2018年7月8日
ローマの信徒への手紙9章14~18節
マルコによる福音書8章22節~26節
「新しい扉は生きづらさの中で開く」
稲山聖修牧師
救い主に期待されたわざとして、目を開く癒しがある。このような神の癒しを受けた者が全て喜びに満ちた暮しへと変えられたわけではない。目が開かれた結果、物語が予定調和のように完結する様子ばかりが、福音書に記されているわけではない。これは、わたしたちが忘れてはいけないメッセージである。本日の聖書の箇所で、見えない人が癒される場所は村の中ではなくて外であり、目が完全に癒されたこの人に「この村に入ってはならない」とイエス・キリストは警鐘を鳴らす。この記事はわたしたちに何を問いかけるのか。
実はこの物語の拡大版としても説き明かせる物語が『ヨハネによる福音書』に記されている。『ヨハネによる福音書』9章には、生まれながら視力を失っている物乞いと主イエスとの出会いが記される。弟子はこの物乞いを引き合いに出して「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」と問答を始める。この箇所はイエス・キリストが「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人を通して現れるためである」と語る有名な箇所ではある。しかしその後の顛末は実に複雑だ。「シロアム――『遣わされた者』の池に行って洗いなさい」との言葉通り、主イエスの唾でこねられ目に塗られた土を洗い、物乞いは見えるようになった。しかし人々は「目を癒されたこの人を知らない」と口々に語る。癒された物乞いも主イエスを直に見たわけではなく、主イエスを知らないという。この日はユダヤ教の安息日であった。このゆえに物語ではファリサイ派の人々が何が起きたのか調査をしに物乞いに対して詮議をする。この詮議では、この物乞いの両親まで呼び出されるが、両親は「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と突き放してしまう。その理由は「ユダヤ人たちを恐れていたからである」。『ヨハネによる福音書』ではイエス・キリストとの出会いと触れあいが、当事者には喜ばしい出来事をもたらしたとしても、その喜びはキリストとの出会いによって縁を絶たれはしないかという恐怖に圧し潰されてしまう。ファリサイ派の追及が続く中で物乞いは事実を淡々と述べ続ける。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。ファリサイ派の人々はその対応に立腹して彼を外に追い出した。
目が見えるとは、世の倣いに沈む人々が気づかないで済む事柄、見ないで済む事柄が見えてしまい、その結果として険しい道へと敢えて歩みだすことを厭わない姿勢をもたらす特質としても理解できる。「これまでしたことがない」という言葉が、何もしないことへの理由になるのではなく、キリストに開かれた展望を通して外へと一歩踏み出してチャレンジしていく契機となる道筋でもある。
聖書では、そのような、前へと進む原動力となる心のデリケートさや感じやすさを、決して病であるとは見なさない。むしろイエス・キリストに開かれた賜物としての眼力として意味づける。新しい扉は生きづらさの中で必ず開く。イエス・キリストがその扉をお開けくださるからだ。これは徹頭徹尾この世の話である。なぜなら、その扉はイエス・キリストを中心とする世の交わりへとつながっているからである。神の国の訪れはその交わりを完全なものにしてくださる。イエス・キリストは孤独や世から「病」と言われる中で苛まれるわたしたちに、そのように語りかけてくださる。