ローマの信徒への手紙9章24~26節
マルコによる福音書9章38節~41節
「一杯の水への感謝がもたらす力」
稲山聖修牧師
弟子のヨハネの耳打ちのような言葉から今朝の聖書箇所は始まる。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないのでやめさせようとしました」。ヨハネの言葉は「誰がいちばん偉いか」という「権威」や「序列」をめぐる弟子の間の議論と無縁ではない。『マルコによる福音書』の書き手は、権力欲や支配欲といった、いつの時代も教会を混乱させてきた課題を弟子の争いや咎め立てに重ねているようでもある。
ヨハネが非難する相手はイエス・キリストの名を用いて癒しのわざを行っているのであり、非難を受ける筋合いはどこにもない。けれども弟子のヨハネには許しがたい分派活動に映った。「わたしたちに従わないのでやめさせようとしました」。弟子が歯止めをかけようとする理由は「わたしたちに従わない」という点だけで、癒しのわざ自体に問題があるのではない。それにも拘わらず弟子は自らの下に相手を従えようとする。私心に深く根ざした支配欲がむきだしにされている。
この弟子ヨハネに対してイエス・キリストは語る。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。キリストが見渡す教会の交わりは、弟子の思いよりもはるかに広い。その広い展望に立つがゆえに、見方によっては実にしたたかな言葉さえ語っている。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。かの人々が異なる文化に属していようとも、どのような言語を用いようとも、どのような礼拝様式を伴っていようとも。いろいろ意見があったとしても、わたしたちが礼拝に出席するにあたって、少しでも理解を示してくれる方々がいるならば、たとえ直に教会とのつながりがなくても「味方」であり「サポーター」なのだ。実に心強いではないか。この言葉を伝承として重んじ、福音書に刻んだ信仰の多様性への理解に、わたしたちは学ぶところが大きい。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と続けて主イエスは語る。
このように、宣教や教会のあり方は、わたしたちの自問自答の枠を超えて、より多彩な交わりからの声に耳を澄ませる必要がある。五〇年を重ねようとする泉北ニュータウン教会の交わりは、関わる人々を「内部」から支えてきただけに留まらず、むしろ交わりの「外部」からも支えられてきたのではないだろうか。「外部」から差し出された一杯の水に支えられてきた事実を無視しては、教会のあゆみの正当な検証は難しい。教会に集う人々を包み込む神の愛の包容力は、一杯の水から始まると言っても過言ではない。その水には、苦悩する者の涙が拭われる、神の国の交わりが映し出されている。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民でない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれる」とパウロは語る。神の選びは、このように多様性と豊かさに満ちており、わたしたちには気づきもしなかったところから、キリストに従う者を目覚めさせる。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からではなく、異邦人の中からも召し出してくださった」。このパウロの言葉をたどることで、わたしたちは、イエス・キリストが示した、実に壮大な展望を分かちあえるのではないだろうか。乾ききったこの時代の中での一杯の水への感謝。混乱と頽廃を極める世にあって、絶望の闇の扉を打ち砕くキリストとの出会いが、すでに教会の内外から開かれている。