―降誕節第2主日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「イエスの父ヨセフの背中」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』2 章 19~23 節
(新共同訳 新約 3頁)
聖書=『マタイによる福音書』2 章 19~23 節
(新共同訳 新約 3頁)
讃美=118, 122, 21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
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しかしこのような狡知に長けた者、謀に長けた者たちには届かないところから、天の御使いたちは人の子イエスの家族に知恵を授け、立ちあがるべきタイミングを伝えます。『マタイによる福音書』では、このタイミングを三人の博士やイエスの父ヨセフが素直に受け容れて、生きながらえるという場面が多いところに気づかされます。果たしてこの「主の天使」とは何者なのでしょうか。天使とは神ではありませんが、わたしたちのような人ではない姿で描かれる場合が多いところです。神でも救い主でもありませんが、神のメッセージを人々に告げ知らす天的な存在として描かれます。これは『旧約聖書』から連続する存在でもありますが、わたしはこのような存在が神の愛を全うしながら人知れず召された人々の記憶だと解釈したいのです。そうでなければ『マタイによる福音書』にアブラハムからイエスの父ヨセフにいたるまでの系図など記される必要はありませんし『ルカによる福音書』でイエスの母マリアがヨセフに依らずに身ごもった出来事を祝福するはずもありません。誰よりも救い主の訪れを待ち望んだ人々の刻んだ記憶と力が、時が満ちた場面にこそ響く御使いの報せとして記されたのだと考えます。
そのような声に押されて、長年にわたってエジプトで避難民としての生活を続けていたイエスの父ヨセフとその家族でした。そのヨセフの夢にまた主の天使が現れて次のように告げます。「起きて、こどもとその母親と連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者どもは、死んでしまった」。ヨセフは起きて、幼子とその母を連れてイスラエルの地に帰ってきた、とあります。ヘロデ大王の治世がこうして終わりを告げました。猜疑心が強く自らの伴侶や息子まで殺害したとされるヘロデ王でしたが、人を愛することも信じることもなく生涯を全うした権力者の人生と引き換えにするように、イスラエルの地に神の希望の光が射してまいります。しかしその息子アルケラオもまた父ヘロデ大王の後継となったと知って、ガリラヤ地方に入ったと申します。実はこのアルケラオ、父ヘロデ大王にも増して暴君であったとのことでその報せがローマ帝国の知るところとなり罷免され、総督ピラトを代官とする直接統治にいたる顛末となります。この期間ヨセフは身を挺して家族にどのような時を分かちあったかと申しますと「ひきこもり」であります。「じっとして動かない」という解釈もできますが、更なる新しいステージを目指しての「備えの時」を家族は迎えます。
このあたりのお話しは『ルカによる福音書』が詳しいのですが、重要なのは「ガリラヤ地方にひきこもった」というひと言で、人の子イエスの少年期を言い表しているというところです。しかもこの期間、誰がどのように人の子イエスを導いたかどうかについても描写しないところが他の福音書とは異なる味わいが出てまいります。
子育てに携わる方々にはこの「ひきこもり」という言葉は決してプラスの意味では用いられません。しかしこの「ひきこもり」の時が「備えの時」として理解されるならば、その時々にあったはずの時代の常識や考えとは一線を画する個性の際立ちを育みます。譬え世の人々から否定的に見られようともその人はその人にしか出来ない賜物の中で育つことでしょうし、ましてや父親が今よりも「係累の神話」「家族の神話」の濃厚であった時代にあって伴侶マリアと息子イエスのためにすべてを献げた、息子とは血縁のないヨセフの姿が焼きつかないはずがありません。父ヨセフは本日の箇所を最後にして静かに福音書の舞台から姿を消していきます。
思えばイエス・キリストは、人々から祈りの言葉を教えて欲しいと乞われたときに、神という言葉を用いませんでした。それは「主の祈り」に明らかですし、また後に自らの苦しみに思いを馳せ、ゲツセマネで祈りを献げた際にも「アッバ父よ」との祈りを忘れませんでした。「神の子イエス・キリスト」との称号の背景には、幼子イエスのために天の御使いの声に素直に従った父ヨセフの背中があったのではないでしょうか。そのような道ぞなえの役割を担いたいと願います。