2024年12月31日火曜日

2025年 1月5日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「イエスの父ヨセフの背中」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2 章 19~23 節
(新共同訳 新約 3頁)

讃美=118, 122, 21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 人の子イエスの生涯、そして初代教会のあゆみの後をつかず離れず追いかけてくる一族がいます。それはクリスマスの物語に登場するヘロデ大王に始まるヘロデの息子、そして孫たちです。ヘロデ大王はすでにクリスマスの物語に嬰児虐殺という深い罪をわたしたちに突きつけてまいりますし、その息子ヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネのいのちを宴の席の露と消してまいります。それだけでなく、その孫たちは『使徒言行録』で度々使徒パウロの行く手を阻む輩として描かれてまいります。その極勢期がヘロデ大王の世でもありました。

 しかしこのような狡知に長けた者、謀に長けた者たちには届かないところから、天の御使いたちは人の子イエスの家族に知恵を授け、立ちあがるべきタイミングを伝えます。『マタイによる福音書』では、このタイミングを三人の博士やイエスの父ヨセフが素直に受け容れて、生きながらえるという場面が多いところに気づかされます。果たしてこの「主の天使」とは何者なのでしょうか。天使とは神ではありませんが、わたしたちのような人ではない姿で描かれる場合が多いところです。神でも救い主でもありませんが、神のメッセージを人々に告げ知らす天的な存在として描かれます。これは『旧約聖書』から連続する存在でもありますが、わたしはこのような存在が神の愛を全うしながら人知れず召された人々の記憶だと解釈したいのです。そうでなければ『マタイによる福音書』にアブラハムからイエスの父ヨセフにいたるまでの系図など記される必要はありませんし『ルカによる福音書』でイエスの母マリアがヨセフに依らずに身ごもった出来事を祝福するはずもありません。誰よりも救い主の訪れを待ち望んだ人々の刻んだ記憶と力が、時が満ちた場面にこそ響く御使いの報せとして記されたのだと考えます。

 そのような声に押されて、長年にわたってエジプトで避難民としての生活を続けていたイエスの父ヨセフとその家族でした。そのヨセフの夢にまた主の天使が現れて次のように告げます。「起きて、こどもとその母親と連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者どもは、死んでしまった」。ヨセフは起きて、幼子とその母を連れてイスラエルの地に帰ってきた、とあります。ヘロデ大王の治世がこうして終わりを告げました。猜疑心が強く自らの伴侶や息子まで殺害したとされるヘロデ王でしたが、人を愛することも信じることもなく生涯を全うした権力者の人生と引き換えにするように、イスラエルの地に神の希望の光が射してまいります。しかしその息子アルケラオもまた父ヘロデ大王の後継となったと知って、ガリラヤ地方に入ったと申します。実はこのアルケラオ、父ヘロデ大王にも増して暴君であったとのことでその報せがローマ帝国の知るところとなり罷免され、総督ピラトを代官とする直接統治にいたる顛末となります。この期間ヨセフは身を挺して家族にどのような時を分かちあったかと申しますと「ひきこもり」であります。「じっとして動かない」という解釈もできますが、更なる新しいステージを目指しての「備えの時」を家族は迎えます。

 このあたりのお話しは『ルカによる福音書』が詳しいのですが、重要なのは「ガリラヤ地方にひきこもった」というひと言で、人の子イエスの少年期を言い表しているというところです。しかもこの期間、誰がどのように人の子イエスを導いたかどうかについても描写しないところが他の福音書とは異なる味わいが出てまいります。

 子育てに携わる方々にはこの「ひきこもり」という言葉は決してプラスの意味では用いられません。しかしこの「ひきこもり」の時が「備えの時」として理解されるならば、その時々にあったはずの時代の常識や考えとは一線を画する個性の際立ちを育みます。譬え世の人々から否定的に見られようともその人はその人にしか出来ない賜物の中で育つことでしょうし、ましてや父親が今よりも「係累の神話」「家族の神話」の濃厚であった時代にあって伴侶マリアと息子イエスのためにすべてを献げた、息子とは血縁のないヨセフの姿が焼きつかないはずがありません。父ヨセフは本日の箇所を最後にして静かに福音書の舞台から姿を消していきます。

 思えばイエス・キリストは、人々から祈りの言葉を教えて欲しいと乞われたときに、神という言葉を用いませんでした。それは「主の祈り」に明らかですし、また後に自らの苦しみに思いを馳せ、ゲツセマネで祈りを献げた際にも「アッバ父よ」との祈りを忘れませんでした。「神の子イエス・キリスト」との称号の背景には、幼子イエスのために天の御使いの声に素直に従った父ヨセフの背中があったのではないでしょうか。そのような道ぞなえの役割を担いたいと願います。

2024年12月29日日曜日

2025年 1月1日(水祝) 元旦礼拝 説教

   ―元旦礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「初めに愛があった」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』1 章 1~5 節
(新共同訳 新約 163頁)

讃美= 21-260108, 21-262 98,21-24539

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
 聖日礼拝を担う身といたしましては、他の牧師の説教を聴き、わが身を顧みるという機会の少なさに茫然自失するときがあります。つまり神との関わりなしには独りよがりの態度をとったとて誰からも何を言われるでなし、そのまま徒に時を重ねてしまう危険と隣合わせである主なる神からのお役目だとも申せましょう。

 そのような中で今朝味わう『ヨハネによる福音書』の冒頭は、他の福音書のクリスマス物語とはひと味もふた味も異なる表現で、牧師や教会に連なる者、そして『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』のように物語化されていないという意味では世にあるすべての人に対しても神の御子の誕生とはどのような出来事なのかを問いかけてやみません。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。このような書き出しで始まりますと、なるほど『ヨハネによる福音書』は実に哲学的で、古代ギリシア思想と初代教会との衝突があったのだなあと考えてしまうのですが、わたしが尊敬する牧師によれば「言葉」を発するからには何らかの「思いがある」との指摘がありました。なるほどそのように味わいますとまた異なったイエス・キリストの誕生について、救い主がわたしたちのもとに訪れたその尊さについて感じ入るところがあります。つまりわたしたちは狭い意味でも、広い意味でも相手に自らの意志を伝えようとすれば何らかの意志表示をせずにはおれない、その場合には言葉が不可欠だという見落としがちな事実です。もし話し手や聴き手の高慢さがあれば意思疎通は実に難しくなります。

 分かりやすい判例としては『旧約聖書』のバベルの町の物語があります。『創世記』11章に記された物語では、東の方から移動してきた人々は「れんがを造り、それをよく焼こう」という、その時代には画期的な発明をしてのけます。自由にかたちを変えることができるだけでなく、焼くことによって強度が飛躍的に高まります。それだけではありません。「しっくいの代わりにアスファルトを用いる」というところから、防水性も充分考えた建築を可能としました。しかし問題は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」という動機、すなわち傲慢さがその願いに潜んでいるという闇でした。

 このため主なる神は人間の動機とは反対に「降ってきて」この町の様子を調べて、人々の言葉を「混乱させて」共同作業を出来ないようにしてしまいます。昔の映画のように多くの言葉ができたというよりも、お互いの高ぶり、高慢さの結果として意思疎通ができなくなってしまったとの、わたしたちの間にもありがちな問題の根をこのように指摘します。高慢さによって相手の話に耳を傾けなくなり、暴力や権力という力を頼みとして、今も多くの人々が傷つき、その果てには争いすら起きてしまうという有様です。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」というこの一行。神とともにある言というこの短い一行は、そのような破れを抱えたわたしたちが、再びどうにかして愛し合えないものかとの苦渋の決断を窺うことができます。神はわたしたちを天地創造の出来事以来愛してくださったからこその思いがあり、時を重ねるほどに互いを傷つけあう人間をそれでも大切に思ってくださったがゆえに、自らを見失ったわたしたちに語りかけてくださったのです。そのかけがえのない言葉こそがイエス・キリストなのだという理解です。

 「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内には命があった。命は人間を照らす光であった。光りは暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。万物は神の言葉によってできたが、その現状への何とも言えない心境を書き手は記しているようです。しかし神の言には神の思いが込められており、その言には世にある人の姿となりながら、神と人との交わりを今一度する瑞々しさがあり、死に打ち勝ついのちの力を十全に湛えているとの書き手の確信があります。それは神の愛のひと言につきます。

 イエス・キリストがどのような人々と食をともにし、イエス・キリストがどのような人々と出会い、イエス・キリストがどのように新しい交わりを育んでいったのか。飼葉桶に宿ったみどり児が成長し、救い主として働かれたそのあゆみを、わたしたちは各々の賜物に応じて辿ってまいりましょう。その道備えのあゆみこそが、新しい年の教会を育み、実りとなっていくものと確信します。わたしたちの幼さや頑なさなどすべて主なる神はご存じの上で、イエス・キリストを世に遣わされました。降誕節のただ中、注がれる日の光に感謝したいと思います。

2024年12月27日金曜日

2024年 12月29日(日) 礼拝 説教

―降誕節 第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「救い主は逃れの民の中に」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2 章 13~15 節
(新共同訳 新約  2頁)

讃美= 21-265(114),21-252(119),21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 『マタイによる福音書』に記されるクリスマス物語は、『ルカによる福音書』に記されるような祝祭的な雰囲気を必ずしも伴ってはおりません。福音書冒頭で記されるイエス・キリストにいたるまでの系図には、アブラハムから始まるイスラエルの民の系図に表現された歴史がいかに罪深いものであったかが記され、その歴史が記された後に、民の救い主として誕生する救い主の誕生が、聖霊によるものであり、同時に父ヨセフとは血縁としては関わりないものであることから深い不安に満ちたものとして記されます。しかし夢の中に現れた御使いのメッセージによってヨセフは奮い立ち、改めてマリアを伴侶として迎え入れる様子が描かれます。

 さらには輝く星に導かれて東の方から訪れた占星術の三人の博士たちがエルサレムで発した「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」との問いかけは、ローマ帝国を後ろ盾としたヘロデ大王、そして王宮に連なっていたであろう富裕層の人々に希望の光を灯すどころか、深い不安によって揺り動かします。大王は深い不安の中で三人の博士をベツレヘムまで送り出させ、その報せを聞き出そうとしますが御使いの言葉が博士の行方を遮り、別の新しい道を拓いて故郷に戻ることとなりました。さらに主の御使いは人の子イエスの父ヨセフにも臨み「エジプトに逃れよ、そしてわたしが告げるまで、そこに留まれ」と寄留者としてエジプトに留まるよう告げます。ヨセフはその言葉が何事なのかと戸惑うほかなかったでしょうが、これまでその言葉を尊んできた人でもありましたから、敢えて寄留者、すなわち逃れの民でもあり、現代の言葉で言えば難民としてベツレヘムからの脱出に成功します。間一髪で脱出に成功したヨセフとマリアでしたが、故郷では悲劇的な虐殺行為が行われました。人の頼る権力のもつ暴力性が浮き彫りにされるだけでなく、救い主の誕生と並行して福音書で描かれることで、公文書では恐らくは隠蔽されたで在ろうこの野蛮な行為が白日のもとさらけ出されました。こどもたちには母親がおり、父親がいたはずで、だからこそ福音書の書き手は『エレミヤ書』を初めとした預言者の書を逐一引用しては、人の子イエスの誕生の陰の悲しみが、やがてイエス・キリストの十字架での苦難と死によって分かち合われ、復活の日を待ち望むとのあり方に転換されていく様を隠すことなく書き記します。

 さてエジプトに逃れたイエスとマリアはその場でどのように暮らしたというのでしょうか。当時のエジプトはローマ帝国領ではありましたが、住民登録を行ったベツレヘムとは遠く離れています。ましてやヨセフとマリアは立場としては恵まれたローマ帝国の市民ではなく、あくまでも自己申告こそあれ、身分証明のない難民として扱われたことでしょう。おそらくヨセフの就労先と申しても身体を酷使する労役から始まり、時として言葉の通じない世界で汗を流し、そしてようやく、後のナザレでは「大工」と見なされる技術と職能を身につけて家族を養ったのではないでしょうか。

 インバウンド経済に対する反発、オーバーツーリズムに対する反発、また犯罪歴のない、日本語学校の成績ではA1クラスの就労者でさえ苦労の多い現代におきまして、わたしたちがヘロデ大王の追っ手から逃れてきたような人々の暮らしを理解するのは、当教会の設立者の生涯から申しましても当然の態度です。土山牧羔先生が留学された時分には排日移民法の果てに真珠湾攻撃が起きて太平洋戦争が勃発し、アメリカ合衆国西海岸に暮らす日系人はマンザナールを初めとした強制収容所に送られていきました。ドイツ系やイタリア系の移民にはなされなかった対応であったと申します。そのような中で若き日の牧羔牧師は合衆国東海岸部に留学されていたことから辛うじて難を逃れましたが、プリンストン大学のキャンパス外では中国人を名乗り災難を回避しながら、収容された日系人との面会や連絡を絶つことはなかったとのことです。その中で己のあり方をエジプトに逃れたあの家族に重ねて、エジプトでの苦難とアメリカ合衆国での苦難を重ね祈り励んだ月日を過ごしたに違いありません。

 2024年の世界を顧みるに、各地で絶えない争いや政変があり、その度ごとに地域の常識が変わり果て、こどもたちが食に事欠くというイエス誕生の時代から変わらない問題が解決されないまま放置されています。そのような流れを前にしてイエスの父ヨセフは傷つき、汗を流しながら家族を支えてまいります。神と家族の前に誠実な姿のモデルが、人の子イエスとは直接血が繋がらないとされるヨセフに映し出されはしないでしょうか。わたしたちは年の瀬を迎えます。そこには課題を抱えながらも温かな家族や親族がいることでしょう。もし「そうではない」と仰せになる方がいるならば、エジプトで家族を支えるヨセフを思い出していただきたく願います。

2024年12月18日水曜日

2024年 12月22日(日) 礼拝 説教

   ―待降節 第4主日礼拝―

――クリスマス礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「クリスマスのよろこび」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』1章18~25節
(新共同訳 新約  1 頁)

讃美= 99,106,103,讃美ファイル 3,21-28(545).
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【説教要旨】
  わたしたちの住まう地であるこの国に、教会の建設が公に承認されたのは明治6年、1873年だと申します。当時は大日本帝国その姿はどこにもない、明治太政官新政府による近代化を急ぐ中、国際社会への仲間入りを望んでの政治的判断でした。それまで様々な弾圧があっても屈しなかったローマ・カトリックのいわゆる「切支丹」と呼ばれた方々には朗報でした。また貧しさ原因は努力不足にあるという自己責任論が当たり前だった時代に、貧民窟と揶揄された地域には新たに教会や様々な福祉施設が設立されていきます。宣教師は出身国のキリスト教の問題を知っていましたから、志を高く抱き、自分たちが本国ではなし得なかった開拓伝道の地として日本を訪れました。福祉の世界では身を削るようにして周囲から散財だとして誹謗されても、自宅を開放して孤児や貧しく病んでいる人々に仕える人々が登場するという新しい時代が訪れました。もちろん、現代の常識からすればまだまだ種々の問題があったとはいえ、であります。

 ところで『マタイによる福音書』では、クリスマス物語が『ルカによる福音書』とは異なる調子で描かれるところにお気づきでしょうか。表向きには『ルカによる福音書』は「ローマ帝国とは異なる、神の愛の支配による救い主の教え」、『マタイによる福音書』では「古代ユダヤ教の世界に向けた宣教のわざ」という色合いが強調される機会がありますが、とくに『マタイによる福音書』では実のところ救い主の誕生をめぐる人間の葛藤の描写、それも普段は目にしない社会や人心の揺れ動きの描写に長けています。例えば救い主の誕生の箇所をめぐっては、マリアの救い主の懐胎が「聖霊による身ごもり」として一行で記され、旅の困難さやマリアをめぐる親族の物語には触れられません。その一方で、ヨセフの苦悩、則ち妊娠が明らかになった場合、マリアが晒し者にされて石打の刑に処せられるという恐怖の中で悶々とする様子が描かれ、マリアのいのちを守るそのために離縁を決意するという覚悟にまでいたる様子が描かれます。しかしその苦悩にあって見た夢の中で父ヨセフは主の天使のメッセージを授かり、厳粛な事実を受け容れ、『聖書』の約束が徐々に完成されていくという筋立てになります。さらにエルサレムの人々にあっては、ヘロデ王始めエルサレムの人々は東方の三博士の訪問に「不安を抱いた」と記され、ヘロデ大王にいたってはその王権を否定された怒りの中で不安のもとを絶とうとベツレヘムで虐殺行為にまで及び、間一髪でみどり児とマリア、そしてヨセフはエジプトへ逃れるという鳥肌もののお話が描かれます。ローマ帝国の皇帝を凌ぐ権能を与えられた救い主が、皇帝からすれば数のうちに入らない人々とその誕生の時からともにいたとの物語とは明らかに異なるのです。

 わたしたちがまだ聞かない重要なメッセージがあるとすれば、主なる神は人間の裏も表もご存じであり、そのただ中に救い主を授けたときに全てが明らかになるという出来事が示されていると思うのです。つまり救い主イエス・キリストの誕生によってそれまで当然とされていた権力や社会の常識が大地震のように揺り動かされながらも、名もない人々には必ず逃れの道が備えられ、それは『旧約聖書』にある約束の完成でもあるとの理解です。

  コロナ禍から五年を経た今、明治維新の時代のように世の中は大きく揺れ動いています。SNSで地球上のすべてが繋がったかのように思われた一方で、戦争や難民の人々に対する偏見が増し加わる時代。弱者叩きが当たり前のように思われる今、すべてを神の前に開き、その上で神の愛がそそがれるという、いのちといのちのつながりの育みが新しく生まれようとしています。わたしたちはその芽生えを飼葉桶に眠るイエス・キリストの誕生から気づかされ、新しい年への備えを始める勇気を主なる神から授かります。クリスマスおめでとうございます。



2024年12月21日(土) 夜 クリスマスイヴ燭火礼拝 説教

ークリスマスイヴ燭火礼拝ー

時間:午後7時30分~


 

説教=「天使の観た世界とは」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2章 1~12節

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 クリスマスは12月25日、クリスマスイヴは12月24日と倣いが決まっているもの、つまり固定聖日であるとの認識に基づいて、これまでの日本ではクリスマスがお祝いされました。しかし最近では他宗教への配慮という観点から「メリークリスマス」ではなく「ハッピーホリデー」との呼び方もされます。とはいえ日本でキリスト教はファッションとして、商業化された祝祭としての理解が殆ど。思えばムスリームやムスリーマへの偏見と差別も目立つようになりました。それだけに、教会のようにあえて日曜日、則ち聖日をクリスマス礼拝に指定する態度もひとつの表明かと考えます。むしろその方が大勢の人々が寝泊まりした宿屋からは相手にされなかった父ヨセフと母マリアの見守る中で、飼葉桶に安らうみどり児イエスの誕生を祝うには相応しいかもしれません。
 さて本日の週報をご覧になりますと、クリスマスに因んだ讃美歌が列挙されています。その中でこれまでの日本のクリスマスの讃美歌の倣いからは違和感を覚える歌はないでしょうか。そう、頌栄の「主よ、おいでください」と訳された讃美歌がそれです。『讃美歌21』には「アフリカ民謡」と記されます。しかしこれはアフリカ民謡ではありません。アフリカから北米大陸へと連れてこられたアフロ・アメリカン、黒人奴隷を先祖にもつアメリカ人が、祖母や祖父の代から大切してきた部族の歌、日本でいう民謡に己の生活状況を重ねて歌い継がれてきた讃美歌です。歌詞には今のところ四つの版があるそうですが「泣いている人がいます(Someone’s crying, my Lord, kumbay ya)」という歌詞を「嘆きを聞いてください、クンバーヤー(Hear me crying my Lord, kumbay ya)」とする版もあり、この訳ですと救い主を待ち望むという気持ちがより切実になります。また二つの歌詞を並べますと、悲しみに打ちひしがれている人と、その人に寄り添おうとする人との関係を歌う内容にもなります。クンバーヤーは「こちらに来てください」の意味で、歌う人々のキリストの訪れを待ち望む切々たる叫びです。キリストの救いを願い歌う讃美歌であり、飼葉桶のキリストを訪ねた人々を包むメロディーでもあり、今、人生の行方を前に途方に暮れている方々を包む歌声だとも言えます。

 「本当のクリスマスをあなたに」という種々のポスターを見かける季節でもありますが、本当のクリスマスとはいったい何でしょうか。それは「誰とともにいるのか」という問いかけに決してたじろがないクリスマスを指すのではないでしょうか。『聖書』のクリスマス物語に描かれる天使そのものは、神ではなく、人でもなく、救い主でもありません。けれども今なおわたしたちを見つめ、世の常識からすれば出会うことのなかった人々をイエス・キリストのもとに招き、勇気づけ、冷たい夜に熱い神の愛をそそぎ、明日への希望を告げ知らせた声ではなかったかと思います。イエス・キリストを通して、その声は今も人々に向けて主イエス・キリストの誕生を呼びかけています。

2024年12月11日水曜日

2024年 12月15日(日) 礼拝 説教

  ―待降節 第3主日礼拝―

――アドベント第3主日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 
説教=「牢獄から届くクリスマスの讃美の声」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』11 章2~9 節
(新共同訳 新約  19 頁)

讃美= 21-242,Ⅱ49,21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 牧師である以上、刑務所伝道とは無縁ではおれません。けれども刑務所内の懲役刑に服する人々との接見を赦されたり、宗教的な講話を行う「教誨師」という役職は法務省から委託されたりするものであり、自ら名乗りあげるわけにもまいりません。服役囚にはそれぞれの宗教サークルに属する自由があり、ある者は刑務官の監視のもとクリスマスを祝い、または経典の意味を僧侶に解説していただく機会が、他の労務に較べて緩やかに持たれていることは存じています。釈放されても前科のある者として過酷な前途が待つ人々が自暴自棄にならないためにはぜひとも欠かせないプログラムであろうかと考えます。

 しかし最近は「無敵の人」と呼ばれる人が刃傷沙汰を起こして収監されるケースが増えてきたと申します。一般社会の暮らしに絶望した人が刑務所に入りたいがために事件を起こし、その生活の中で安らぎを得るというものです。「刑務所は衣食住があたりまえであり、友人も仕事も娯楽も全て用意してもらえる。社会ではこれらを得るために努力しないといけないのだ。ところが刑務所は努力しなくてもよい。社会にいる時にあれだけほしかった食べ物、どうしても得ることができなかった食べ物が、ここでは食べないと食べてくださいとお願いされる。―略―仮釈放は怖い。もう二度とシャバ(社会)には出たくない」。虐待を受けるばかりの幼いころ、身内や知り合いの家を転々としたころ、ホームレス同然の暮らしを経た彼には失うものは何もありません。いずれは自分がどのような大ごとをしでかしたのかも忘れていく日々。新幹線の中で刃を振るった青年には、実質的な意味での無期懲役という量刑は意味をもちません。「無敵の人」則ち何も失うものがないとの絶望は人をかくまで追い詰めます。このような苦しみ喘ぐ人々の社会復帰には従来の自己責任論とは別の手立てが求められています。

 しかし洗礼者ヨハネは、そのような「無敵の人」ではありませんでした。失うものが何もないからこそ、その時代の古代ユダヤ教の権力者を批判したわけではありませんでした。洗礼者ヨハネには何もなかったのではなく、救い主が必ず訪れるとの確信がありました。『聖書』を神の言葉として受け容れる人にはそれが根拠になりましたし、侮る人々には故無き信仰からの言葉として響いたかも知れません。けれども洗礼者ヨハネは神の言葉にすべてを献げ、メッセージを語り続けました。そして彼は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスによって囚われの身になったのでした。彼にとっての牢とは、救い主の希望を待ち望むという祈りの場でした。しかし救い主が誰であるかに関しては覚束ないところあり、人の子イエスのわざを聞くに及んで弟子を遣わし尋ねます。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、別の方を待たねばなりませんか」。「別の方を待たねばなりませんか」との言葉には、ヨハネの期待と不安が入り交じっています。それでこそ、純然たる神の希望を授かる側の、破れに満ちた心根の正直な告白です。弟子に託したこの言葉に、人の子イエスは自らの行いを淡々と語った後、「わたしに躓かない者は幸いである」と語ります。人の子イエスが淡々と語ったその内容は、本来であれば「無敵の人」を自称する者を慄かせ、別の道を備えるにあたり充分な証しとなっています。洗礼者ヨハネの弟子が帰ると、人の子イエスは語り始めます。「あなたがたは、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。いや、預言者以上の者である」。人の子イエスが、ヨハネを「預言者以上の者である」と民衆に語ったのは、人として世に現れた救い主イエス・キリストと直に関わり、直に清めの洗礼を授けたからに相違ありません。この話の延長線上で「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」との教えが記されます。

 ベツレヘムでマリアとヨセフが探し求めた宿屋。宿屋は街道沿いの道に面して建てられた旅人が身を寄せた場所です。往々にしてそのような宿屋は、異邦人や古代ユダヤ教の戒律とは縁の無い渡世人が身を寄せた場所であったかも知れません。その場にさえマリアが救い主を出産する場所はありませんでした。しかしだからといって、二人はボニーとクライドのような「無敵の人」にはなれませんでした。二人の授かったみどり児が救い主であり、「無敵の人」を「神を畏れる人」に転換する力を授かり、全ての人を囚われの身から解放するキリストであったことに、洗礼者ヨハネの声は見事に届きました。それはクリスマスの讃美の声へとつながっていきます。

2024年12月5日木曜日

2024年 12月8日(日) 礼拝 説教

  ―待降節 第2主日礼拝―

――アドベント第2主日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「みどり児はキリストとして生まれた」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13章 53~58 節
(新共同訳 新約  27 頁)

讃美= 96,Ⅱ 119,21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 少しずつ歳末を迎えて、シャッター街が増えたと言われる現在でも、人通りの多い商店街はまだまだ健在です。改正道路交通法など気にせず、荷物を自転車に満載して行き交う人々の姿は今でも大阪の下町では健在です。物価が高くなるほど人々は少しでも安いものをとチラシを手にして買い出しに走ります。その慌ただしさはニュータウンの比ではないように思います。
 そのような時に教会のクリスマス関連のトラクトを配る人がいます。その多くが捨てられていきます。それでも人の波の潮目を見極めながら、家族連れやご高齢の方々に笑顔で接する人々は、虎視眈々と安売りの商品を買い求める群れとは異なる表情をしています。日々の暮らしに汲々としている人には分かりませんが、それでも分かる人には分かるという具合です。とは言え、イエス・キリストはどのような人のために生まれたかと申しあげれば、笑顔でトラクトを受けとる人だけでなく、暮らしに汲々としている人々のためにでもあります。
 それでは人の子イエスが譬えをもって教えを語った後に向かったナザレの村人はどのような人々だったのでしょうか。それは言わずもがな日々の暮らしに窮し、その暮らしに追われる他に道がなかったに違いありません。人の子イエスはその時代のユダヤ教の律法学者ではなく、言わんや牧師でも神父でもありません。人の子イエスもまたナザレの村では本来は大工という家業を継ぐべき若者であり、だからこそ次のように会堂で教えている人の子イエスの様子を見て語ります。「この人は、このような知恵とこの奇跡をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹達は皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」。
 暮らしに追われるナザレの村人の目に、人の子イエスがこのようにしか映らなかったとしても無理はなかったことでしょう。村人のこの言葉からは人の子イエスの家族構成こそ分かるものの、「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」という使徒パウロの言葉さえ響くかどうか考えるところです。しかし、それでこそ救い主が人の姿を見にまとって世に現れたという言葉がわたしたちに迫るのではないでしょうか。
 『ルカによる福音書』でイエスの母マリアと父ヨセフは徴税のための「住民登録」のために皇帝アウグストゥスの命令で、このナザレという村から故郷ベツレヘムへの旅を強要されました。皇帝の命令に無理強いされた旅人の群れに夫婦は身を置くほかありませんでした。そしていのちを身に宿したままの旅という危なさを経ながらも、この若い夫婦を迎え入れるはずの人々は故郷にはおりませんでした。どの宿屋からも客としてもてなしを受けず、親戚を頼るわけにもまいりませんでした。その中で飼い葉桶を初めての居場所としたのが人の子イエスだったのです。「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」という言葉に、今や神の愛の力が注がれます。使徒パウロは人の子としてのイエスとの出会いはなかったと言われています。しかし生活に汲々としながらもイエスを救い主だと仰ぐ人々を律法学者として弾圧しながらも、その後キリスト者とされた折に、人の子イエスの人物やイエスの起こした愛のわざ、そしてその教えとその生涯を他の弟子だけでなく、人の子イエスを知る多くの人々からその様子を聞いたとも言われています。人の子イエスと救い主イエス・キリストは決して分離はされません。
 わたしたちが世の事々、しかも多くが目を覆いたくなるような事々に気をとられたり、家族の不幸に身を置くほか術が無かったりしたときに「神さまあなたはどこにいるのですか」と涙ながらに嘆くほかない場合があります。また世の不正を糾すため懸命になってはみたものの、心身疲れ果てるばかりでなく、心すら病む場合もあります。家財を失ったときも同じです。そのようなときにこそ、飼い葉桶の中に横たわるみどり児が何者であるのかと問うてみてはいかがでしょうか。問いかけるうちに、そのみどり児がイエス・キリストであるとの確信を授かるはずではないでしょうか。飼い葉桶にみどり児を授かるとは、イエス・キリストを授かることに他なりません。この神の愛に裏づけられた出来事こそが、いかなる困難にも、いかなる悲しみにも、いかなる嘘偽りにも勝利するための足場となります。みどり児はキリストとしてお生まれになりました。誰からの苦言も疑問も遠ざける信実を、わたしたちはすでに授かりつつ、その日を待ち続けるのです。

2024年11月28日木曜日

2024年 12月1日(日) 礼拝 説教

  ―待降節 第1主日礼拝―

――アドベント第1主日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 
説教=「目覚めの時が来た」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』 24 章 36~44 節
(新共同訳 新約 48頁)

讃美= 94,Ⅱ 112,21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 人という生き物にある、他の動物にはない特徴の一つとして環境への適応力があります。確かに北極海と隣り合わせで凍った生肉を口にして初めてビタミンを得られるような環境にいても、赤道を跨ぐアマゾンにも、太陽があるときには70度、冬期は氷点下という砂漠地帯にも、漁獲量に頼って生きていくような地域でも、標高5000メートルの山岳地帯にも、そして道路がことごとくコンクリートに覆われ、高層ビルの一室でモニターディスプレイを見つめながら仕事をしなくてはならない環境でも、生きようとすれば人間は生きていくことができます。

  しかしこれは反面、その環境に他の動物よりも巧妙に「慣れる」技術があるという特性が発達しているだけで、それが正しいのかどうかというとそれは別の問題です。古代イスラエルの民はエジプトの王ファラオのもとで奴隷として人としての生き方を踏みにじられていましたが、その生き方に次第に慣れていった挙句、奴隷解放の神に導かれたモーセに幾度も反逆をいたします。それどころか奴隷生活のころがよかったと懐かしみもいたします。そのような人間の歪んだ一面を美化せずに生々しく描くのもまた『旧約聖書』の特徴です。

 それでは救い主イエスが世に誕生したときの人々の暮らしはどのようなものであったというのでしょうか。奇しくもそれは、紀元前にも、現代にいたるまでの紀元後の世界にも見られなかった地中海を囲む統一帝国が確立した時期と重なります。かつてのローマという小さな国が戦争に戦争を重ねて国を大きくさせ、人々を権力によって平定し平和を得るという一大事、その長たる者が「皇帝」を名乗る最初期にあたります。争いが続くよりは平和が維持されるほうが民の暮らしには確かによいには決まっていますが、それは何層にも重なる差別と、いのちのクラス分けによって成り立っていました。ローマ帝国の市民のいのちは属州の人々のいのちよりも重いという不条理、自由人のいのちは奴隷よりも重いという不条理。それがまかり通っていました。

 ことがいのちに及ぶにいたって、人々はようやくまどろみから目を覚まします。しかし問題はその覚まし方です。ローマ帝国による支配の時代に起きた反乱は、さしあたり数々の奴隷反乱としておきました。しかしそれはいつの間にか、剣闘士の死闘としてショービジネス化されることで見事にローマ帝国市民の娯楽になってしまいます。『使徒言行録』には、使徒パウロの師ガマリエルの口を通し使徒の働きに関して次のように語られ、その言葉が記されます。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数400人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされた。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申しあげたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、滅ぼすことはできない」。つまり、イエスがお生まれになったタイミングとはそれまでのローマの支配のあり方が大きく変わり、前にもまして民への支配が巧妙になった時であると言えます。だから人々はどうすれば分かりません。暴力による反乱がよいのか、それとも傍観を決め込むのがよいのか、それすらも知りません。おそらくは自らの仕事で汲々とするので精一杯であったことでしょう。ちょうど今のわたしたちのように。

 しかしイエス・キリストは本日の箇所で次のように語ります。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。

 泥棒とは明らかに犯罪者のことです。しかし家の主人が目を覚ましていたのであれば泥棒はその行為をなし得ません。ですから泥棒とはならないのです。この時代、泥棒や強盗と呼ばれる人々は物盗り以外には政治犯も含まれていました。そのように目を覚ましていたのが結果として聖霊によるみどり児の宿りを受け容れた母マリアであり、マリアの寝泊まりする場所を整え、ヘロデ大王を始めとする一族の魔の手から幼子を守り続けた父ヨセフであり、天使の声を確実に聞き取った羊飼い、そして三博士でした。誰も当時のいのちのランクからすれば底辺か門外漢の人々です。その底辺のいのちが救い主とともにあり、世の武力を凌ぐ天の大軍によって守られています。神の前にすべてのいのちが祝福されるという出来事がイエス・キリストの誕生を通して起きたのです。

2024年11月21日木曜日

2024年 11月24日(日) 礼拝 説教

   ―降誕前 第5主日礼拝―

――収穫感謝日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 
説教=「誰もが和解する実り」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』 25章31~40 節
(新共同訳 新約 50頁)

讃美= 21-530,506,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 路線バスに乗り、車窓に映る刈り入れの終った農地をぼんやり眺めておりますと突然「死後裁きに遭う」というような黒地に黄色のブリキの看板にどきっとさせられることがあります。『新約聖書』にも時々死後の世界を題材にした譬え話が描かれます。ですから「『聖書』では死後の世界はどのように描かれているのですか」「『亡くなった人は天国に行く人と地獄に行く人がいるのでしょう。神さまを信じていない人はみんな地獄行きなのですか』」と問われて戸惑う場面にも遭いました。

 しかし不思議なことに、人の子イエスが歩んだ古代ユダヤ教の世界では、わたしたちが考えるような「地獄」には関心が置かれません。生前どのような人生をたどった人も、その人生を全うすれば陰府(よみ)に降り、そこで眠りに就き、神の国の訪れとともに復活するという理解に立ちます。ですので、生前の生き方の報いを死後に受けるという意識は希薄で、すべてが世にあって救いも報いも味わう物語の展開になっている場合が殆どです。

 それではなぜ『福音書』の物語で神の国が天国として描かれたり、貧しい人々に無関心な人々が地獄に落ちたりするのでしょうか。それは『新約聖書』が古代のギリシア語で記されたからだと言われています。古代ギリシアの哲学や神話はその時代には教会の教えよりも広く影響力を保っており、場合によれば仏教との接点すら見いだせるとの指摘もあります。しかし何をもって善となし、何をもって悪となすかという問題についてはわたしたちが破れを覚える身である以上、まさしくこれだと印籠のように人前にかざせないところです。仮にそのように分かりやすいのであれば、わたしたちはこれほど世の中で悩んだり苦労したりはしないというものです。

 先日の日曜日、何度もみなさまにお伝えしているところの矢島祥子さんのご逝去15年記念会が行われ、わたしもご遺族からお招きを受けて出席しました。群馬大学医学部から沖縄県で研修医時代を過ごし、淀川キリスト教病院での勤務を経てあいりん地区の地域医療に心血を注がれましたが、34歳で何者かに拉致され殺害されました。しかし司法解剖とは裏腹に警察は見込で自死と判断し、それまで活動をともにしてきた人々は祥子さんの働きを否認しました。残念ですが本田哲郎神父でさえそのような立場を表明されたと申します。その背後にはわたしたちには触れられない貧困ビジネスの闇と、ジェントリフィケーションとも呼ばれる西成特区構想があります。次々と地域の労働者の支援団体がNPO法人化された結果、軽々に行政を批判できなくなりました。現在、あいりん地区へ行けばもともとは労働者の糧であったビールやホルモンが星野リゾートやあべのハルカスでは、まるでイギリスのパブで注文されるペールエールとチーズのように洗練されて配膳されます。その陰でかつて体力のある時には日雇いとして働いていた人々、または一目でホームレスと分かる姿の人々は姿を消し、貧困の問題が煌びやかな飾りのもと見えなくされる道を辿っています。そのような中で15年を経た今もなお「さっちゃん先生」という一粒の麦は忘れられ放置されていくのでしょうか。

 『旧約聖書』との関わりの中で『新約聖書』を読み直し、死後の世界の物語をこの世の物語であると幾度も解釈し直しますと、決して神の愛の名のもとで大地を耕していった人々は、その人自らが気づかなくても、主なる神からその働きをねぎらわれているのではないかと思うのです。そしてわたしたちが逆にその人は悪の権化であったというような歴史上の人物でさえも、神の愛の力の前には決して打ち勝つことができないのだと理解できます。ヒトラーは神の審判を受けて地獄に行ったのかと問われれば、わたしは分からないと答えます。ヒトラーが歴史に現れなかったとしてもヒトラー的な人物があの時代に現れ暴君として働いたのは想像に難くないからです。ヒトラーの死後を論じるよりも、あなたがたはどうするのかと『聖書』はわたしたちに問いかけているように思えてなりません。『旧約聖書』の書き手集団が死後の世界を描かなかったかと言えば、そのような夢想に立ち止まる暇はなく、ひたすら神の国の訪れに関心を置いて祈り続けていたというに尽きます。世の邪悪さと決して土俵をともにしない生き方がわたしたちの前に備えられています。「さっちゃん先生」を始め、触れるに憚られる「義に飢え渇く人」はそこに、神の国に名前が刻まれているのではないでしょうか。
「使徒信条」にキリストの陰府降りが記されるように、豊かな恵みは大地に深く根を張って初めて授かるものです。早とちりしながら、遠回りしながらでも、わたしたちは神の愛の土俵とその畑を尊びたいと願います。わたしたちはその涙ともに、しかし喜びつつ畑を耕し、豊かな恵みを授かり、その実り一粒ひとつぶに感謝を献げてまいりましょう。



2024年11月14日木曜日

2024年 11月17日(日) 礼拝 説教

  ―降誕前 第6主日礼拝―

――謝恩日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 

説教=「穏やかでない相手とともに暮らすには」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5 章 38~48 節
(新共同訳 新約 8頁)

讃美= 21-43-3,Ⅱ 41,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 泉北一号線、また泉北高速鉄道のレールの近くに暮らしておりますと、始発電車の音が目覚ましとなるときがあります。光明池駅の始発電車は5時9分。ダイヤこそ違いましたが、かつてはこの便を用いたこともあります。

 安心するのは始発電車として泉北高速鉄道は実に静かなことです。乗客も身支度を調えておられる方々ばかりで気持ちも引き締まります。なぜこのようなことをお話しするかと申しますと、始発駅によっては車両内がかなり常識を越えてしまう場合があるからです。時に起きる車内トラブル。そのあり方も西日本と東日本とでは温度差があります。さしあたり罵声が飛び交うのが近畿界隈。しかしその大声を言い換えますと「わたしの近くによらないでください。意見はありますか」とも聞こえなくはありません。その場合は他の車両に乗り換えます。

 いずれにしても一日の始まりは人情としては穏やかにしていたいのが本音です。ですからなおのことトラブルの元凶とされる人々の心には大きな不安や心配や悲しみが宿っているようにも思います。「他にどうすればよいのだ」との叫びが沈黙の車両には響きます。

 本日の『聖書』の箇所は、平和を目指す偉大な事業を成し遂げた人々や、大規模な争いや災厄を経ながらその中で優しさや良心を失わなかった人々が愛した聖句としても知られていますが、あまり高嶺の花咲くところばかりで響くようですとわたしたちに縁遠いようにも思えてしまいます。けれども人の子イエスが語りかけた相手が名も無く、個々の交わりの希薄な「群衆」であったり、その群れから導かれた弟子であったりすることを踏まえますと、通俗的な場面にあっても人を導く力を失わないと考えます。本日の箇所で人の子イエスは『目には目、歯には歯』という、『ハンムラビ法典』の「同害復讐法」を乗り越えるあり方として「復讐の禁止」を訴えます。本来はこの「同害復讐法」にはおはぎ一つ盗んだ過ちで、幼子が大人の私刑によって殺害されてしまうような状況を回避するために編み出されたはずなのですが、時を経るに従って、果てしない憎しみの連鎖として理解されるにいたってしまいました。むしろ本来は、もともと対立関係や憎悪の関係にある二者間が、憎しみの土俵に立たずに、食事に飢えた幼子がのけ者にされないためにどうすればよいのかとともに智恵を絞る協力関係に立つための示唆であったはずです。誰も好き好んで泥棒や強盗になりたいとは思わないはずです。

 それは次の「敵を愛しなさい」との教えにも通底しています。「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」とあります。共同体の結束力を強めるために、敢えて外部なり内部に排除すべき「異なる者」を設け、共同体の繋がりを緊密にする手口は、古代ローマ帝国に限らず、現在のわたしたちの間でも見出せます。その「異なる者」の象徴として本日の箇所では「徴税人」との言葉が見いだせます。人の子イエスは徴税人の存在を当時のユダヤ社会の「分断統治」の典型として理解していた模様です。しかしこの徴税人を憎悪したところで人は憎しみからは決して解放されません。好感を得られる人と時と場所をともにするのは誰にでもできます。けれどもかつて、年老いた牧師が和やかな雰囲気の中、敢えて「教会は仲良しサークルではない」と懸命に語った背景には、イエス・キリストが愛した愛の土台に立ちなさいとの強い思いがあったのではないでしょうか。

 今、世の中は分断を叫ぶ声が強まりつつあるところに立っています。家族の中にもそのような分断が頭をもたげる場面があるかもしれません。けれどもその時こそがキリスト者の正念場です。何度も負の気持ちに溺れる中で、いつもわたしたちに必ず差し伸べられるのがイエス・キリストが堅く握る「いのち綱」です。もし今、わたしたちが深い憎悪に囚われていたとすれば、キリストを通して神にその憎しみを敢えてぶつけていく道もあるでしょう。十字架を通して神と繋がる憎しみは、やがて時が経つほどに全く別の、全く異質の尊いものへと変えられていきます。憎しみはわたしたちのすべてではありません。そのことをわたしたちは敵を愛する生き方から教わります。光は闇に勝利し、愛は憎しみを必ず克服します。わたしたちはこの実に単純な教えを、高嶺の花ばかりからだけでなく、足下に咲く野の花の彩りからも気づかされます。イエス・キリストの愛を心に宿しましょう。

2024年11月7日木曜日

2024年 11月10日(日) 礼拝 説教

―降誕前 第7主日礼拝―
――幼児祝福式礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 

説教=「神の祝福につつまれるこどもたち」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章 13 ~ 16 節
(新共同訳 新約 81頁)

讃美= 21-57,461,讃美ファイル 9,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 「モブキャラ」という言葉があります。それは漫画やアニメーション、映画、コンピューターゲームなどに登場する、個々の名前が明かされない群衆を指します。演劇やミュージカルで同じような役割で登場するのは「アンサンブルキャスト」、映画では「エキストラ」と呼ばれます。演劇や映画でのキャストやエキストラの場合、指導の細やかな映画監督は「群衆一人ひとりにも表情があるのだから」とキャストにもエキストラにも演技を要求しますが、漫画やアニメ、ゲームの場合ではそのようには描かれないのが殆どです。

 それでは本日の『聖書』の箇所に描かれる、人の子イエスに触れていただくために、人々が連れてきたこどもたちとは、単に人の子イエスが神の子であると示すために描かれたモブキャラなのでしょうか。「連れてきた人々」も「連れられてきたこどもたち」もイエス・キリストと弟子のやりとりを際立たせるためのモブキャラではなさそうだという見地からいたしますと、興味深い発見があります。「人々」と示される人の群れも、「こどもたち」として表現される幼子たちも、それぞれの名前や生い立ちがあったはずです。しかし「人々」と「こどもたち」の間に血のつながりがあったかというと必ずしも書き手は記しません。ただし、人々と連れてこられたこどもたちの間には何らかのつながり、愛情があったことや、「人々」と呼ばれる大人には、ふと思い立ってこどもたちを人の子イエスのもとに連れてきた者もいれば、熟慮の末、悩んだ末にキリスト(救い主)と人々が噂するイエスのもとにこどもたちを連れてきた可能性があります。

 そのような思い詰めた顔もある大人を弟子は大勢の前で叱った、または面罵したのですから、弟子には許容できない振る舞いがあったのかもしれません。面罵とは尋常な対応ではありません。集まったのはどのようなこどもたちだったのでしょうか。その際、人の子イエスの時代、この福音書が記された背景には、現在のわたしたちには想像できない生活格差が横たわっていたとの事情を顧みますと一つの光景が瞼に浮かびます。

 現在、アフリカ大陸にはナイジェリア連邦共和国という国があります。ナイジェリアはアフリカ最大の原油最大国で、国のいたるところに原油のパイプラインが張り巡らされ他国へと販売されています。この際用いるパイプラインや石油掘削技術を提供するのはロイヤル・ダッチ、シェル、エクソン・モービルといった国際資本の石油メジャーで、その収益の殆どが都市部に暮らす人々、政府関係者の人々の財政基盤となります。

 しかし問題は正規の収益からあぶれる他なかった地方の村人や、もともと農業に従事していた人々の生計です。この人々の生計がどうなっているのかと申しますと、巨大なパイプラインに穴を開けて、ヤミで原油を精製し、破格の易さで人々に販売し収益を得ているのです。そしてパイプラインに穴をあける作業をしたり、ガソリンを精製したりする作業、またペットボトルにガソリンやオイルを詰める作業に従事しているのが、本来ならば教育を受けるべきこどもたちなのです。内戦中の国における少年兵の問題は人々の大きな関心事になりますが、このような危険かつ医学的にも大いに問題のある状況にあるこどもたちの話は国際連合でも話題として聞いたことがありません。もちろん精製した後の原油の残り滓であるタールはジャングルや河のあちこちに放置されますから生物はマングローブを始めとしてことごとく死に絶えていきます。不安定な農作物や狩猟による収入よりヤミ値でガソリンを販売した方が収入は落ち着き、また政府もこれを黙認しているところがあります。自然環境を保護するならば、どうやって人々の雇用を保障するのかと先進国が考えなくてはいけないところですが、石油メジャーのほうがナイジェリア連邦政府よりも力が強いのが、アフガニスタンとは事情が異なるところです。

 かつては石炭の粉塵まみれ、今では廃油まみれのこどもたちを人々が人の子イエスのもとに連れてきたどうなるか、わたしたちのもとに連れてきたらどうなるのか。わたしたちは大きなジレンマに立たされます。そしてその場合弟子が人々を面罵した事情も分からいではありません。けれどもイエス・キリストは弟子を諫め、こどもたちを「神の国を受けいれる人」として祝福されます。その子の身なりがどうであろうと関係なく抱擁するでしょう。福音書ではキリストのもとに集まってきた人々やこどもたちは決して「モブキャラ」ではないのです。

 現在わたしたちの国では、シングルマザーのお子さんで離婚された相手が異文化の方であり、日本語しか話せないという方々が想像以上に多くおられることを知っています。人の子イエスはその子たちの悲しみや痛みをすべてご存じです。本日は幼児祝福式を行います。こどもたちが主なる神の御手に置かれますように祈ります。

2024年10月30日水曜日

2024年 11月3日(日) 礼拝 説教

―降誕前 第8主日礼拝―

――永眠者記念日礼拝――

時間:10時30分~説教=「見えざる墓碑が示すいのちの道」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』23 章 25~34 節
(新共同訳 新約 46頁)

讃美= 21-575,496,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 墓碑や墓標には時代や諸宗教、習わしによって様々なかたちがあります。中央アジアの遊牧民のように墓らしい墓を作らずに風葬にする民もいれば、民を大動員して巨大な墳墓を築きあげ、仕えていた奴隷とともに埋葬するという文化もあります。かつての農村のように土葬を執り行うところもあれば、わたしたちのように火葬に付して後に遺骨を墓地に収めるという考え方もあります。

 東日本大震災以降では、行方不明になっていた家族のご遺体が発見されるとそれだけでも遺族が安心するという様子を目にいたしました。一つの大きな節目がついたという意味でみなさまは安堵されている模様ですが、正直に申しあげて生きて帰る方がどれほど嬉しかったことかと偲ばれます。

 そのように考えてまいりますと、本日の福音書の箇所で「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という定型句を13節から始まって七回、詳しくは六回半続く叱責の言葉は非常に興味深いところがあります。特に最後と終わりから二節目の文章にあたる「白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法に満ちている」、そして「預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして預言者を殺した者たちの子孫であることを自ら証明している」は目を留めるところです。

 律法学者やファリサイ派の人々の墓とは、消毒のために石灰を広く塗っていたと言われます。ですから傍目には白く見えたとしても、内部には土葬された遺体が残っているというしくみを重ねて、人の子イエスはその時代の権力に身を委ねながらも結果としては民衆の懐柔政策という意味でローマ帝国による民衆の支配に貢献していた一部の律法学者やファリサイ派を批判いたします。また英雄視される預言者、つまりその時代の権力者や多数派の民衆に対しては鋭い批判を浴びせながら、その陰で苦しむ人々を慰め励ました「神の言葉を預かる者」とされた者への偶像化には断固反対する姿勢を貫きます。

 それでは名を残すどころか、粗末な墓碑すらも建てられなかった人々に、イエス・キリストはどのように向きあわれたのでしょうか。自然災害や海難事故、戦争でその遺体すら遺らなかったという人々は有史以来無数におられます。その遺族も世に絶えてしまったのであれば、わたしたたちはどうすればよいというのでしょうか。

 わたしたちはそこにこそ、イエス・キリストの復活に示される神の愛による統治の完成という世界を見出したいのです。神の統治が実現するとき、そのような無数の人々がイエス・キリストに従っていのちを新たに授かり、復活し、わたしたちと再会を果たすというのが『聖書』の理解です。もはやすでに、しかしまだ始まったばかりの神の統治が実現するその時には「死」には完全にとどめが刺され、新たないのちが授けられて復活するとの理解。それがキリスト教の教会であればどこでも、その母体となったユダヤ教においても、またイスラームの世界においてもすべてではないにせよ見出すことができます。この出来事を伝える教えこそが肝腎であります。

 第二次世界大戦が終ってからも、わたしたちの暮らしの発展には絶えず犠牲が伴ってまいりました。中でも忘れられないのが世界第三位の海難事故として知られる青函連絡船・洞爺丸事件です。今のように気象情報が発達していなかった1954(昭和29)年、台風15号到来にあって、台風の目を晴天と勘違いしたスタッフは函館から青森までの出航を決意したとありますが、函館港や青森港では停電や想定外の輸送船による混雑があったことを当時の無線記録は明らかにしています。洞爺丸以外にも他の4隻もまた転覆、船体破断などで沈没しました。そのような大惨事の中には、こどもの救命胴衣の着衣を手伝った方々にカナダ人宣教師アルフレッド・ラッセル・ストーン宣教師と、YMCAから日本に派遣されたアメリカ合衆国のディーン・リーパー牧師がいました。ストーン宣教師は農村伝道神学校を建て、リーパー牧師のご子息は米国人として初めて広島文化センター理事長としてお働きになりました。たとえ墓碑はなくても、その場には神のいのちの光りが煌々と輝いていたはずです。

 わたしたちにとってもし墓碑というものが幸いにして赦されるのだとすれば、その墓碑は神の国への入口を示しています。イエス・キリストがその入口を開かれた墓に、わたしたちはいっときの間留まり平安を授かります。そしてわたしたちはいのちの光りにあふれた復活の出来事を、礼拝への出席を通して追体験できるのです。

2024年10月24日木曜日

2024年 10月27日(日) 礼拝 説教

―降誕前第9主日礼拝―

時間:10時30分~
説教=「すべてのいのちの源である神の愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10 章 28~33 節
(新共同訳 新約 18頁)

讃美= 495,21-404(213),21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
以前お話しした、釜ヶ崎で地域医療に励む中で不審死を遂げられた矢島祥子医師の再捜査を求めるチラシ配布を今月14日も与えられました。祥子医師の月命日は14日ということで、国道26号線を挟んだ鶴見橋商店街では行われています。日本基督教団高崎南教会に属していた祥子医師。実際に商店街に立ちますと、いろいろな事柄が見えてまいります。朝の時間帯による人の流れの変化だけでなく、自転車を走らせていく人、食堂の準備のためにスーパーで山ほど買い物をする人、通所で福祉サービスを受けるために伝道車椅子で行き交う人、脳梗塞の副作用からか杖をついて歩く人、専門の食材店に通うベトナム系の人やインドネシア系の人、車輪つきの大きなトランクを押しながら歩く観光客、チラシをうけとってくださる方、「そんなことやってもむだだ」と意見される人など様々です。日本人は高齢の方々が多く、反対に外国籍の方々に若者が多いという今の日本の状況もまたよく分かってまいります。しかし、どのような人であっても頭を深々と下げ「よろしくお願いします」と一枚の紙を差し出す者に暴力を振るう者はおりません。

今でこそ身の安全が保証されている中でチラシ配布ができる世ですが、福音書がカタコームという墓場を礼拝所として用い、読みあげられたその時代での宣教活動に対する対応はもっと暴力的で、正直に言えば「自分はキリスト者ですが」と名乗った時点でどうなるか分かったものではないという時代でもありました。その中で本日の週報に刻まれた箇所に先んじるところの『マタイによる福音書』10章26節からお読みいたしますと「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことができない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」とあります。目を留めるべきはこの箇所で人の子イエスは精神主義に立つ軍隊のような命令を弟子に伝えているのではなく、福音宣教のわざに臨んでまことに恐れるべき者は誰なのか、というところです。この意味で、本日の箇所は誤読しやすいところではあります。

ですから文中には「領主ヘロデを恐れるな」や「ローマ皇帝を恐れるな」といった言葉が記されるのではなく、むしろわたしたちの目からすればほんの小さな、日常の中ではほぼほぼ重い価値を見出さないところにこそ、神は自らの愛をそそがれるとの言葉があります。これこそが恐れるべき事柄です。つまり「二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか」との箇所。ここで記されている「二羽の雀」とは、恐らくは市場で販売されている日常の嘱託としての雀であったかと考えられます。エルサレムの神殿に献げられる生贄ではなく、人々がなにがしかの調理を加え、または調理済の仕方で販売されている雀です。1アサリオンとは現代でいう100円ほどの値打です。実に庶民的な食物となる鳥ですが、その一羽でさえも神の赦しがあればこそ大空を舞い続けると人の子イエスは語ります。それに加えて「あなたがたの髪の毛一本残らず数えられている」と教えは続きます。これは神がわたしたちを監視しているというのではなく、日々を生きる力を備えてくださっている、見守っているという文脈なのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と本日の『聖書』の箇所は終ります。「体は殺しても魂を殺すことのできない者を恐れるな」というところから、「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と続く理由が、1羽の雀のいのちとて疎かにしない神の愛に根ざしているところが分かるというものです。

わたしたちが教会のわざに励もうとするとき、何かの証しをそれぞれの賜物のなかで示そうとするとき「大したことではないのです」と語るときがあります。それはまさにその通りなのです。時には萎縮もしますし、人間関係でつい考え込んでしまう事案もあることでしょう。鶴見橋商店街でフライヤーを撒くといえば格好はよいのですが、笑顔で受け取ってくださるアフロアフリカンの女性がいる一方で、配布終了の時間になれば、人々の靴跡だらけになっているフライヤーを見つけて拾い集めます。それでもご遺族は一縷の望みをかけて来月も行われることでしょう。わたしたちもまた、この礼拝に誰が来ようともその方を受け容れるに相応しい交わりを育みたく存じます。宗教改革記念の礼拝ですが、賛否はどうあれ、「たとえ明日世界が終わりを迎えても、わたしは今日、林檎の苗を植えるだろう」ルターの言葉が胸によぎる一週間でありたいと願います。


2024年10月13日日曜日

2024年 10月20日(日) 礼拝 説教 (特別伝道礼拝)

―聖霊降臨節 第23主日礼拝―

―特別伝道礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「たとえ雨風にさらされても」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』3 章 16 節
(新共同訳 新約 167頁)

讃美= 安田美穂子さん

会衆讃美=312(1 節のみ).Ⅱ 157(1 節のみ),
21 ‐ 24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継動画版」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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2024年10月10日木曜日

2024年 10月13日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節 第22主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「このひとりのために」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 45~54 節
(新共同訳 新約 190頁)

讃美= 
519,21-520(452),21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 秋分の日を過ぎた頃からようやく吹く風も秋めいてまいりました。教会で礼拝をお献げになる方々には、概して日本で行なわれる「運動会」がどのようなものか分かりかねる人もおられるかもしれません。近畿より東と、近畿より西ではプログラムも変わるでしょうし、時代によっても内容が変わります。まずは近畿より東ではどのような運動会となるか、想い出話としてではなく、昭和の記憶を頼りに辿ってみます。

 朝6時ごろに音だけの花火が響き、地域に運動会があるぞとの徴となります。グラウンドは競技のためのスペースと、保護者が新聞紙なりビニール製の風呂敷を敷いて食事ができるようなスペースが設けられます。前日の夜に作られた重箱入りのお弁当をもって生徒の家族は枡席のように場所を確保し、6時半に教室で点呼、7時から整列と行進、さらなる整列と国旗掲揚の後に国歌斉唱、ラジオ体操と続きます。競技の最中にありがたいのは、練習中には喉が渇いても水は飲めないのにも拘わらず、時には少しは大目に見てもらってプログラムの切り替わり毎に保護者席でお茶を飲めたことです。おおよそ八百名の生徒は紅組と白組に別れます。あくまでお互いに競争心を強め、運動会で勝つのが目的。集団プログラムは保護者に練習の成果を見せるのが勝負で、運動会の終わりには校長から講評の話をいただき教室に戻り、もらった紅白饅頭を自宅で家族と頬張るという流れです。

 このように一通りのお話しをいたしますと「在りし日の想い出」といった内容になりがちなのですが、注意してみますと、どこにも「個人」がいません。ベースとなるのは組織です。もちろん人はチームワークでもって社会性が養われる一面はありますが、個人を活かすためのチームワークはどこにも見いだせません。1950年代には肢体不自由の生徒が教師に、集団行動の邪魔になるとの指摘を受けて排除されたとの話も聞きました。つまり、誰も「このひとりのために」との動機をもって行なうプログラムが40年前の運動会にはなかったこととなります。あるのは競争への勝利と、力で相手を圧倒すること、そしてとにもかくにも勝利を目指すことです。

 そのような考えに則すると「このひとりのために」と力を尽くした人の子イエスに対して最高法院を召集し「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」との言葉の意味を概ね推し量れるようになります。問題は「我々の」との言葉に潜む「わたしの」という所有欲です。なぜ有力者はローマ帝国を恐れるのでしょうか。それは人の子イエスの態度によって民衆に騒ぎが起こり、ローマ帝国の軍隊が鎮圧に乗り出すという想定に原因があります。しかしこの最高法院がまっとうであれば、このような意見ばかりで会議が占められる筈がありません。正当な最高法院では全会一致は「罪人の結審」として審議差し戻しとなるからです。それにも拘わらず、大祭司はうそぶきます。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代りに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたには好都合だとは考えないのか」。大祭司の策略が露わになる瞬間です。「やむを得ない」でなく、積極的にイエス・キリストの殺害を肯定しています。カイアファにも「このひとりのために」とわが身を省みず神の愛を証しし続けたイエス・キリストの姿は隠されています。彼には分かりません。

 イエス・キリストの殺害のために知略を巡らせる大祭司カイアファ。それは神のご計画からは大きく外れているように思えます。しかしイエス・キリストは、これまでそうであったように、誰に対しても「このひとりのために」と決して特定の集団のためにではなく、むしろその集団から外れていく人々のため神の愛の力を発揮されました。すでにカイアファの知略は、神のご計画から大きく外れているどころか、期せずして神の御旨につつまれてさえいます。それはイエス・キリストの殺害が、いのちの滅びに留まらず、復活に定められているからです。

 人は混乱しパニックに陥ると同調圧力を作りながら少数者、また独特の自己表現をする者、集団行動の苦手な者を「異形の者」として扱い、その人を的にして暴力を伴うガス抜きを行なおうといたします。国内外を問わず、どの民にも同調圧力はあります。そしてそれは福音書の時代から何ら変わるところはありません。だからこそわたしたちは、混乱と混沌の中に置かれた時にこそ、澱の舞う水槽に投げ込まれた気持ちになればこそ、イエス・キリストが今「ほかならないこのひとりのために」何を示そうとされているのか、耳を澄まし、落ち着き、眼を開いてまいりましょう。すると不思議にも心の淀みが澄んでまいります。経験や学びもまずは主なる神に委ねて「イエス様ならば何をなさるのか、何を語りかけるのか」と祈りを日々重ねてまいりたく願います。

2024年10月3日木曜日

2024年 10月6日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節 第21主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「まことの安らぎのなかで流れる涙」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 28~37 節
(新共同訳 新約 188 頁)

讃美= 
298,21-529(333),
    讃美ファイル 3, 21-24(539).
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 本日は世界聖餐日・世界宣教日。思えば泉北ニュータウン教会の創立者・土山牧羔牧師は、国際連合の組織であるOMEP(「世界幼児教育・保育機構」)のメンバーとして東西冷戦の「鉄のカーテン」を乗り越えて世界を飛び回っておられました。その精神を継承した渡辺敏雄牧師がご健在のころ親睦を深めた方々にはタイ北部に暮らす少数民族との交わりがあったとのことです。代表的な民としてはアカ族・カレン族・モン族・ヤオ族・ラフ族・リス族・フモン族・チャオカオ族がおり、特にカレン族にはキリスト者が多いとのことです。そのような少数民族とタイの人々の交わる街がタイ北部のチェンライ。為替ではタイバーツが円の四倍を数える世となり、もはや日本のNGOが支援するまでもないと言われる時代、人々はすでに大衆消費社会を迎えているようです。

 しかし今年の九月、チェンライ、そして少し南にある古都チェンマイでは豪雨の結果、大小の川が溢れて大規模な洪水が起きました。能登半島のような急峻な河川ではないので流木が人々のいのちを奪うほどに流れてはこないとの話でしたが、タイの河川は概ね護岸工事がありません。だから雨期に雨が降れば洪水は想定内。そのあたりの方々の生活感覚としてはわたしたちとは異なるのかもしれません。いずれにしても、それもまた生活の一部として織り込みずみの人々は、飄々と後片づけに勤しんでいる模様です。

 しかし土地計画にしても開発事業に関しましても、この日本の方がはるかに急峻な土地を開拓して人々は暮らしてきたのだと、少しずつ集まる奥能登の水害の報に耳を傾けますと何とも言えなくなります。能登半島で片付けに励む人々は無表情で動きます。そして「涙も出ません」と取材班に呟くのが精一杯の作業が続きます。

 かつて日本に暮らす者は欧米人に較べて無表情だと言われてまいりました。少なくとも底抜けな明るさはそこにはなく、男性は涙を滅多に見せてはいけないし、女性も取り乱してはならないと躾けられました。動揺が伝わるのを防ぐ一面はあるのかもしれませんが、それでは心を病む人も少なからず生じます。

 そのような「無表情さ」を求めるあり方を人の子イエスに重ねますと様々な課題が鮮やかに見えてまいります。本日の箇所では本来は癒されるべき瀕死の兄弟ラザロが息をひきとりすでに葬られてしまったという冷徹な現実にあって、ラザロの姉妹マリアは人の子イエスの足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と呻くほかありません。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われます。「どこに葬ったのか」と。「ユダヤ人たちは、『主よ、来て、ご覧ください』と言った。イエスは涙を流された」、と福音書にははっきり記されます。

 ラザロのいのちを救うために、家族は東奔西走したに違いありません。このような描写は、ラザロの暮らすベタニアが、人の子イエスのいのちを狙う人々の大勢いるところだという弟子たちの先入観や偏狭さを浮き彫りにします。ベタニアの民に対する弟子の恐れは、恐怖に基づく萎縮と決めつけに満ちていたのでしょう。

 イエス・キリストはラザロを甦らせる前に、ベタニアの民と「涙の共同体」を形成します。それは神によって赦された涙であり、信頼と平安あればこその涙です。流される涙はその人の気持ちや心を守り支えます。

 今年もまた告別式の多い一年となりました。様々な打ち合わせを経ながら、わたしたちは涙を流すことすらできなくなる忙しさに置かれます。そのように敢えて忙しくして涙を流す暇もない状態にする支援もあるのだとの他宗教の考えもあります。しかしやはり人は涙を流して初めて次のステップに進めるようにも思えます。わたしたちの間では、時に隠し、そして時に街の片隅で人目を憚らなければならないと躾けられた涙。しかしイエス・キリストは超然として世に向きあうのではなく、ともに涙を流しながら、ベタニアの人々とラザロの死を悼んで交わりを一層深めたところで「死は終わりである」との人々の思い込みに亀裂を生ぜしめます。ラザロは必ず甦るのです。そしてその姿はイエス・キリストの復活をも意味しています。痛ましさに震えるかの地にあって、イエス・キリストは人々の傍らにそっとともにおられるのではないでしょうか。背中をさすりながら、涙を流してよいのだと語りかけておられるのはないでしょうか。イエス・キリストの平安はそのような道筋を幾度も重ねてもわたしたちを決して見放しはいたしません。ともに福音を味わい、キリストの平和をともにしましょう。

2024年9月26日木曜日

2024年 9月29日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第20主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「懸命に生きればこそ 必死にあゆめばこそ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 1~16 節
(新共同訳 新約 188 頁)

讃美= 21-155(301),512,21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 たまたまそこにいればこそ。たまたまその場に住めばこそ。何ということもない理由から自然災害に巻きこまれ、人生行路を変えられてしまった人々は後を絶ちません。家族を失い、住まいを失いというところから始まって10年、30年を経てもなお消せない記憶を抱えながら日々の暮らしに向きあう人々は、戦争体験者と入れ替わるように増えています。東日本大震災から14年目へと向かうなか、その時に報道カメラマンとして働いた方々の振り返りもまた世に出ようとしています。
 押し寄せる津波にレンズを向けるカメラマンもまた、自宅を同じ津波で失う。あるいは家族や親戚に犠牲者が生じる。スマートフォンでの動画撮影と並んで、そのような報道はマスメディアにあっても例を見なかったように思います。阪神・淡路の震災には、被災から距離のあるところから取材に来たマスメディア関係者に罵声を浴びせる人々の姿があり、そしてその人々にお詫びするという記録映像がありましたが、東日本大震災では「普段はここからわたしの家が見えるのですが、家は流されて全くありません」との音声がありました。撮影位置のベストポジションに入ると、挨拶しているご近所の人々の逃げ惑う姿が映り申し訳なく、撮れない。しかし自宅が流されるのであれば一当事者として状況を伝えられる、と当時を振り返るカメラマンもいました。なぜわたしはその場に立ち会ってしまったのかと、国際的な写真賞を受賞するほどに重圧に耐えきれなくなる当時の青年カメラマンもおり、「救助のヘリコプターでなくてごめんなさい」と深く葛藤する空撮班の班員もいました。津波に流される自宅を撮影したカメラマンは語ります。「復興って何なのでしょうね。もしかして100人いれば100通りの復興があって、もしかして復興できた人がいるかも知れないし、一生復興できない人もいるかもしれない。もしかしたら本当の復興とは施設や家の整備だけではなく、心の復興が終ってからの復興かと思いますが、それができないままの人もいるのかもしれない。ただ取材する側としてはそれも含めて復興にはこれだけ大変であり時間がかかることは伝えていかなくてはならないとの意識があり、思いがあります」とのお話でした。
 本日描かれる物語はラザロという青年とその家族を軸にして描かれる『ヨハネによる福音書』の名場面です。病に罹患し瀕死の兄弟ラザロのためにイエスを捜し求めるマリアとマルタ。協力する人々がようやく人の子イエスを見つけ出します。「もう一度、ユダヤに行こう」と弟子に促す人の子イエス。しかし弟子の群れは決して結束が堅くはありません。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。ラザロが病床にいるベタニアは、弟子には身の破滅を招きかねない場所でした。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。物分かりの悪い弟子は「主よ、眠っていれば助かるでしょう」となるべく関わりから遠ざかろうとしますが、この声に「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」と「その場に居合わせなかった」とのあり方が「ラザロの甦り」の出来事により深くつながるかけがえのない機会となるのだと人の子イエスは意味づけます。この「ラザロの甦り」は後にイエス・キリストの十字架と復活の兆しとされてまいりますが、この混乱のなかでただひとり、自らの恐れを振り払うようにして「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と仲間を鼓舞する弟子がいます。それがディディモと呼ばれるトマスであり、怯える弟子の群れのなかでは意気盛んな者として際立ちます。しかし、イエス・キリスト復活の折には、その復活の出来事を頑なに拒みもする弟子でもあると、わたしたちは後から気づかされるのです。
 十字架にイエス・キリストが釘打たれ、いのちを失うという絶望。イエスと熱心に関わろうとした弟子であるほどに、その絶望は深かったと記すようです。何事かに懸命に取り組んでいればこそ、何もかも失った、あるいは期待を裏切られたとの失意の痛みもまた直ちには癒しがたい傷となります。そのような人々を神は引きあげます。先ほど「伝えなくてはならない」と語ったカメラマンは自宅兼仕事場再建のため80歳にいたるまでの多額の返済を抱えました。しかし。
死への勝利を全地に知らせるキリストの復活。神の愛なくしては不可能な可能性。この人は必ずやり遂げるとの信頼を、一見重苦しく見えるその負債は、実は想像もできないほど豊かな刈入れとしても示しているはずです。今なお迷いと苦しみに喘ぐ人々の涙を、イエス・キリストはともに分かちあい、つつんでくださります。

2024年9月19日木曜日

2024年 9月22日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第19主日礼拝―

 時間:10時30分~
説教=「神の愛はすべての傷みをつつむ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 31~39 節
(新共同訳 新約 187 頁)

讃美= 285,21-436(515),21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 現在よりも遙かに自然の前に人の力が小さかった古代の東アジアには「天人相関説」という考えがありました。これは政治を司る者が悪政を行なえば、自然の調和が乱れて地震や津波といった天変地異が起き、多くの犠牲者が出るから、支配者は民を飢えさせず、飢饉や疫病を蔓延させないためにも善政を敷かねばならないという内容です。やがてこの考えは迷信として退けられるにいたりますが、大震災の後、自らは安全圏にいながら「これは現代人が自然への畏敬を忘れたから起きた」などと犠牲者やご遺族の悲しみを癒そうとせず軽口を叩くメディアに較べれば少しは考えるところもある、というものです。多くのフードロスの問題がある一方で白米が一斉に小売店から消える浅ましいその有様には、科学技術の発展と人の品位は比例してはいないとの溜息が聞こえます。

 本日の『聖書』の箇所である『ヨハネによる福音書』10章には一見すると戸惑うような言葉が用いられます。34節にある人の子イエスの言葉「あなたたちの律法に『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか」との箇所です。『旧約聖書』『詩編』82編には「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行なわれる」との理解があり、この言葉が転じて「あなたたちは神々なのか。皆、いと高き方の子らなのか」との言葉が続きます。さらには『出エジプト記』4章16節ではモーセの兄アロンをして「彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代りとなる」との言葉が続きます。表面上文をきりとりますと誤解が生じますが、全体の文脈から判断しますと「神に委託された責任を授けられている人々」が示されているとも受けとめられます。

 正式な手続きを伴わずその場の高ぶりに任せて人の子イエスを殺害しようとする、エルサレムの祭司長や律法学者。「わたしはよい羊飼い」だと語った人の子イエスが「善いわざのことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と自らを正当化します。先ほど申しあげたような役目に伴う責任を棚上げする誤解に基づいて、イエスを殺害しようとする様子が分かります。しかし人の子イエスはそのような人々に向けて語りかけます。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはあり得ない」。そして「父のわざをおこなっているのであれば、わたしを信じなくても、そのわざを信じなさい」と自らを受け容れない人々に穏やかに接しているようにも聞こえるのです。

 この場でイエス・キリストは、敵愾心を露わにして襲いかかろうとする人々さえもその愛でつつみこもうとします。凶暴な態度の背後に、イエスに牙を剥く人々がこれまで受けた悲しみや痛みを見抜いて癒そうとするかのようです。本日の箇所で描かれる人の子イエスの姿は、自らを否定しようとする人々と論争しようとするのではなく、その言葉を否定せずに、自分が何者であるかを語る以外、沈黙を守りながらその場を去るという、英雄のような姿とはほど遠い救い主の姿が描かれます。

 人間には神から授かった責任がある、との言葉を上辺で捉えますとわたしたちはうろたえる場面もあります。正面から受けとめれば実に重たい響きがあります。しかしわたしたちが考える「責任」に先んじて、『詩編』82編に立ち返れば「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」との宣言があります。これは世の心ない統治者や有力者に向けた預言者の言葉としても響きます。『ヨハネによる福音書』の書き手はイエス・キリストの歴史的な人としての姿の描写に留まらず、「神の愛を体現した救い主」としての面を強調します。その愛とは他者の傷みに深く共鳴し、貧困や不正の中でなす術なくへたりこむ人々の手をとり、ともに歩もうとする姿にはっきりと示されています。人間性や人格を否定されて放置された人々の手を握って離さない愛こそ、神の愛の写し絵としてわたしたちに命じられており、わたしたちにも思わずそうせずにはおれない瞬間が訪れます。いつしかそのわざは、多くの交わりをもたらし、人々を巻きこんでまいります。

 イエス・キリストが示した神の愛はすべての傷みをつつみます。その愛はキリスト自らを手にかけようとする人々が抱えた傷みさえ癒してまいります。私怨が鎮まるのを待つのも祈りのひとつです。「迫害する者のために祈りなさい」とは筋書きのないわたしたちの身の回りから世界へと、人の悲しみを分かちあうわざに繋がります。

2024年9月11日水曜日

2024年 9月15日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第18主日礼拝―

 時間:10時30分~


説教=「イエスに従ったひつじの群れ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 22~30 節
(新共同訳 新約 187 頁)

讃美= 21-475(352),354.2,21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
今でこそ建物の防寒対策・気密性が徹底され、北国の家では二重のサッシやセントラルヒーティング、床暖房、北海道の都市部にいたっては主要な道路の下に凍結防止剤が散布され、寒さのあまり手がかじかんで動かなくなるような外気温に触れていても家に戻れば温かな中で身体の緊張をほぐせます。しかしサッシがまだ一般的ではなく硝子窓、木製の雨戸、小学校にコークスのストーブがあったころの寒さと申しますのは格別であり、現在のような酷暑が実に稀であった代わりに、雪が降らなくても霜柱をザクザクと踏みながら歩くのが冬の日常であったころ、母親の手やかかとには必ずといってよいほど、ひび割れや「あかぎれ」を見つけたものでした。たとえ冬であろうと、なるべくなら湯沸し器を用いずに朝の備えをしたものでした。

四季の移ろい豊かなころの日本全国各地とは異なり、福音書に描かれるところの舞台は、確かに地域ごとの天候は様々であったでしょうが、乾燥した地域特有の気温の変化は否めなかったように思います。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行なわれた。冬であった」。『ヨハネによる福音書』の書き手は、エルサレムの神殿奉献記念祭が冬に行なわれていたと明記します。しかし冬のエルサレムには雪も降り、外を歩くにはマントをはおり上等の毛織物を身にまとわなくてはなりません。それができない人々には文字通り生死の境となる季節となり得ます。ひつじ飼いは、ひつじの群れに潜って暖をとるか、懸命に火を起こし焚き火を囲むほかありません。そのような貧しい民を差し置いて、恐らくはこの神殿奉献記念祭は執り行われていたように思います。

そのように張り詰めた空気を変えてしまうように、人の子イエスは「ソロモンの回廊」を歩いてまいります。「ソロモンの回廊」は神殿の周りを囲む壁のすぐ内側にあり、「異邦人の庭」と呼ばれるところにあったと申します。そこは本来なら誰もが入れる場所であり、『使徒言行録』では使徒と民衆たちが集まった場としても描かれ、『ヨハネによる福音書』では人の子イエスがすでに先んじてその場にいたと描いています。しかしながらこの祭、かつてヘロデ一族と関係者が建築した神殿を神に献げるという、神と関わり執り行なわれる祭儀というよりは、エルサレムの神殿を建築した者、そのために財産を寄進した者、政治的な後ろ盾となった者たちの祝う祭りという色の濃厚なものと化していました。そのなかをイエス・キリストは歩いてまいります。あたかもガリラヤ湖の水面を進むがごとし、です。そのイエスの歩みを妨げるように神殿に仕えるところの古代ユダヤ教徒が立ちはだかります。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。要はここで決着をつけようと迫ります。しかしこの場面で迫り来る人々の殺気に呑まれるイエスではありません。「あなたたちは信じない。わたしのひつじではないからである。わたしのひつじはわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。この言葉が、後の世にどれほど多くのキリスト者に勇気を与えたことでしょうか。イエスを遮る人々の怒りは石礫(いしつぶて)を投げようとしますが、その礫でさえもイエス・キリストの招きに従う人々は決して恐ませんでした。その理由は、見つめるものが根本的に異なるからです。

本日は長寿感謝の日を覚えての礼拝です。八十路を迎えた方々への神の祝福をともに分かちあう礼拝です。この八十年の間、わたしたちの住まう国は絶えず他人と較べるというしくみの中での教育や産業、科学を組み立ててきました。いつの間にか「何のために」とのその人自らのテーマを忘れての過度な競争の結果として、比較できないいのちの重さが軽んじられてきた一面は否めません。だからこそ、そのような冷たい風の中で、なおもイエス・キリストに従い続け、時には板挟みや滑り落ちそうになりながら『聖書』の言葉と祈りの中で道を模索されてきた方々に心より神の祝福を祈ります。厳しい冬のエルサレムを思い出しながらも、頭に積もった雪に譬えられる齢のしるしには、年ごとに訪れる身体の変化によって、己を誇るどころかむしろ謙遜にされ、隣人からの支えに主なる神の支えを重ねられますように祈ります。今のわたしたちがそうであるように、見通しの利かない世にあってイエス・キリストを見つめてこられた重さにより、他の圧力に屈しない、頑固さとは異なる「イエス・キリストへのこだわり」が育まれます。それこそその人のこれからの新しい伸び代となるのです。わたしたちも春夏秋冬問わず変わらないイエス・キリストの愛に従いましょう。