だからこそ、わたしたちは悲しむ人とともに破れを担う力を、キリストを通して神から授かるのである。

2018年7月8日日曜日

2018年7月8日(日) 説教「新しい扉は生きづらさの中で開く」 稲山聖修牧師

2018年7月8日
ローマの信徒への手紙9章14~18節
マルコによる福音書8章22節~26節

「新しい扉は生きづらさの中で開く」 
稲山聖修牧師

救い主に期待されたわざとして、目を開く癒しがある。このような神の癒しを受けた者が全て喜びに満ちた暮しへと変えられたわけではない。目が開かれた結果、物語が予定調和のように完結する様子ばかりが、福音書に記されているわけではない。これは、わたしたちが忘れてはいけないメッセージである。本日の聖書の箇所で、見えない人が癒される場所は村の中ではなくて外であり、目が完全に癒されたこの人に「この村に入ってはならない」とイエス・キリストは警鐘を鳴らす。この記事はわたしたちに何を問いかけるのか。
 実はこの物語の拡大版としても説き明かせる物語が『ヨハネによる福音書』に記されている。『ヨハネによる福音書』9章には、生まれながら視力を失っている物乞いと主イエスとの出会いが記される。弟子はこの物乞いを引き合いに出して「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」と問答を始める。この箇所はイエス・キリストが「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人を通して現れるためである」と語る有名な箇所ではある。しかしその後の顛末は実に複雑だ。「シロアム――『遣わされた者』の池に行って洗いなさい」との言葉通り、主イエスの唾でこねられ目に塗られた土を洗い、物乞いは見えるようになった。しかし人々は「目を癒されたこの人を知らない」と口々に語る。癒された物乞いも主イエスを直に見たわけではなく、主イエスを知らないという。この日はユダヤ教の安息日であった。このゆえに物語ではファリサイ派の人々が何が起きたのか調査をしに物乞いに対して詮議をする。この詮議では、この物乞いの両親まで呼び出されるが、両親は「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と突き放してしまう。その理由は「ユダヤ人たちを恐れていたからである」。『ヨハネによる福音書』ではイエス・キリストとの出会いと触れあいが、当事者には喜ばしい出来事をもたらしたとしても、その喜びはキリストとの出会いによって縁を絶たれはしないかという恐怖に圧し潰されてしまう。ファリサイ派の追及が続く中で物乞いは事実を淡々と述べ続ける。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。ファリサイ派の人々はその対応に立腹して彼を外に追い出した。

 目が見えるとは、世の倣いに沈む人々が気づかないで済む事柄、見ないで済む事柄が見えてしまい、その結果として険しい道へと敢えて歩みだすことを厭わない姿勢をもたらす特質としても理解できる。「これまでしたことがない」という言葉が、何もしないことへの理由になるのではなく、キリストに開かれた展望を通して外へと一歩踏み出してチャレンジしていく契機となる道筋でもある。
 聖書では、そのような、前へと進む原動力となる心のデリケートさや感じやすさを、決して病であるとは見なさない。むしろイエス・キリストに開かれた賜物としての眼力として意味づける。新しい扉は生きづらさの中で必ず開く。イエス・キリストがその扉をお開けくださるからだ。これは徹頭徹尾この世の話である。なぜなら、その扉はイエス・キリストを中心とする世の交わりへとつながっているからである。神の国の訪れはその交わりを完全なものにしてくださる。イエス・キリストは孤独や世から「病」と言われる中で苛まれるわたしたちに、そのように語りかけてくださる。

2018年7月1日日曜日

2018年7月1日(日) 説教「転換のときにあらわになるもの」稲山聖修牧師

2018年7月01日
ローマの信徒への手紙9章6~8節
マルコによる福音書 8章14節~21節
説教「転換のときにあらわになるもの」
稲山聖修牧師



 「弟子たちはパンをもってくるのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」。ことの始まりは弟子の失策。弟子にとっての「パン」とは、字義通りパンそのもの。但し初代教会にとっては、この意味でのパンも疎かにしてはいけない。使徒言行録で「ギリシア語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」との摩擦も日々の食事の分配をめぐる問題に由来した。この現状を踏まえながら、イエス・キリストはパンのもつ「交わり」という面を強調する。食卓を囲む交わり。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。それでは「ファリサイ派の人々のパン種」とは何か、そして「ヘロデのパン種」とは何か。『マルコによる福音書』の成立年代とは概ね紀元70年頃であるとされる。主の磔刑は紀元30年頃だという。
「ファリサイ派の人々のパン種」からは、主イエスが十字架で処刑され、復活し昇天してから五十年を前にして、教会の人々の中に戒律主義的に「人を裁く」あるいは「決めつける」だけに留まらず、教会のあゆみの中で新しい声を、伝統を引き合いにして消していく振る舞いが暗示される。
ヘロデのパン種」からは、組織の規模としては弱小であった初代教会が、神なき権力と繁栄の軒下で憩う様子が窺える。この二点が初代教会の成立五十年を前にして福音書の書き手が思い起したイエス・キリストの言葉だった。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデ王のパン種によく気をつけなさい」。この問いかけの深刻さは、弟子がこの問いかけにあまりにも鈍感であったところからも推し量ることができる。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と叱るキリストの声が響く。続く箇所では当該福音書の6章30節にある「五千人に五つのパンを割いた物語」、8章1節より始まる「四千人に七つのパンを裂いた物語」だ。五千人と食を分かち合った話は、パン屑をいれた籠の数が12。イスラエル12部族に示された、ユダヤ教から深く影響を受けていた群れに連なる、名も無い人々に向けられたメッセージだ。それはイスラエルの民を満たす内容だった。他方、四千人と食を分かち合った物語の前にはシリア・フェニキアの女性と主イエスの出会いが記される。四千人と食を分かち合った物語の舞台と背景は、異邦人の住まうところであった。だからこそパン屑を集めた籠は七つ。天地創造のわざにあたって必要とされた日数と同じ数が示される。すなわちこの箇所には、神の創造した、神の生み出された全てのいのちが満たされるとのメッセージが秘められる。五千人の食事の物語も、四千人の食事の物語も、どちらも軽んじられてはならない。
「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がそのこどもということにはならない」とパウロは語る。神の選びのミステリーが記される。イエス・キリストを主と仰ぐ、イスラエルの民と異邦人の混在した、奴隷とその主人の混在した、あるいは互いに争っていたはずの異邦人の混在した交わりこそ、最も祝福された交わりとして記される。その交わりは開かれているからこそ、絶えず新しい問いかけをわたしたちに投げかける。その問いかけこそが主なる神からの問いかけでもある。泉北ニュータウン教会創立50年を目前に控え、聖書からの問いかけをキリストの招きとして受けとめながら応え、日々新しくされながら、交わりを育んでいきたい。


2018年6月24日日曜日

2018年6月24日(日) 説教「人の正義の虚しさ、神の義の喜び」 稲山聖修牧師

2018年6月24日
ローマの信徒への手紙9章4~5節
マルコによる福音書 6章14節~29節
「人の正義の虚しさ、神の義の喜び」
稲山聖修牧師

クリスマス物語で描かれるヘロデ王の息子にあたる、ヘロデ・アンティパス。権力者として登り詰めるほど、猜疑心の虜になっていく人。そのような猜疑心に包まれていたのがヘロデの一族だった。対するは洗礼者ヨハネ。この両者の緊張関係は「戦い」という図で理解すべきではない。ヘロデと洗礼者ヨハネが何を表わすのかという問いが必要になる。洗礼者ヨハネは救い主の訪れを告げ、イエス・キリストは名もない人々に神の国の訪れを伝え、証しを立てた。
 アンティパスに洗礼者ヨハネの名を思い起させたのはイエス・キリストの名であった。その名が響く度毎に、ヘロデ王は恐れおののかざるを得なかった。「わたしが首を刎ねたあのヨハネが、生き返ったのだ」。17節からは『マルコによる福音書』の書き手によるところの、ヘロデ・アンティパスを虜にした恐怖のわけが記される。「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた」。富と繁栄を追い求めて崩壊していく家族の姿がこの箇所には記される。

 洗礼者ヨハネは預言者として実直に王に語りかけた。「自分の兄弟の妻と結婚することは律法では赦されていない」。この誡めを語るヨハネの目にはアンティパスの抱えた破れがくっきりと映っていた。「そこでへロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」。洗礼者ヨハネとへロディアの間で揺れるアンティパス。この揺れ動く振り子はどこにたどり着いたのか。宴会の中、へロディアの娘が踊る。その娘に「欲しいものがあれば何でも願い出なさい。お前にやろう」。「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と立てた誓い。伴侶のへロディアは娘にこう言わせる。「洗礼者ヨハネの首を」。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また、客の手前、少女の願いを退けたくはなかった」。これが洗礼者ヨハネの首を刎ねる理由だ。あまりにも萎縮し、惨めな理由。
 それではわたしたちはアンティパスを笑えるというのか。人の姿しか目に映らないならば、わたしたちはアンティパスと似たもの同士に違いない。他方で洗礼者ヨハネは、牢獄にありながら、なおも希望の中で生涯を全うした。その目には、まごうことなく救い主の姿があったのだ。洗礼ヨハネは、アンティパスと対立など一切してはいなかった。両者は各々全く異なる別の土俵に立っている。ヨハネが立つのはイエス・キリストが照らし出した、神の愛という光に照らし出された舞台である。「彼らはイスラエルの民。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのもの。先祖たちも彼らのもの、肉によればキリストも彼らから出た。キリストは万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」。パウロはそのように語る。アーメンという言葉は、ヘブライ語のエメット(真理)に由来する言葉だ。アブラハムの神の真理を受けとめるには、神に謙るところから始まる。そしてそれは隣人に謙ることをも意味する。イエス・キリストがおられるから、わたしたちは己を誇ることなく、隣人を受容するというアンティパスとは別の扉が開かれる。先の見えないこの時代、わたしたちには聖書の御言葉が与えられている。それは、神の愛の力によって心ときめくときに神の言葉となる、大切なともしびなのだ。このともしびこそが、わたしたちの行く手を照らす光なのである。