2018年7月29日日曜日

2018年7月29日(日) 説教「わたしたちを救う地の塩の役目」 稲山聖修牧師

2018年7月29日
ローマの信徒への手紙9章27~28節
マルコによる福音書9章42節~46節
「わたしたちを救う地の塩の役目」
稲山聖修牧師

 キリストの弟子だという理由で一杯の水を飲ませてくれた者を主イエスは「わたしを信じるこれらの小さな者」と呼ぶ。人に敬われずなおもイエス・キリストと、希望のもとにつながりを持ちながら奉仕に励んだ初代教会の関係者がいた。今朝の箇所で主イエスの誡めの言葉は、神なき世の組織の論理に気をとられていた教会の指導者に向けられる。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になって命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつかずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。主イエスは「地獄(ゲヘナ)」という旧約聖書にはない死後の世界を語る。何とも異様な場面だ。犯罪や戦争の結果もたらされる災いより「小さな者の一人をつまずかせる」わざの方が重大な罪悪なのだ。それでは「小さな者の一人をつまずかせる」という重大な過ちと、わたしたちは袂を分かつことができるのか。
 それは無理なのだ。「人は皆、火で塩味をつけられる」。このような過ちは、そこに居直ることは赦されないが、さりとて避けることもまた実に難しい。この前提に立った上で「人は皆、火で塩味をつけられる」と記した後、次の言葉が続く。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか」。「塩はよいものである」とキリストは語る。この教えは分かりづらく、実に飛躍に満ちている。つまずきをもたらす者はゲヘナの炎に落ちるとしながら「人は皆、火で塩味をつけられ」、そして「塩は良いものである」と言葉が続くからである。何が言いたいのだろうかとわたしたちは困惑する。
 おそらく、神の前にあって、キリストを頭として仰ぐ一方で、人の交わりでもある教会は、あまりにも人間的な営みの中で人をつまずかせてしまうという危うさを絶えずはらんでいる。その深い反省があるのだろう。たとえ善意に端を発したとしても、人をつまずかせる過ちは、わたしたちにも確かに身に覚えがある。新しく教会を訪れた人を、わたしたちはどのように迎えているのか。
 パウロは本日の箇所で、誰が神の国につながる選びに属しているのかは、イスラエルの民にも隠されており、人の知るところではないと選びの秘義を語る。教会の働きは「これまで」と「今・この時」そして「これから」という時の中で進む一方で、天地創造と神の国が訪れとの時の間に起きる出会いに「わたしたち」が向き合う道筋を問う。その中間の時の中では、ゲヘナという言葉すら伴いながら誡めを受ける苦い失敗もある。けれどもその過ちは、それに気づきながら涙するわたしたちに、赦しを語りかけるキリストの励ましと決して無縁ではない。それは地の塩・世の光としての役目の発端ともなり得るからだ。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。教会が自らの過ちから目を背けることなく、祈りの中で胸に手を当てるならば、過ちでさえも宝となり、教会に繋がる交わりから恨みを消し去る神の平和をもたらす。その証しがわたしたちの役目だ。家庭や職場で人知れず証しを立てていく。喜びに満ちた光の道が敷かれている。