2024年11月21日木曜日

2024年 11月24日(日) 礼拝 説教

   ―降誕前 第5主日礼拝―

――収穫感謝日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 
説教=「誰もが和解する実り」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』 25章31~40 節
(新共同訳 新約 50頁)

讃美= 21-530,506,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 路線バスに乗り、車窓に映る刈り入れの終った農地をぼんやり眺めておりますと突然「死後裁きに遭う」というような黒地に黄色のブリキの看板にどきっとさせられることがあります。『新約聖書』にも時々死後の世界を題材にした譬え話が描かれます。ですから「『聖書』では死後の世界はどのように描かれているのですか」「『亡くなった人は天国に行く人と地獄に行く人がいるのでしょう。神さまを信じていない人はみんな地獄行きなのですか』」と問われて戸惑う場面にも遭いました。

 しかし不思議なことに、人の子イエスが歩んだ古代ユダヤ教の世界では、わたしたちが考えるような「地獄」には関心が置かれません。生前どのような人生をたどった人も、その人生を全うすれば陰府(よみ)に降り、そこで眠りに就き、神の国の訪れとともに復活するという理解に立ちます。ですので、生前の生き方の報いを死後に受けるという意識は希薄で、すべてが世にあって救いも報いも味わう物語の展開になっている場合が殆どです。

 それではなぜ『福音書』の物語で神の国が天国として描かれたり、貧しい人々に無関心な人々が地獄に落ちたりするのでしょうか。それは『新約聖書』が古代のギリシア語で記されたからだと言われています。古代ギリシアの哲学や神話はその時代には教会の教えよりも広く影響力を保っており、場合によれば仏教との接点すら見いだせるとの指摘もあります。しかし何をもって善となし、何をもって悪となすかという問題についてはわたしたちが破れを覚える身である以上、まさしくこれだと印籠のように人前にかざせないところです。仮にそのように分かりやすいのであれば、わたしたちはこれほど世の中で悩んだり苦労したりはしないというものです。

 先日の日曜日、何度もみなさまにお伝えしているところの矢島祥子さんのご逝去15年記念会が行われ、わたしもご遺族からお招きを受けて出席しました。群馬大学医学部から沖縄県で研修医時代を過ごし、淀川キリスト教病院での勤務を経てあいりん地区の地域医療に心血を注がれましたが、34歳で何者かに拉致され殺害されました。しかし司法解剖とは裏腹に警察は見込で自死と判断し、それまで活動をともにしてきた人々は祥子さんの働きを否認しました。残念ですが本田哲郎神父でさえそのような立場を表明されたと申します。その背後にはわたしたちには触れられない貧困ビジネスの闇と、ジェントリフィケーションとも呼ばれる西成特区構想があります。次々と地域の労働者の支援団体がNPO法人化された結果、軽々に行政を批判できなくなりました。現在、あいりん地区へ行けばもともとは労働者の糧であったビールやホルモンが星野リゾートやあべのハルカスでは、まるでイギリスのパブで注文されるペールエールとチーズのように洗練されて配膳されます。その陰でかつて体力のある時には日雇いとして働いていた人々、または一目でホームレスと分かる姿の人々は姿を消し、貧困の問題が煌びやかな飾りのもと見えなくされる道を辿っています。そのような中で15年を経た今もなお「さっちゃん先生」という一粒の麦は忘れられ放置されていくのでしょうか。

 『旧約聖書』との関わりの中で『新約聖書』を読み直し、死後の世界の物語をこの世の物語であると幾度も解釈し直しますと、決して神の愛の名のもとで大地を耕していった人々は、その人自らが気づかなくても、主なる神からその働きをねぎらわれているのではないかと思うのです。そしてわたしたちが逆にその人は悪の権化であったというような歴史上の人物でさえも、神の愛の力の前には決して打ち勝つことができないのだと理解できます。ヒトラーは神の審判を受けて地獄に行ったのかと問われれば、わたしは分からないと答えます。ヒトラーが歴史に現れなかったとしてもヒトラー的な人物があの時代に現れ暴君として働いたのは想像に難くないからです。ヒトラーの死後を論じるよりも、あなたがたはどうするのかと『聖書』はわたしたちに問いかけているように思えてなりません。『旧約聖書』の書き手集団が死後の世界を描かなかったかと言えば、そのような夢想に立ち止まる暇はなく、ひたすら神の国の訪れに関心を置いて祈り続けていたというに尽きます。世の邪悪さと決して土俵をともにしない生き方がわたしたちの前に備えられています。「さっちゃん先生」を始め、触れるに憚られる「義に飢え渇く人」はそこに、神の国に名前が刻まれているのではないでしょうか。
「使徒信条」にキリストの陰府降りが記されるように、豊かな恵みは大地に深く根を張って初めて授かるものです。早とちりしながら、遠回りしながらでも、わたしたちは神の愛の土俵とその畑を尊びたいと願います。わたしたちはその涙ともに、しかし喜びつつ畑を耕し、豊かな恵みを授かり、その実り一粒ひとつぶに感謝を献げてまいりましょう。



2024年11月14日木曜日

2024年 11月17日(日) 礼拝 説教

  ―降誕前 第6主日礼拝―

――謝恩日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 

説教=「穏やかでない相手とともに暮らすには」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5 章 38~48 節
(新共同訳 新約 8頁)

讃美= 21-43-3,Ⅱ 41,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 泉北一号線、また泉北高速鉄道のレールの近くに暮らしておりますと、始発電車の音が目覚ましとなるときがあります。光明池駅の始発電車は5時9分。ダイヤこそ違いましたが、かつてはこの便を用いたこともあります。

 安心するのは始発電車として泉北高速鉄道は実に静かなことです。乗客も身支度を調えておられる方々ばかりで気持ちも引き締まります。なぜこのようなことをお話しするかと申しますと、始発駅によっては車両内がかなり常識を越えてしまう場合があるからです。時に起きる車内トラブル。そのあり方も西日本と東日本とでは温度差があります。さしあたり罵声が飛び交うのが近畿界隈。しかしその大声を言い換えますと「わたしの近くによらないでください。意見はありますか」とも聞こえなくはありません。その場合は他の車両に乗り換えます。

 いずれにしても一日の始まりは人情としては穏やかにしていたいのが本音です。ですからなおのことトラブルの元凶とされる人々の心には大きな不安や心配や悲しみが宿っているようにも思います。「他にどうすればよいのだ」との叫びが沈黙の車両には響きます。

 本日の『聖書』の箇所は、平和を目指す偉大な事業を成し遂げた人々や、大規模な争いや災厄を経ながらその中で優しさや良心を失わなかった人々が愛した聖句としても知られていますが、あまり高嶺の花咲くところばかりで響くようですとわたしたちに縁遠いようにも思えてしまいます。けれども人の子イエスが語りかけた相手が名も無く、個々の交わりの希薄な「群衆」であったり、その群れから導かれた弟子であったりすることを踏まえますと、通俗的な場面にあっても人を導く力を失わないと考えます。本日の箇所で人の子イエスは『目には目、歯には歯』という、『ハンムラビ法典』の「同害復讐法」を乗り越えるあり方として「復讐の禁止」を訴えます。本来はこの「同害復讐法」にはおはぎ一つ盗んだ過ちで、幼子が大人の私刑によって殺害されてしまうような状況を回避するために編み出されたはずなのですが、時を経るに従って、果てしない憎しみの連鎖として理解されるにいたってしまいました。むしろ本来は、もともと対立関係や憎悪の関係にある二者間が、憎しみの土俵に立たずに、食事に飢えた幼子がのけ者にされないためにどうすればよいのかとともに智恵を絞る協力関係に立つための示唆であったはずです。誰も好き好んで泥棒や強盗になりたいとは思わないはずです。

 それは次の「敵を愛しなさい」との教えにも通底しています。「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」とあります。共同体の結束力を強めるために、敢えて外部なり内部に排除すべき「異なる者」を設け、共同体の繋がりを緊密にする手口は、古代ローマ帝国に限らず、現在のわたしたちの間でも見出せます。その「異なる者」の象徴として本日の箇所では「徴税人」との言葉が見いだせます。人の子イエスは徴税人の存在を当時のユダヤ社会の「分断統治」の典型として理解していた模様です。しかしこの徴税人を憎悪したところで人は憎しみからは決して解放されません。好感を得られる人と時と場所をともにするのは誰にでもできます。けれどもかつて、年老いた牧師が和やかな雰囲気の中、敢えて「教会は仲良しサークルではない」と懸命に語った背景には、イエス・キリストが愛した愛の土台に立ちなさいとの強い思いがあったのではないでしょうか。

 今、世の中は分断を叫ぶ声が強まりつつあるところに立っています。家族の中にもそのような分断が頭をもたげる場面があるかもしれません。けれどもその時こそがキリスト者の正念場です。何度も負の気持ちに溺れる中で、いつもわたしたちに必ず差し伸べられるのがイエス・キリストが堅く握る「いのち綱」です。もし今、わたしたちが深い憎悪に囚われていたとすれば、キリストを通して神にその憎しみを敢えてぶつけていく道もあるでしょう。十字架を通して神と繋がる憎しみは、やがて時が経つほどに全く別の、全く異質の尊いものへと変えられていきます。憎しみはわたしたちのすべてではありません。そのことをわたしたちは敵を愛する生き方から教わります。光は闇に勝利し、愛は憎しみを必ず克服します。わたしたちはこの実に単純な教えを、高嶺の花ばかりからだけでなく、足下に咲く野の花の彩りからも気づかされます。イエス・キリストの愛を心に宿しましょう。

2024年11月7日木曜日

2024年 11月10日(日) 礼拝 説教

―降誕前 第7主日礼拝―
――幼児祝福式礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 

説教=「神の祝福につつまれるこどもたち」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章 13 ~ 16 節
(新共同訳 新約 81頁)

讃美= 21-57,461,讃美ファイル 9,21-29(544).
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 「モブキャラ」という言葉があります。それは漫画やアニメーション、映画、コンピューターゲームなどに登場する、個々の名前が明かされない群衆を指します。演劇やミュージカルで同じような役割で登場するのは「アンサンブルキャスト」、映画では「エキストラ」と呼ばれます。演劇や映画でのキャストやエキストラの場合、指導の細やかな映画監督は「群衆一人ひとりにも表情があるのだから」とキャストにもエキストラにも演技を要求しますが、漫画やアニメ、ゲームの場合ではそのようには描かれないのが殆どです。

 それでは本日の『聖書』の箇所に描かれる、人の子イエスに触れていただくために、人々が連れてきたこどもたちとは、単に人の子イエスが神の子であると示すために描かれたモブキャラなのでしょうか。「連れてきた人々」も「連れられてきたこどもたち」もイエス・キリストと弟子のやりとりを際立たせるためのモブキャラではなさそうだという見地からいたしますと、興味深い発見があります。「人々」と示される人の群れも、「こどもたち」として表現される幼子たちも、それぞれの名前や生い立ちがあったはずです。しかし「人々」と「こどもたち」の間に血のつながりがあったかというと必ずしも書き手は記しません。ただし、人々と連れてこられたこどもたちの間には何らかのつながり、愛情があったことや、「人々」と呼ばれる大人には、ふと思い立ってこどもたちを人の子イエスのもとに連れてきた者もいれば、熟慮の末、悩んだ末にキリスト(救い主)と人々が噂するイエスのもとにこどもたちを連れてきた可能性があります。

 そのような思い詰めた顔もある大人を弟子は大勢の前で叱った、または面罵したのですから、弟子には許容できない振る舞いがあったのかもしれません。面罵とは尋常な対応ではありません。集まったのはどのようなこどもたちだったのでしょうか。その際、人の子イエスの時代、この福音書が記された背景には、現在のわたしたちには想像できない生活格差が横たわっていたとの事情を顧みますと一つの光景が瞼に浮かびます。

 現在、アフリカ大陸にはナイジェリア連邦共和国という国があります。ナイジェリアはアフリカ最大の原油最大国で、国のいたるところに原油のパイプラインが張り巡らされ他国へと販売されています。この際用いるパイプラインや石油掘削技術を提供するのはロイヤル・ダッチ、シェル、エクソン・モービルといった国際資本の石油メジャーで、その収益の殆どが都市部に暮らす人々、政府関係者の人々の財政基盤となります。

 しかし問題は正規の収益からあぶれる他なかった地方の村人や、もともと農業に従事していた人々の生計です。この人々の生計がどうなっているのかと申しますと、巨大なパイプラインに穴を開けて、ヤミで原油を精製し、破格の易さで人々に販売し収益を得ているのです。そしてパイプラインに穴をあける作業をしたり、ガソリンを精製したりする作業、またペットボトルにガソリンやオイルを詰める作業に従事しているのが、本来ならば教育を受けるべきこどもたちなのです。内戦中の国における少年兵の問題は人々の大きな関心事になりますが、このような危険かつ医学的にも大いに問題のある状況にあるこどもたちの話は国際連合でも話題として聞いたことがありません。もちろん精製した後の原油の残り滓であるタールはジャングルや河のあちこちに放置されますから生物はマングローブを始めとしてことごとく死に絶えていきます。不安定な農作物や狩猟による収入よりヤミ値でガソリンを販売した方が収入は落ち着き、また政府もこれを黙認しているところがあります。自然環境を保護するならば、どうやって人々の雇用を保障するのかと先進国が考えなくてはいけないところですが、石油メジャーのほうがナイジェリア連邦政府よりも力が強いのが、アフガニスタンとは事情が異なるところです。

 かつては石炭の粉塵まみれ、今では廃油まみれのこどもたちを人々が人の子イエスのもとに連れてきたどうなるか、わたしたちのもとに連れてきたらどうなるのか。わたしたちは大きなジレンマに立たされます。そしてその場合弟子が人々を面罵した事情も分からいではありません。けれどもイエス・キリストは弟子を諫め、こどもたちを「神の国を受けいれる人」として祝福されます。その子の身なりがどうであろうと関係なく抱擁するでしょう。福音書ではキリストのもとに集まってきた人々やこどもたちは決して「モブキャラ」ではないのです。

 現在わたしたちの国では、シングルマザーのお子さんで離婚された相手が異文化の方であり、日本語しか話せないという方々が想像以上に多くおられることを知っています。人の子イエスはその子たちの悲しみや痛みをすべてご存じです。本日は幼児祝福式を行います。こどもたちが主なる神の御手に置かれますように祈ります。

2024年10月30日水曜日

2024年 11月3日(日) 礼拝 説教

―降誕前 第8主日礼拝―

――永眠者記念日礼拝――

時間:10時30分~説教=「見えざる墓碑が示すいのちの道」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』23 章 25~34 節
(新共同訳 新約 46頁)

讃美= 21-575,496,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 墓碑や墓標には時代や諸宗教、習わしによって様々なかたちがあります。中央アジアの遊牧民のように墓らしい墓を作らずに風葬にする民もいれば、民を大動員して巨大な墳墓を築きあげ、仕えていた奴隷とともに埋葬するという文化もあります。かつての農村のように土葬を執り行うところもあれば、わたしたちのように火葬に付して後に遺骨を墓地に収めるという考え方もあります。

 東日本大震災以降では、行方不明になっていた家族のご遺体が発見されるとそれだけでも遺族が安心するという様子を目にいたしました。一つの大きな節目がついたという意味でみなさまは安堵されている模様ですが、正直に申しあげて生きて帰る方がどれほど嬉しかったことかと偲ばれます。

 そのように考えてまいりますと、本日の福音書の箇所で「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という定型句を13節から始まって七回、詳しくは六回半続く叱責の言葉は非常に興味深いところがあります。特に最後と終わりから二節目の文章にあたる「白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法に満ちている」、そして「預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして預言者を殺した者たちの子孫であることを自ら証明している」は目を留めるところです。

 律法学者やファリサイ派の人々の墓とは、消毒のために石灰を広く塗っていたと言われます。ですから傍目には白く見えたとしても、内部には土葬された遺体が残っているというしくみを重ねて、人の子イエスはその時代の権力に身を委ねながらも結果としては民衆の懐柔政策という意味でローマ帝国による民衆の支配に貢献していた一部の律法学者やファリサイ派を批判いたします。また英雄視される預言者、つまりその時代の権力者や多数派の民衆に対しては鋭い批判を浴びせながら、その陰で苦しむ人々を慰め励ました「神の言葉を預かる者」とされた者への偶像化には断固反対する姿勢を貫きます。

 それでは名を残すどころか、粗末な墓碑すらも建てられなかった人々に、イエス・キリストはどのように向きあわれたのでしょうか。自然災害や海難事故、戦争でその遺体すら遺らなかったという人々は有史以来無数におられます。その遺族も世に絶えてしまったのであれば、わたしたたちはどうすればよいというのでしょうか。

 わたしたちはそこにこそ、イエス・キリストの復活に示される神の愛による統治の完成という世界を見出したいのです。神の統治が実現するとき、そのような無数の人々がイエス・キリストに従っていのちを新たに授かり、復活し、わたしたちと再会を果たすというのが『聖書』の理解です。もはやすでに、しかしまだ始まったばかりの神の統治が実現するその時には「死」には完全にとどめが刺され、新たないのちが授けられて復活するとの理解。それがキリスト教の教会であればどこでも、その母体となったユダヤ教においても、またイスラームの世界においてもすべてではないにせよ見出すことができます。この出来事を伝える教えこそが肝腎であります。

 第二次世界大戦が終ってからも、わたしたちの暮らしの発展には絶えず犠牲が伴ってまいりました。中でも忘れられないのが世界第三位の海難事故として知られる青函連絡船・洞爺丸事件です。今のように気象情報が発達していなかった1954(昭和29)年、台風15号到来にあって、台風の目を晴天と勘違いしたスタッフは函館から青森までの出航を決意したとありますが、函館港や青森港では停電や想定外の輸送船による混雑があったことを当時の無線記録は明らかにしています。洞爺丸以外にも他の4隻もまた転覆、船体破断などで沈没しました。そのような大惨事の中には、こどもの救命胴衣の着衣を手伝った方々にカナダ人宣教師アルフレッド・ラッセル・ストーン宣教師と、YMCAから日本に派遣されたアメリカ合衆国のディーン・リーパー牧師がいました。ストーン宣教師は農村伝道神学校を建て、リーパー牧師のご子息は米国人として初めて広島文化センター理事長としてお働きになりました。たとえ墓碑はなくても、その場には神のいのちの光りが煌々と輝いていたはずです。

 わたしたちにとってもし墓碑というものが幸いにして赦されるのだとすれば、その墓碑は神の国への入口を示しています。イエス・キリストがその入口を開かれた墓に、わたしたちはいっときの間留まり平安を授かります。そしてわたしたちはいのちの光りにあふれた復活の出来事を、礼拝への出席を通して追体験できるのです。

2024年10月24日木曜日

2024年 10月27日(日) 礼拝 説教

―降誕前第9主日礼拝―

時間:10時30分~
説教=「すべてのいのちの源である神の愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10 章 28~33 節
(新共同訳 新約 18頁)

讃美= 495,21-404(213),21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
以前お話しした、釜ヶ崎で地域医療に励む中で不審死を遂げられた矢島祥子医師の再捜査を求めるチラシ配布を今月14日も与えられました。祥子医師の月命日は14日ということで、国道26号線を挟んだ鶴見橋商店街では行われています。日本基督教団高崎南教会に属していた祥子医師。実際に商店街に立ちますと、いろいろな事柄が見えてまいります。朝の時間帯による人の流れの変化だけでなく、自転車を走らせていく人、食堂の準備のためにスーパーで山ほど買い物をする人、通所で福祉サービスを受けるために伝道車椅子で行き交う人、脳梗塞の副作用からか杖をついて歩く人、専門の食材店に通うベトナム系の人やインドネシア系の人、車輪つきの大きなトランクを押しながら歩く観光客、チラシをうけとってくださる方、「そんなことやってもむだだ」と意見される人など様々です。日本人は高齢の方々が多く、反対に外国籍の方々に若者が多いという今の日本の状況もまたよく分かってまいります。しかし、どのような人であっても頭を深々と下げ「よろしくお願いします」と一枚の紙を差し出す者に暴力を振るう者はおりません。

今でこそ身の安全が保証されている中でチラシ配布ができる世ですが、福音書がカタコームという墓場を礼拝所として用い、読みあげられたその時代での宣教活動に対する対応はもっと暴力的で、正直に言えば「自分はキリスト者ですが」と名乗った時点でどうなるか分かったものではないという時代でもありました。その中で本日の週報に刻まれた箇所に先んじるところの『マタイによる福音書』10章26節からお読みいたしますと「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことができない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」とあります。目を留めるべきはこの箇所で人の子イエスは精神主義に立つ軍隊のような命令を弟子に伝えているのではなく、福音宣教のわざに臨んでまことに恐れるべき者は誰なのか、というところです。この意味で、本日の箇所は誤読しやすいところではあります。

ですから文中には「領主ヘロデを恐れるな」や「ローマ皇帝を恐れるな」といった言葉が記されるのではなく、むしろわたしたちの目からすればほんの小さな、日常の中ではほぼほぼ重い価値を見出さないところにこそ、神は自らの愛をそそがれるとの言葉があります。これこそが恐れるべき事柄です。つまり「二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか」との箇所。ここで記されている「二羽の雀」とは、恐らくは市場で販売されている日常の嘱託としての雀であったかと考えられます。エルサレムの神殿に献げられる生贄ではなく、人々がなにがしかの調理を加え、または調理済の仕方で販売されている雀です。1アサリオンとは現代でいう100円ほどの値打です。実に庶民的な食物となる鳥ですが、その一羽でさえも神の赦しがあればこそ大空を舞い続けると人の子イエスは語ります。それに加えて「あなたがたの髪の毛一本残らず数えられている」と教えは続きます。これは神がわたしたちを監視しているというのではなく、日々を生きる力を備えてくださっている、見守っているという文脈なのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と本日の『聖書』の箇所は終ります。「体は殺しても魂を殺すことのできない者を恐れるな」というところから、「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と続く理由が、1羽の雀のいのちとて疎かにしない神の愛に根ざしているところが分かるというものです。

わたしたちが教会のわざに励もうとするとき、何かの証しをそれぞれの賜物のなかで示そうとするとき「大したことではないのです」と語るときがあります。それはまさにその通りなのです。時には萎縮もしますし、人間関係でつい考え込んでしまう事案もあることでしょう。鶴見橋商店街でフライヤーを撒くといえば格好はよいのですが、笑顔で受け取ってくださるアフロアフリカンの女性がいる一方で、配布終了の時間になれば、人々の靴跡だらけになっているフライヤーを見つけて拾い集めます。それでもご遺族は一縷の望みをかけて来月も行われることでしょう。わたしたちもまた、この礼拝に誰が来ようともその方を受け容れるに相応しい交わりを育みたく存じます。宗教改革記念の礼拝ですが、賛否はどうあれ、「たとえ明日世界が終わりを迎えても、わたしは今日、林檎の苗を植えるだろう」ルターの言葉が胸によぎる一週間でありたいと願います。


2024年10月13日日曜日

2024年 10月20日(日) 礼拝 説教 (特別伝道礼拝)

―聖霊降臨節 第23主日礼拝―

―特別伝道礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「たとえ雨風にさらされても」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』3 章 16 節
(新共同訳 新約 167頁)

讃美= 安田美穂子さん

会衆讃美=312(1 節のみ).Ⅱ 157(1 節のみ),
21 ‐ 24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継動画版」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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2024年10月10日木曜日

2024年 10月13日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節 第22主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「このひとりのために」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 45~54 節
(新共同訳 新約 190頁)

讃美= 
519,21-520(452),21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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【説教要旨】
 秋分の日を過ぎた頃からようやく吹く風も秋めいてまいりました。教会で礼拝をお献げになる方々には、概して日本で行なわれる「運動会」がどのようなものか分かりかねる人もおられるかもしれません。近畿より東と、近畿より西ではプログラムも変わるでしょうし、時代によっても内容が変わります。まずは近畿より東ではどのような運動会となるか、想い出話としてではなく、昭和の記憶を頼りに辿ってみます。

 朝6時ごろに音だけの花火が響き、地域に運動会があるぞとの徴となります。グラウンドは競技のためのスペースと、保護者が新聞紙なりビニール製の風呂敷を敷いて食事ができるようなスペースが設けられます。前日の夜に作られた重箱入りのお弁当をもって生徒の家族は枡席のように場所を確保し、6時半に教室で点呼、7時から整列と行進、さらなる整列と国旗掲揚の後に国歌斉唱、ラジオ体操と続きます。競技の最中にありがたいのは、練習中には喉が渇いても水は飲めないのにも拘わらず、時には少しは大目に見てもらってプログラムの切り替わり毎に保護者席でお茶を飲めたことです。おおよそ八百名の生徒は紅組と白組に別れます。あくまでお互いに競争心を強め、運動会で勝つのが目的。集団プログラムは保護者に練習の成果を見せるのが勝負で、運動会の終わりには校長から講評の話をいただき教室に戻り、もらった紅白饅頭を自宅で家族と頬張るという流れです。

 このように一通りのお話しをいたしますと「在りし日の想い出」といった内容になりがちなのですが、注意してみますと、どこにも「個人」がいません。ベースとなるのは組織です。もちろん人はチームワークでもって社会性が養われる一面はありますが、個人を活かすためのチームワークはどこにも見いだせません。1950年代には肢体不自由の生徒が教師に、集団行動の邪魔になるとの指摘を受けて排除されたとの話も聞きました。つまり、誰も「このひとりのために」との動機をもって行なうプログラムが40年前の運動会にはなかったこととなります。あるのは競争への勝利と、力で相手を圧倒すること、そしてとにもかくにも勝利を目指すことです。

 そのような考えに則すると「このひとりのために」と力を尽くした人の子イエスに対して最高法院を召集し「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」との言葉の意味を概ね推し量れるようになります。問題は「我々の」との言葉に潜む「わたしの」という所有欲です。なぜ有力者はローマ帝国を恐れるのでしょうか。それは人の子イエスの態度によって民衆に騒ぎが起こり、ローマ帝国の軍隊が鎮圧に乗り出すという想定に原因があります。しかしこの最高法院がまっとうであれば、このような意見ばかりで会議が占められる筈がありません。正当な最高法院では全会一致は「罪人の結審」として審議差し戻しとなるからです。それにも拘わらず、大祭司はうそぶきます。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代りに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたには好都合だとは考えないのか」。大祭司の策略が露わになる瞬間です。「やむを得ない」でなく、積極的にイエス・キリストの殺害を肯定しています。カイアファにも「このひとりのために」とわが身を省みず神の愛を証しし続けたイエス・キリストの姿は隠されています。彼には分かりません。

 イエス・キリストの殺害のために知略を巡らせる大祭司カイアファ。それは神のご計画からは大きく外れているように思えます。しかしイエス・キリストは、これまでそうであったように、誰に対しても「このひとりのために」と決して特定の集団のためにではなく、むしろその集団から外れていく人々のため神の愛の力を発揮されました。すでにカイアファの知略は、神のご計画から大きく外れているどころか、期せずして神の御旨につつまれてさえいます。それはイエス・キリストの殺害が、いのちの滅びに留まらず、復活に定められているからです。

 人は混乱しパニックに陥ると同調圧力を作りながら少数者、また独特の自己表現をする者、集団行動の苦手な者を「異形の者」として扱い、その人を的にして暴力を伴うガス抜きを行なおうといたします。国内外を問わず、どの民にも同調圧力はあります。そしてそれは福音書の時代から何ら変わるところはありません。だからこそわたしたちは、混乱と混沌の中に置かれた時にこそ、澱の舞う水槽に投げ込まれた気持ちになればこそ、イエス・キリストが今「ほかならないこのひとりのために」何を示そうとされているのか、耳を澄まし、落ち着き、眼を開いてまいりましょう。すると不思議にも心の淀みが澄んでまいります。経験や学びもまずは主なる神に委ねて「イエス様ならば何をなさるのか、何を語りかけるのか」と祈りを日々重ねてまいりたく願います。

2024年10月3日木曜日

2024年 10月6日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節 第21主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「まことの安らぎのなかで流れる涙」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 28~37 節
(新共同訳 新約 188 頁)

讃美= 
298,21-529(333),
    讃美ファイル 3, 21-24(539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 本日は世界聖餐日・世界宣教日。思えば泉北ニュータウン教会の創立者・土山牧羔牧師は、国際連合の組織であるOMEP(「世界幼児教育・保育機構」)のメンバーとして東西冷戦の「鉄のカーテン」を乗り越えて世界を飛び回っておられました。その精神を継承した渡辺敏雄牧師がご健在のころ親睦を深めた方々にはタイ北部に暮らす少数民族との交わりがあったとのことです。代表的な民としてはアカ族・カレン族・モン族・ヤオ族・ラフ族・リス族・フモン族・チャオカオ族がおり、特にカレン族にはキリスト者が多いとのことです。そのような少数民族とタイの人々の交わる街がタイ北部のチェンライ。為替ではタイバーツが円の四倍を数える世となり、もはや日本のNGOが支援するまでもないと言われる時代、人々はすでに大衆消費社会を迎えているようです。

 しかし今年の九月、チェンライ、そして少し南にある古都チェンマイでは豪雨の結果、大小の川が溢れて大規模な洪水が起きました。能登半島のような急峻な河川ではないので流木が人々のいのちを奪うほどに流れてはこないとの話でしたが、タイの河川は概ね護岸工事がありません。だから雨期に雨が降れば洪水は想定内。そのあたりの方々の生活感覚としてはわたしたちとは異なるのかもしれません。いずれにしても、それもまた生活の一部として織り込みずみの人々は、飄々と後片づけに勤しんでいる模様です。

 しかし土地計画にしても開発事業に関しましても、この日本の方がはるかに急峻な土地を開拓して人々は暮らしてきたのだと、少しずつ集まる奥能登の水害の報に耳を傾けますと何とも言えなくなります。能登半島で片付けに励む人々は無表情で動きます。そして「涙も出ません」と取材班に呟くのが精一杯の作業が続きます。

 かつて日本に暮らす者は欧米人に較べて無表情だと言われてまいりました。少なくとも底抜けな明るさはそこにはなく、男性は涙を滅多に見せてはいけないし、女性も取り乱してはならないと躾けられました。動揺が伝わるのを防ぐ一面はあるのかもしれませんが、それでは心を病む人も少なからず生じます。

 そのような「無表情さ」を求めるあり方を人の子イエスに重ねますと様々な課題が鮮やかに見えてまいります。本日の箇所では本来は癒されるべき瀕死の兄弟ラザロが息をひきとりすでに葬られてしまったという冷徹な現実にあって、ラザロの姉妹マリアは人の子イエスの足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と呻くほかありません。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われます。「どこに葬ったのか」と。「ユダヤ人たちは、『主よ、来て、ご覧ください』と言った。イエスは涙を流された」、と福音書にははっきり記されます。

 ラザロのいのちを救うために、家族は東奔西走したに違いありません。このような描写は、ラザロの暮らすベタニアが、人の子イエスのいのちを狙う人々の大勢いるところだという弟子たちの先入観や偏狭さを浮き彫りにします。ベタニアの民に対する弟子の恐れは、恐怖に基づく萎縮と決めつけに満ちていたのでしょう。

 イエス・キリストはラザロを甦らせる前に、ベタニアの民と「涙の共同体」を形成します。それは神によって赦された涙であり、信頼と平安あればこその涙です。流される涙はその人の気持ちや心を守り支えます。

 今年もまた告別式の多い一年となりました。様々な打ち合わせを経ながら、わたしたちは涙を流すことすらできなくなる忙しさに置かれます。そのように敢えて忙しくして涙を流す暇もない状態にする支援もあるのだとの他宗教の考えもあります。しかしやはり人は涙を流して初めて次のステップに進めるようにも思えます。わたしたちの間では、時に隠し、そして時に街の片隅で人目を憚らなければならないと躾けられた涙。しかしイエス・キリストは超然として世に向きあうのではなく、ともに涙を流しながら、ベタニアの人々とラザロの死を悼んで交わりを一層深めたところで「死は終わりである」との人々の思い込みに亀裂を生ぜしめます。ラザロは必ず甦るのです。そしてその姿はイエス・キリストの復活をも意味しています。痛ましさに震えるかの地にあって、イエス・キリストは人々の傍らにそっとともにおられるのではないでしょうか。背中をさすりながら、涙を流してよいのだと語りかけておられるのはないでしょうか。イエス・キリストの平安はそのような道筋を幾度も重ねてもわたしたちを決して見放しはいたしません。ともに福音を味わい、キリストの平和をともにしましょう。

2024年9月26日木曜日

2024年 9月29日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第20主日礼拝―

時間:10時30分~

 

説教=「懸命に生きればこそ 必死にあゆめばこそ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』11 章 1~16 節
(新共同訳 新約 188 頁)

讃美= 21-155(301),512,21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
 たまたまそこにいればこそ。たまたまその場に住めばこそ。何ということもない理由から自然災害に巻きこまれ、人生行路を変えられてしまった人々は後を絶ちません。家族を失い、住まいを失いというところから始まって10年、30年を経てもなお消せない記憶を抱えながら日々の暮らしに向きあう人々は、戦争体験者と入れ替わるように増えています。東日本大震災から14年目へと向かうなか、その時に報道カメラマンとして働いた方々の振り返りもまた世に出ようとしています。
 押し寄せる津波にレンズを向けるカメラマンもまた、自宅を同じ津波で失う。あるいは家族や親戚に犠牲者が生じる。スマートフォンでの動画撮影と並んで、そのような報道はマスメディアにあっても例を見なかったように思います。阪神・淡路の震災には、被災から距離のあるところから取材に来たマスメディア関係者に罵声を浴びせる人々の姿があり、そしてその人々にお詫びするという記録映像がありましたが、東日本大震災では「普段はここからわたしの家が見えるのですが、家は流されて全くありません」との音声がありました。撮影位置のベストポジションに入ると、挨拶しているご近所の人々の逃げ惑う姿が映り申し訳なく、撮れない。しかし自宅が流されるのであれば一当事者として状況を伝えられる、と当時を振り返るカメラマンもいました。なぜわたしはその場に立ち会ってしまったのかと、国際的な写真賞を受賞するほどに重圧に耐えきれなくなる当時の青年カメラマンもおり、「救助のヘリコプターでなくてごめんなさい」と深く葛藤する空撮班の班員もいました。津波に流される自宅を撮影したカメラマンは語ります。「復興って何なのでしょうね。もしかして100人いれば100通りの復興があって、もしかして復興できた人がいるかも知れないし、一生復興できない人もいるかもしれない。もしかしたら本当の復興とは施設や家の整備だけではなく、心の復興が終ってからの復興かと思いますが、それができないままの人もいるのかもしれない。ただ取材する側としてはそれも含めて復興にはこれだけ大変であり時間がかかることは伝えていかなくてはならないとの意識があり、思いがあります」とのお話でした。
 本日描かれる物語はラザロという青年とその家族を軸にして描かれる『ヨハネによる福音書』の名場面です。病に罹患し瀕死の兄弟ラザロのためにイエスを捜し求めるマリアとマルタ。協力する人々がようやく人の子イエスを見つけ出します。「もう一度、ユダヤに行こう」と弟子に促す人の子イエス。しかし弟子の群れは決して結束が堅くはありません。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。ラザロが病床にいるベタニアは、弟子には身の破滅を招きかねない場所でした。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。物分かりの悪い弟子は「主よ、眠っていれば助かるでしょう」となるべく関わりから遠ざかろうとしますが、この声に「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」と「その場に居合わせなかった」とのあり方が「ラザロの甦り」の出来事により深くつながるかけがえのない機会となるのだと人の子イエスは意味づけます。この「ラザロの甦り」は後にイエス・キリストの十字架と復活の兆しとされてまいりますが、この混乱のなかでただひとり、自らの恐れを振り払うようにして「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と仲間を鼓舞する弟子がいます。それがディディモと呼ばれるトマスであり、怯える弟子の群れのなかでは意気盛んな者として際立ちます。しかし、イエス・キリスト復活の折には、その復活の出来事を頑なに拒みもする弟子でもあると、わたしたちは後から気づかされるのです。
 十字架にイエス・キリストが釘打たれ、いのちを失うという絶望。イエスと熱心に関わろうとした弟子であるほどに、その絶望は深かったと記すようです。何事かに懸命に取り組んでいればこそ、何もかも失った、あるいは期待を裏切られたとの失意の痛みもまた直ちには癒しがたい傷となります。そのような人々を神は引きあげます。先ほど「伝えなくてはならない」と語ったカメラマンは自宅兼仕事場再建のため80歳にいたるまでの多額の返済を抱えました。しかし。
死への勝利を全地に知らせるキリストの復活。神の愛なくしては不可能な可能性。この人は必ずやり遂げるとの信頼を、一見重苦しく見えるその負債は、実は想像もできないほど豊かな刈入れとしても示しているはずです。今なお迷いと苦しみに喘ぐ人々の涙を、イエス・キリストはともに分かちあい、つつんでくださります。

2024年9月19日木曜日

2024年 9月22日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第19主日礼拝―

 時間:10時30分~
説教=「神の愛はすべての傷みをつつむ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 31~39 節
(新共同訳 新約 187 頁)

讃美= 285,21-436(515),21-27(541)
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【説教要旨】
 現在よりも遙かに自然の前に人の力が小さかった古代の東アジアには「天人相関説」という考えがありました。これは政治を司る者が悪政を行なえば、自然の調和が乱れて地震や津波といった天変地異が起き、多くの犠牲者が出るから、支配者は民を飢えさせず、飢饉や疫病を蔓延させないためにも善政を敷かねばならないという内容です。やがてこの考えは迷信として退けられるにいたりますが、大震災の後、自らは安全圏にいながら「これは現代人が自然への畏敬を忘れたから起きた」などと犠牲者やご遺族の悲しみを癒そうとせず軽口を叩くメディアに較べれば少しは考えるところもある、というものです。多くのフードロスの問題がある一方で白米が一斉に小売店から消える浅ましいその有様には、科学技術の発展と人の品位は比例してはいないとの溜息が聞こえます。

 本日の『聖書』の箇所である『ヨハネによる福音書』10章には一見すると戸惑うような言葉が用いられます。34節にある人の子イエスの言葉「あなたたちの律法に『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか」との箇所です。『旧約聖書』『詩編』82編には「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行なわれる」との理解があり、この言葉が転じて「あなたたちは神々なのか。皆、いと高き方の子らなのか」との言葉が続きます。さらには『出エジプト記』4章16節ではモーセの兄アロンをして「彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代りとなる」との言葉が続きます。表面上文をきりとりますと誤解が生じますが、全体の文脈から判断しますと「神に委託された責任を授けられている人々」が示されているとも受けとめられます。

 正式な手続きを伴わずその場の高ぶりに任せて人の子イエスを殺害しようとする、エルサレムの祭司長や律法学者。「わたしはよい羊飼い」だと語った人の子イエスが「善いわざのことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と自らを正当化します。先ほど申しあげたような役目に伴う責任を棚上げする誤解に基づいて、イエスを殺害しようとする様子が分かります。しかし人の子イエスはそのような人々に向けて語りかけます。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはあり得ない」。そして「父のわざをおこなっているのであれば、わたしを信じなくても、そのわざを信じなさい」と自らを受け容れない人々に穏やかに接しているようにも聞こえるのです。

 この場でイエス・キリストは、敵愾心を露わにして襲いかかろうとする人々さえもその愛でつつみこもうとします。凶暴な態度の背後に、イエスに牙を剥く人々がこれまで受けた悲しみや痛みを見抜いて癒そうとするかのようです。本日の箇所で描かれる人の子イエスの姿は、自らを否定しようとする人々と論争しようとするのではなく、その言葉を否定せずに、自分が何者であるかを語る以外、沈黙を守りながらその場を去るという、英雄のような姿とはほど遠い救い主の姿が描かれます。

 人間には神から授かった責任がある、との言葉を上辺で捉えますとわたしたちはうろたえる場面もあります。正面から受けとめれば実に重たい響きがあります。しかしわたしたちが考える「責任」に先んじて、『詩編』82編に立ち返れば「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」との宣言があります。これは世の心ない統治者や有力者に向けた預言者の言葉としても響きます。『ヨハネによる福音書』の書き手はイエス・キリストの歴史的な人としての姿の描写に留まらず、「神の愛を体現した救い主」としての面を強調します。その愛とは他者の傷みに深く共鳴し、貧困や不正の中でなす術なくへたりこむ人々の手をとり、ともに歩もうとする姿にはっきりと示されています。人間性や人格を否定されて放置された人々の手を握って離さない愛こそ、神の愛の写し絵としてわたしたちに命じられており、わたしたちにも思わずそうせずにはおれない瞬間が訪れます。いつしかそのわざは、多くの交わりをもたらし、人々を巻きこんでまいります。

 イエス・キリストが示した神の愛はすべての傷みをつつみます。その愛はキリスト自らを手にかけようとする人々が抱えた傷みさえ癒してまいります。私怨が鎮まるのを待つのも祈りのひとつです。「迫害する者のために祈りなさい」とは筋書きのないわたしたちの身の回りから世界へと、人の悲しみを分かちあうわざに繋がります。

2024年9月11日水曜日

2024年 9月15日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第18主日礼拝―

 時間:10時30分~


説教=「イエスに従ったひつじの群れ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 22~30 節
(新共同訳 新約 187 頁)

讃美= 21-475(352),354.2,21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
今でこそ建物の防寒対策・気密性が徹底され、北国の家では二重のサッシやセントラルヒーティング、床暖房、北海道の都市部にいたっては主要な道路の下に凍結防止剤が散布され、寒さのあまり手がかじかんで動かなくなるような外気温に触れていても家に戻れば温かな中で身体の緊張をほぐせます。しかしサッシがまだ一般的ではなく硝子窓、木製の雨戸、小学校にコークスのストーブがあったころの寒さと申しますのは格別であり、現在のような酷暑が実に稀であった代わりに、雪が降らなくても霜柱をザクザクと踏みながら歩くのが冬の日常であったころ、母親の手やかかとには必ずといってよいほど、ひび割れや「あかぎれ」を見つけたものでした。たとえ冬であろうと、なるべくなら湯沸し器を用いずに朝の備えをしたものでした。

四季の移ろい豊かなころの日本全国各地とは異なり、福音書に描かれるところの舞台は、確かに地域ごとの天候は様々であったでしょうが、乾燥した地域特有の気温の変化は否めなかったように思います。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行なわれた。冬であった」。『ヨハネによる福音書』の書き手は、エルサレムの神殿奉献記念祭が冬に行なわれていたと明記します。しかし冬のエルサレムには雪も降り、外を歩くにはマントをはおり上等の毛織物を身にまとわなくてはなりません。それができない人々には文字通り生死の境となる季節となり得ます。ひつじ飼いは、ひつじの群れに潜って暖をとるか、懸命に火を起こし焚き火を囲むほかありません。そのような貧しい民を差し置いて、恐らくはこの神殿奉献記念祭は執り行われていたように思います。

そのように張り詰めた空気を変えてしまうように、人の子イエスは「ソロモンの回廊」を歩いてまいります。「ソロモンの回廊」は神殿の周りを囲む壁のすぐ内側にあり、「異邦人の庭」と呼ばれるところにあったと申します。そこは本来なら誰もが入れる場所であり、『使徒言行録』では使徒と民衆たちが集まった場としても描かれ、『ヨハネによる福音書』では人の子イエスがすでに先んじてその場にいたと描いています。しかしながらこの祭、かつてヘロデ一族と関係者が建築した神殿を神に献げるという、神と関わり執り行なわれる祭儀というよりは、エルサレムの神殿を建築した者、そのために財産を寄進した者、政治的な後ろ盾となった者たちの祝う祭りという色の濃厚なものと化していました。そのなかをイエス・キリストは歩いてまいります。あたかもガリラヤ湖の水面を進むがごとし、です。そのイエスの歩みを妨げるように神殿に仕えるところの古代ユダヤ教徒が立ちはだかります。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。要はここで決着をつけようと迫ります。しかしこの場面で迫り来る人々の殺気に呑まれるイエスではありません。「あなたたちは信じない。わたしのひつじではないからである。わたしのひつじはわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。この言葉が、後の世にどれほど多くのキリスト者に勇気を与えたことでしょうか。イエスを遮る人々の怒りは石礫(いしつぶて)を投げようとしますが、その礫でさえもイエス・キリストの招きに従う人々は決して恐ませんでした。その理由は、見つめるものが根本的に異なるからです。

本日は長寿感謝の日を覚えての礼拝です。八十路を迎えた方々への神の祝福をともに分かちあう礼拝です。この八十年の間、わたしたちの住まう国は絶えず他人と較べるというしくみの中での教育や産業、科学を組み立ててきました。いつの間にか「何のために」とのその人自らのテーマを忘れての過度な競争の結果として、比較できないいのちの重さが軽んじられてきた一面は否めません。だからこそ、そのような冷たい風の中で、なおもイエス・キリストに従い続け、時には板挟みや滑り落ちそうになりながら『聖書』の言葉と祈りの中で道を模索されてきた方々に心より神の祝福を祈ります。厳しい冬のエルサレムを思い出しながらも、頭に積もった雪に譬えられる齢のしるしには、年ごとに訪れる身体の変化によって、己を誇るどころかむしろ謙遜にされ、隣人からの支えに主なる神の支えを重ねられますように祈ります。今のわたしたちがそうであるように、見通しの利かない世にあってイエス・キリストを見つめてこられた重さにより、他の圧力に屈しない、頑固さとは異なる「イエス・キリストへのこだわり」が育まれます。それこそその人のこれからの新しい伸び代となるのです。わたしたちも春夏秋冬問わず変わらないイエス・キリストの愛に従いましょう。

2024年9月5日木曜日

2024年 9月8日(日) 礼拝 説教

   聖霊降臨節 第17主日礼拝― 

時間:10時30分~




説教=「神の地境をまもる者」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 1~6 節
(新共同訳 新約186頁)

讃美=    461,21-412(234).21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
本日の『ヨハネによる福音書』10章1~6節では、羊の群れ、羊飼い、羊の囲い、そして門番というその時代の牧畜のありかたが具体的に記されています。羊の群れは囲いによって保護され、そしてその囲いは門番にまもられています。さらに羊たちもまた繊細な感覚で羊飼いの声を聞き分けて誰に導かれるべきかを知っています。羊飼いが羊を追いかけて捉えようとしなくても、羊は自らの足で羊飼いの後を追ってまいります。反対に、門を通らないで他のところを乗り越えてくるのは「盗人」「強盗」と見なされて、羊たちは決してついて行かず、逃げ去るとの話です。人の声なら誰でも構わずついていくのではなく、深い信頼関係を結んだ羊飼いを識別して後をついていくのです。続く箇所では人の子イエスは「わたしはよい羊飼い」と語ります。イエス・キリストのもとでは誰もが神の平和と慰めを授かります。

他方で本日の箇所からは「盗人」や「盗賊」の姿も描かれます。初代教会の交わりに様々な噂を流して分断を誘い、混乱を起こすものもまたわたしたちの現実として記されてもいると覚えるべきでしょう。『旧約聖書』『申命記』はイエス・キリストに連なる『律法』の誡めが記されています。その中でも本日は『申命記』19章14節「あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地で、すなわちあなたが受け継ぐ嗣業の土地で、最初の人々が定めたあなたの隣人との地境を動かしてはならない」に注目します。地境、すなわち隣人との土地の境を侵してはなりません。この箇所に則するならば、現在パレスチナでイスラエルが行なっている領土拡張の争いはその掟に反します。事実、ユダヤ教で超保守派と呼ばれる人々は近代国家を規範とするイスラエルを「神の国」としては決して承認しません。

不当に地境を動かされ、追い出された羊飼いや羊たちはどこへ逃れればよかったのか。この問いをもまた『ヨハネによる福音書』は伏線としています。『旧約聖書』でエジプト脱出をする他生きる道がなかった、あるいはバビロン捕囚からの解放を待ち焦がれた人々は何に希望を託せばよかったのでしょうか。わたしたちもまた、そのように世をさまようなかで、隣人の助けをいただき、神が定めた地境のもとで、すべての人の救い主であるイエス・キリストにまもられ活かされる喜びと豊かさを分かちあいたいと願います。

2024年8月28日水曜日

2024年 9月1日(日) 礼拝 説教

  聖霊降臨節 第16主日礼拝― 

時間:10時30分~


説教=「風に吹かれてもぶれない根」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』8 章 31~38 節
(新共同訳 新約182頁)

讃美= 85,21-306(Ⅱ.177).21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 敗戦後暫くして撮影された写真があります。その写真には古書店の開店を待つために徹夜で並ぶ人々の姿が映っています。様々な言論統制の中で発禁扱いされた書物が再販され、書物をぜひとも読みたいとの好奇心を超えた知識欲をそこには感じます。敗戦直後の大学では教育・研究機関で学生は「真理探究」という言葉を字義通りに尋ねて読書に耽り、現代の教育や産業構造の基礎を築きあげました。『日本経済新聞』の「私の履歴書」というコラムでは実業家が一見すると現職とは直接繋がらない教養を体得した経験がありありと記されています。

 しかし現在では大学でそのような情熱に基づく学生は数としては随分と少なくなりました。所得としては大学に進学しないほうが、生涯賃金が多くなると言われた時代には、高卒で就職する友人を目にしながら「なぜ大学で学ぶのか」と葛藤する学生の姿がありましたが、今は殆どの場合就職に有利となる場としての役割が大半を占めているのが実情です。やりたいことを見つけて情熱を燃やすというよりは、人生の通過点として淡々と過ごす人々が大半です。そのなかで「真理」という言葉が刻まれていたところで何も響かない現実があります。

 しかしその大勢のなかでごく僅かな人々が、生涯にわたる根を求めて苦悩しているのもまた確かです。その苦悩は決して心理学や精神病理学の観点からのみ説明されてはなりません。「真理とは何か」とローマ総督ピラトが問うたとき人の子イエスは黙っていました。その通り神の真理は人の言葉で伝えきれない事柄です。

 本日の箇所でイエスは自らを信じたユダヤの民に語ります。「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この言葉だけとれば、わたしたちにも『聖書』は「高尚な教え」に留まってしまうのですが、ユダヤの民は次のように語ります。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」。この場に集まっている民は、『創世記』の族長物語に登場するアブラハムの子孫であるところに自らの拠り所を見出しており、「だれかの奴隷になったわけではない」というその時の現状での自らの社会での立場を語っています。つまり一つには血族、そしてもう一つには身分に自らの拠り所を求め、そこに立っていることとなります。実はこれこそが、ユダヤの民自らを縛る要因であることに気づきません。

 血族に基づく共同体にいたしましても身分に基づく共同体にいたしましても必ずその枠に入らない人々を排除するとの性格を帯びます。排除された人々は「真理とは何か」という問いを発する以前に、この現状を何とかして欲しいとの苦しみや悲しみにおかれるものです。日常とかけ離れた「真理」は実に空疎です。人の子イエスの語る真理とは、そのようなものとは異なるようです。

 おそらくそれは、イエス・キリストにつながっているかどうかという一線ではないでしょうか。『ヨハネによる福音書』で尊ばれる言葉とは「イエス・キリストに示された神の愛」です。神の愛が真理を含むという仕方で、わたしたちは断片的であるせよ、人としてのあり方、則ち「真理とはいかにあるべきなのか」との問いへと向かい、さらには「誰とともにいたのか」との発想へと変えられます。「わたしは父のもとで見たことを話している。ところがあなたたちは父から聞いたことを行なっている」。人の子イエスはユダヤの民もまた父なる神との関係を否定はしません。しかしそれはあくまでも誡めという意味での言葉を前提にしています。誡めそのものが神にはなりません。そこには本来のアブラハムがそうであったように、神の語りかけに「アブラハムは主を信じた」という方向転換が伴ってまいります。アブラハムは神の言葉をわがものとしたのではなく、その言葉に従うという態度により困難な旅で滅びることなく一歩を進めることができたのです。「わたしは父のもとで見たことを話している」。主イエスが復活した後の墓を見て恐怖に襲われた女性や、復活そのものを疑った弟子たちもいたように、神の前に立つとのありようはいのちを脅かすわざとの理解がありました。しかしイエス・キリストは父のもとで見たメッセージをその生活すべてを「言葉」として示してくださっています。復活にいたるその姿こそが「神の言葉」です。わたしたちは神の前にあってただただ赦しを乞います。神がわたしたちを抱擁し、抱きしめてくださっているからです。万事窮すとの場に置かれたとき、祈りが赦されています。わたしたちの側から「神頼み」ではない、神がわたしたちの苦しみをともにされます。それこそが神が賜うた真理であり、神の愛です。

2024年8月21日水曜日

2024年 8月25日(日) 礼拝 説教

 聖霊降臨節 第15主日礼拝― 

時間:10時30分~

 

説教=「天にいのちの希望を仰ぐ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』8 章 12~20 節
(新共同訳 新約181頁)

讃美=   21-494(228),Ⅱ 192.Ⅱ.171
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【説教要旨】
 「いのち尽きる日まで天を仰ぎ 一点の恥じることもなきを 木の葉をふるわす風にも わたしは心を痛めた。星をうたう心で すべての死にゆくものを愛さねば そしてわたしに与えられた道を 歩みゆかなければ。今宵も星が風に身をさらしている」。
 大規模なコロナ禍に節目がつき、キャンパスの芝生に車座となり会話を楽しむ若者たちの傍を過ぎると、そこにはひっそりと詩を刻んだ記念碑があり、今も献げる花が絶えません。『これも讃美歌』として記された川上盾牧師の解説によりますと、作者の尹東柱は、戦前の朝鮮に生まれたキリスト者詩人であり、立教大学と同志社大学に学び、ハングルによる詩の創作を続け、それが「治安維持法違反」として京都府警下鴨警察署により1943年に逮捕・翌年福岡刑務所へ投獄、ポツダム宣言受諾の半年前に27歳で獄死。死因は今なおはっきりしません。その詩作は敗戦直後に発見され、今なお高い評価を受けてわたしたちもその日本語訳を読むことができます。先ほど引用したのは『序詩』であり、1941年11月に創作されています。東京から京都への転校は軍事教練を拒否し配属将校から憎まれての対応だったとも言われています。ただ尹東柱の詩の世界は一般でいう「抵抗の詩人」とは異なるきらめきとも眼差しとも呼べる透明さを感じるように思います。「いのち尽きる日まで天を仰ぎ」これは「死ぬ日まで天を仰ぎ」ともありますが、日本語でいう「死」が中心になっているとは思えません。むしろ「天を仰ぐ」とのその眼差しが、自らの死を予期しながらもその痛みや限界を超えていく橋として、神の眼差しと向き合っているようにも思えます。母語を禁じられる屈辱も、すべての死にゆくものを愛そうとする意志に勝るところはありません。
 本日の『聖書』の箇所では「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とあります。その意味を理解できない一部のファリサイ派は「そのような自分についての証しは真実ではない」と批判しますが、人の子イエスは「あなたたちは肉によって裁くが、わたしは誰をも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」と、神に自らを委ねきった人の子として、そして神の子キリストとしての言葉を紡いでいきます。身柄を拘束しようとするファリサイ派にはどのように響いたことでしょうか。
 イエスが臆さずこのように語る姿を見て人々は手出しができませんでした。「イエスが神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された」とあります。「仮庵の祭」ではこの「宝物殿」の近くで、「光の祭儀」が行われました。この背景を踏まえますと、イエス自らがイスラエルの王であるとの宣言をイエス・キリストは高らかに行ったとの理解へと導かれます。『律法』にある「二人」が行う証しとは、イエス・キリストの行う証しには必ず主なる神がともにいるとの確信が記されています。
 現状では、至極一般的な暮らしを続ける限り、冤罪は別としてわたしたちが身柄を拘束されて獄中に置かれるなどということは現時点では考えられません。しかし種々の告発を受けなくても、身柄の拘束を禁じ得ない場はいたるところにあります。例えば突然の病によって入院を余儀なくされ、治療により心身が健やかになるどころか病状が悪化する場合。コロナ禍では誰が悪いというわけでもないのにご家族との関わりまで遮断され一人治療を受けるなか、別の病、例えば認知症を発症してしまう事例も枚挙に限りがありません。当人にはなぜこのようになったのかという理由すら分かりません。抵抗すれば身体を拘束される場合もありました。神への眼差しを遮ろうとする力は、いつの世にも誘惑として、暴力として、圧力として、そして先ほどの詩人に先立つこと2000年も前に、エルサレムで起きた出来事としてわたしたちの健やかないのちを脅かしてまいります。
 しかし、世の渦巻にあっても、イエス・キリストは「わたしは世の光である」と力強く宣言されました。詩人・尹東柱は、世にある時には自らの詩集の出版を考えませんでした。他方で後の世の人は様々な解釈をして議論もしています。天にあるイエス・キリストとともにいる尹先生の思いもお聴きしたいところです。わたしたちも、救い主をお遣わしになった父なる神に背中を押され支えられています。いのちの主が屋台骨としておられます。

2024年8月15日木曜日

2024年 8月18日(日) 礼拝 説教

  聖霊降臨節 第14主日礼拝― 

時間:10時30分~

 
 

説教=「人質にされた女性とイエス」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』8 章 3~11 節
(新共同訳 新約180頁)

讃美=   313,21-505(353),Ⅱ.171
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【説教要旨】
 本日の聖書の個所は絵画藝術や文学などで扱われているところでもあり、よく知られている物語でもあります。当該箇所は後の世からの挿入だとも指摘されますが、挿入されるからにはそれなりの理由があったはずです。朝早く、イエスはエルサレムの神殿の境内に座って教えを説く人の子イエス。そこへ、律法学者やファリサイ派の人々が「姦通の現場」で捕らえたとされる女性を連行し、往来の真ん中に立たせて「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と、今まさに石打ちの刑の審判が下されるところの女性のいのちと引き換えにして問答が展開します。律法学者やファリサイ派の指摘するように、「姦通」、つまり不倫の現場を抑えられたのであれば、そのような措置も考えられます。しかしそもそも律法学者やファリサイ派たちの訴えが本当なのか、彼らはただ自説を主張するだけで女性の言い分を聞こうとはいたしません。『ヨハネによる福音書』でも女性はただ沈黙ばかり。自ら弁明を試みる様子もありません。上辺では律法学者の言い分は本来正しく、その裁きに従うばかりの女性は、イエスとの出会いにより罪を赦されたとの理解もあるのですが、その理解は正しいのでしょうか。

 実のところは古代ユダヤ教の法廷では、女性の発言は一切証言としては認められていませんでした。ですから、仮にこの場で女性が弁明を試みたとしても誰にも聞く耳をもってもらえず「真ん中に立たせられる」という、まさしく人々から石を投げられる場にあって誰からも身を守られるわけでも、何にも頼ることも赦されず、問答無用の状況に立たされていました。女性が極貧の出身であろうと、やもめであろうと、口の利けない女性であろうと、律法の解釈の正当性はすべて周囲の人々の喧噪でどうにでもなってしまいます。もはやここまで来ると、女性のいのちは言葉を操る術を心得ている人々のなすがままにされてしまいます。なぜこの女性はこの場に連行されてきたのでしょうか。福音書の書き手集団は明確にその意図を記します。「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」。女性は一部の律法学者やファリサイ派が、人の子イエスの身柄拘束とあわよくば殺害するための口実として人質にされています。モーセの戒めよりも先んじて編集された『創世記』では神にかたどられて創造されているはずの女性の人命が、このような仕方で損なわれてよいのかとの討議は行なわれません。恐怖に黙する女性の態度は、ピラトの前で沈黙するキリストの姿を先取りするかのようでもあります。

 さて、この場でイエスは指で地面に何か書き始められた、とあります。人の子イエスは何を書き始められたのでしょうか。福音書には明確に示す言葉はありませんし、これは原典にあたってみても変わりません。ただ文脈を考えるならば、律法は人のいのちを殺すものなのか、活かすものなのか、と思索していたようにも読みとれます。律法学者としての経歴をもつパウロの理解に則するならば、「律法はわたしたちをキリストへ導く養育係」であり、もしこの場で全ての人々にイエスがキリストとして示されず、あくまで隠されていたとしても、メシアへと導く「養育係」としての解釈の余地はあったはずです。この場面で女性を引きずり出してきた男性の思惑での律法の解釈はまことに醜悪で歪んでいました。だからこそ人の子イエスの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女性に石を投げなさい」との言葉に慄いた傲慢な人々は、一人またひとりと立ち去るほかありませんでした。いのちを司るはずの律法をめぐる歪みに、己が歪みを突きつけられ、立ち去るほかなかったのです。誰もいなくなった後に、人の子イエスは語りかけます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。人の子イエスは女性を「女」とは呼ばず敬意をもって「婦人よ」と呼びかけます。これは新共同訳ならではの意訳ですが、決して的外れではないと思われます。なぜなら人の子イエスはこの女性もまた神に息を吹き込まれた「人間仲間」としてフラットな関係を結んでいるからです。それでは「これからは、もう罪を犯してはならない」との女性へのメッセージは何を示しているというのでしょうか。

 イエスはここで女性に対して罪の赦しとともに免責条項としてこの言葉を発したとは思えません。罪を犯したかどうかを確かめる術は律法学者の証言以外には物証がないのがその理由です。むしろ「罪を犯すな」との言葉は「誰をも盾にするな」という意味でわたしたちに向けられています。戦後、長らく口をつぐんできた女性の群れがいます。それは男性の責任だと言わねばなりません。『聖書』は人を活かすためにあるとイエスは語ります。

2024年8月7日水曜日

2024年 8月11日(日) 礼拝 説教

  聖霊降臨節 第13主日礼拝― 

時間:10時30分~



説教=「神の愛は人の道をはっきり照らす」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』7 章 45~52 節
(新共同訳 新約180頁)

讃美=  21-521(344),171,Ⅱ.171
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【説教要旨】
 本日の『聖書』の個所では、人の子イエスの教えに慄いた群衆の間に対立が生じ、分裂するなかで、イエスに怯え、殺意すら抱く一部の祭司長やファリサイ派の人々の狼狽ぶりと、かつて夜半にイエスのもとを訪れた律法学者ニコデモの姿が描かれます。ニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と語り、イエスの主張の正当性は『律法の書』に厳密に則して判断しなくてはならないと主張する他の学者たちとは一線を画しています。同調圧力に屈しない力を人の子イエスから授かった証し人の姿を見る思いがいたします。さまざまな仕方でユダヤ教の正典である『律法の書』の解釈をねじ曲げようとする人々がいる一方で、イエス・キリストのあゆみもまた『旧約聖書』の解き明かしの延長にあり、さらにはその完成であるとの証しを試みているようです。
 しかしわたしたちは本日の場面のニコデモのように『聖書』の言葉に根ざし、思慮を重ねた上で発言し、態度を整えているとは概して言いがたい日々を過ごしています。ただしニコデモもまた初めての出会いから少しずつ変えられて人の子イエスを弁護しようとの勇気をようやく神から授けられるにいたりました。もしも『聖書』の解き明かし、各々のキリストへの向き合い方、また教会のあり方が、世の支配に歪められるというならば、わたしたちはいったいどのように向きあうというのでしょうか。
 おそらくわたしたちは、世の風に打ちのめされながらも真摯に生きようと試みるのではないでしょうか。不器用だと言われながらも、要領が悪いと言われながらも、それでも祈りを忘れない生き方を選ぶのではないでしょうか。身に覚えのない言葉を受けたとて、その態度は変わりません。先に召された人々との関わりが記憶にあれば、その記憶が実は使徒パウロの記す、心に帯びた「イエスの焼き印」となりわたしたちの行く道を照らします。そこに敵対する人々がいたとしても、わたしたちはその人たちの顔を見つめて、憎悪を向ける虚しさを知ります。そしてそこにわだかまりがあったとしても、そのモヤモヤを主なる神に委ね、幾年月が費やした実りとしてそのわだかまりが晴れて、互いに受けた傷を癒す交わりを育むことができます。京橋駅や森ノ宮駅の屋根を支える鉄骨には米軍の戦闘機による機銃掃射の跡が今も残っていますが、その跡を眺めながらもそう願いたいのです。
 民間人の暮らす地域を焼夷弾で爆撃するという、米軍による無差別爆撃は3月10日の東京大空襲から始まった、と言われています。2時間で10万人が亡くなるというその数は、世界史上類を見ない惨劇でした。ただこの空襲に及んだ爆撃機は、高度2000メートルの飛行命令と対空武装をすべて外されていたことを知る人は少ないのです。3月10日から8月15日正午までのわずか五ヶ月で日本の内地の都市は殆どが焼け野原になりましたが、他方で485機の爆撃機が失われました。1機につき搭乗員は11人。脱出したパイロットのうち救助されず、日本の本土で待ち受けていたのは、復讐の念に燃える群衆や警防団、それを扇動する憲兵でした。
 敗戦後BC級戦犯の追及を恐れて、パイロットの殺害に及んだ人々は互いを密告し、デマを流すという混沌に巻き込まれていきました。問題はどのような場面においても戦時なら戦時、平時なら平時の国際法なり軍法会議が適応されなくてはならないところです。空襲の犠牲となった日本人や朝鮮人だけでなく、群衆に殺害されたパイロットもまた戦争の犠牲者です。中国の故事成語に「一将功成って万骨枯れる」との言葉があります。将軍のひとつの手柄の陰には無数の犠牲があるとの意味です。核兵器の使用も含めての本土の空襲作戦を立案したカーチス・ルメイ将軍は戦後に勲一等旭日大綬章を日本政府から贈られました。その意味でいえば、誇らしげに飾られる勲章の裏には、戦争中の混乱が今日まで及ぶ血塗られた十字架のような一面をも帯びていると言えましょう。
 わたしたちがこの季節に願うのは、祈りの言葉として内容はごくささやかな願いです。「天のわたしたちのお父さん、あなたの名前をあがめさせてください。あなたの国がきますように。あなたの御旨が天にあるように、地にも実現させてください。わたしたちに日々の糧を、今日もおあたえください。罪を犯す者を赦すように、わたしたちの罪をも赦してください。試練に遭わせないでください。悪より救い出してください。すべての支配と力と栄光は、すべてあなたのものだからです」。律法学者ニコデモもこの祈りに連なる未来を、キリストを通して備えられました。イエス・キリストは自らの犠牲によりすべての人を活かし、復活の先駆けとなったのです。

2024年7月31日水曜日

2024年 8月4日(日) 礼拝 説教

  聖霊降臨節 第12主日礼拝― 

 ―――平和聖日礼拝――― 

時間:10時30分~




説教=「秘めた悲しみに宿る平和への願い」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』7 章 1~9 節
(新共同訳 新約176頁)

讃美=  21-495(310),531,讃美ファイル 3
「主の食卓を囲み」(全節),Ⅱ.171
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 本日の『聖書』の個所では、ガリラヤを巡る最中、ユダヤ人から危険視された人の子イエスが、無益な衝突を避けて宣教の地より遠ざかるなかで「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしているわざを弟子にも見せてやれ。公に知られようとしながら、人知れず行動するような人はいない。自分を世に示せ」と時を見極めない肉親から求められる一方「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行なっているわざは悪いと証ししているからだ。あなたがたは仮庵の祭に上って行くがよい。わたしはまだ、わたしの時が来ていないからだ」と答えてガリラヤに留まられたとの物語が記されます。「仮庵祭」とは太陽暦の10月ごろに行なわれる古代ユダヤ教の祭で、収穫を祝うとともに、イスラエルの民が出エジプトの最中にイスラエルの民が荒れ野で天幕を張り暮らした出来事を記念する祭で、毎日シロアムの池の水を黄金の器にくみ神殿に運び、朝夕の供え物とともに祭壇に注ぐ行事が行なわれたと現在では言われています。『ヨハネによる福音書』9章1節には見えない人が人の子イエスの奇跡によって目を開かれた場としても記されますが、今朝の箇所ではむしろイエスが兄弟から心ない言葉を投げかけられる場面が強調されます。「兄弟たちはイエスを信じていなかった」との言葉が強調されます。これは他の福音書にはない人の子イエスと肉親との確執でもあり、おそらくは『ヨハネによる福音書』成立にいたるまでのキリスト者の苦しみの一つではなかったかと思われます。肉親との軋轢を抱えながらイエス・キリストとの関わりを尊んだ人々には、キリストへの服従とは上辺での喜びばかりには留まらなかった証しでもあります。

 本日は平和聖日礼拝です。あの戦争が終ったからといって、当事者の生涯にきれいさっぱり節目が着いたなどとは決して申せません。むしろ殆どの戦争当事者がその悲しみを言葉にしないまま天に召されていくという時代を迎えています。

 従軍経験者がすでに天に召された中で初めて言及される人々の群れが幾つかあります。それは敗戦時にいたるまで心身に障がいをおもちの方々がどのような風に吹かれることとなったのか、また日々の過酷な戦闘経験の中で人の心がどのように荒んでいくのか、さらには戦後そのような仕方で人生を遮られた人々が歩まずにはおれなかった道です。映画やドラマでは決して描かれない世界がそこにはあります。名パイロットとされた人物が、敗戦後には酒浸りに陥り、内臓疾患で亡くなる。大戦中に無謀な作戦を立案し、多くの生き残りの怨嗟の的となりながら虚勢を張り虚しく老後を過ごす。交通インフラの鉄道が艦載機の機銃掃射に遭い家族で自分一人が生き残る。大陸での軍務により精神的外傷によって戦後は教員になるものの、何かあると生徒に懲罰といって教育の名の下に暴力を振るう。反社会勢力の資金源となる薬物は実は戦時下には合法的な疲労回復剤だった。身も心も傷つきながら、無秩序の中を生きようとする中で、とうとう正気を失い座敷牢や離れに閉じ込められたこども。

 このような荒んだ世にあって天から繰り降ろされた神の愛の糸を握りしめて、人としての心を取り戻すべく礼拝に集った人々がいました。生き残った罪責感と相俟って、十字架のイエス・キリストに家族を重ねて、二度と戦乱を起こさないと誓った人々は、静かに時代から声を潜めつつあります。

 現在、数多の神学校で牧会に赴こうとする人々が減少しているとの話を聞きます。学術的な研究は『聖書』と関わる限り、その世界現代に「翻訳」して身近な事柄と関連づける上では大いに助けになります。ただしそれは『聖書』と関わり、イエス・キリストと関わることなしには、恐らく将来にはAIにとって変わるような、無機質なデーター収集と何ら変わりの無い作業になってしまうことでしょう。

 わたしたちに求められるのは、様々な思い悩みに直面しながら、そして平和を憂いながらも『聖書』を開き、その中で「真の平和とはいかにあるべきだったのか」「これからどう生きたらよいのか」と『聖書』の言葉に問い尋ねるわざです。それは時を超えて今こそわたしたちに求められる「真理に根を降ろす」わざです。かつて栄養失調で苦しんだこどもたちは現在ではどこにいるのか。放置されたお年寄りは現在ではどこにいるのか。交わりから排除され道端に項垂れた人々はどこにいるのか。平和の時が訪れるまで、わたしたちは見極める力をイエス・キリストから授かりたいと願います。今こそ祈りつつ真摯にイエス・キリストを尋ね求めましょう。

2024年7月25日木曜日

2024年 7月28日(日) 礼拝 説教

       聖霊降臨節 第11主日礼拝― 

時間:10時30分~


 

説教=「イエスはいのちのパンである」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6 章 41~52 節
(新共同訳 新約176頁)

讃美= 399,21-18(Ⅱ.1),21-29(544).
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 人には語れない事柄があるように、教会や日本基督教団にも語りづらい事柄があり、それを言葉にするときに深い痛みを伴わずにはおれない場合があります。日本基督教団の場合は1967年に当時の日本基督教団鈴木正久総会議長の名で「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が記されています。その条項をめぐってさまざまな解釈が火花を散らした時代もありましたが、もうひとつの事柄としては1950年代半ばから北海教区で行なわれた「北海道特別開拓伝道(北拓伝)」がありました。それは当時の産業エネルギーであった石炭の採掘場、すなわち北海道の炭鉱街に教会を設立し牧師を派遣し、伝道活動に必要な全経費を当初の一年間は全額日本基督教団が負担、その翌年は半額といった具合で減額していく分、牧師を軸として開拓伝道を行なうというものでした。その結果どうなったかといえば、付帯事業の設立に成功した幾つかの例外を除き、石油への産業エネルギーへの転換に伴い廃坑が相次ぎ、窮乏した牧師一家・教会員も離散、教会が消滅する事態にいたったと言われます。もちろんその困難の中で支えあった牧会者の絆には実に強いものがあり、牧会を退いた仲間とも交わりを維持し続けた者もいたと恩師からは聞きましたが、行方不明者も少なくなかったとも仰せでした。

 ただしかし、人は人生のどこかで切羽詰まった暮らしを経ずには、これは絶対に外してはならないという事柄と、これはこだわらなくても大丈夫だとの見極めの基準が学び得ないとも言えるかもしれません。わたしたちは種々の経験から絶対に外してはならない事柄として「イエス・キリストの使信」との見極めがありますのでありがたいところではありますが、今の世におきましては人としてのいのちの拠り所、善悪の判断の根拠があまりにもぼやけ、生きづらい時代になっているとは言えないでしょうか。テレビの報道が正しいとは誰も言わなくなった反面、情報の洪水の中で事柄の見極めが困難となり、人々の心が気づかないまま病んでいくような時代でもあります。そしてそれは身体の満腹さが常態化するほど深刻になってまいります。

 その意味でも本日の『聖書』の個所で「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」と人の子イエスが語るのは、イエスを救い主だとは認めないユダヤ教の人々にも、わたしたちにも深い問いを投げかけます。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んでしまった」とある引用元は『出エジプト記』や『民数記』です。ユダヤ教の正典のひとつ『律法』における神の審判は滅びる者と救われる者との対照が鮮烈で読むに堪えないときもあり、教会の交わりの要である復活信仰も直接には描かれません。しかし本日の箇所のイエス・キリストの教えについて見方を変えますと、論争上の敵対者であれ、自らを「いのちのパン」として差し出しているようにも思えます。そしてその出典を、その時代のユダヤ教のもうひとつの正典『預言者』に求めているところからも、ただ先祖の行いを踏襲する、繰り返すというのではなく、復活の出来事を通して開かれた未来に足を踏み入れ、「世を生かす」ために働く源となるようにとのメッセージが隠されています。返す刀で『旧約聖書』を否定し、神が創造したこの世界を、身体も含め否定的に理解するその時代のギリシア系の考え方に対する強烈な一撃となります。身体は神の霊の宿る神殿として大切にされるものです。

 時が満ちて身体が世を活かされたしるしばかりになったとしても、その生きざまというものが教会員のみなさまの血肉になっていると考えます。「年齢は決して減るものではない」とのお言葉も交わりの中で賜りました。これはご高齢の方だけでなく誰もが実感するところです。けれどもだからこそ、わたしたちを養ってくださるイエス・キリストにすべてを委ねたいと願うのです。その願いに破れがあり、ひび割れがあったとしても、加齢という現実がその人の未来を拓き、そして究極にはイエス・キリストへの復活へとつながることで、わたしたちが聖礼典以前の問題として「いのちのパン」に養われたかどうかが問われてまいります。『聖書』の言葉さえただのスローガンに留まるならば、他者を排除する方便に容易にすり替わります。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とはそのすり替えへの歯止めであるにも拘わらず、です。

 イエス・キリストはわたしたちのために自らの身体を献げてくださいました。それはわたしたちが限りある時間の中におかれ、様々な過ちを経ながらも、やがて神自らが創造された人そのものの姿に立つためです。神は自らにかたどってわたしたちを創造されました。そして今も「活きよ」と語り、キリストを通して愛されています。


2024年7月18日木曜日

2024年 7月21日(日) 礼拝 説教

       聖霊降臨節 第10主日礼拝― 

時間:10時30分~

 

説教=「イエスの微笑みは変わらず」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6 章 22~27 節
(新共同訳 新約175頁) 

讃美= 399,21-18(Ⅱ.1),21-29(544).  
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 光明池駅から泉ヶ丘駅周辺、泉北高速鉄道の電車内、近くのスーパーで「おっ久しぶりや」と声をかけられる機会が増えました。誰かと思えば教会員の方やかつての卒園児さんとご家族で、平時の職員の方々のお働きに較べれば現場では申し訳ないとしか言えず、聖書のお話しをする機会にのみ接点はなかったはずなのに「なぜ声をかけられるのだろう」と思いながら驚きます。保育園の外、こども園の外で声をかけられるのはドキッとはいたしますが、考え事を抱えているときにはありがたく思います。
 本日の『聖書』の個所は、前回の礼拝で扱った『マルコによる福音書』とは似ているところはありながらも、大きく異なっている箇所がいくつもあります。『マルコによる福音書』の場合、人の子イエスは弟子を強引に舟に乗り込ませますが、本日の箇所ではそのような描写がなく、自分たちから舟に乗り込み、目指す地に到着するところ、そしてむしろうろたえているのは群衆という無名の人々です。群衆はある者は一人で、ある者は何人かで舟に乗って湖をわたり、人の子イエスを探し求めてきます。物語は五千人の人々を満たした場所の向こう岸にあるカファルナウムという土地までやってきて、とうとう、おそらくは喜びのなかで人の子イエスを見つけて「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねます。イエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と答えます。文脈を踏まえますと「いつまでもなくならず、永遠の命に至る食べ物のために働く」ことこそ、五千人を満たした二匹の魚と五つのパンの奇跡よりも大切だと語ります。
 『ヨハネによる福音書』の書き手の集団は、他の福音書のように歴史的な意味での人の子イエスの教えとわざ、そして十字架への苦難と死、そして復活を書き記すだけではなく、福音書の書き手集団がすべて天に召された後を想定しながら「その後の教会」に向けて語りかけているようにも思えます。「いつまでもなくならず、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と説くのです。これはいったいどういうことでしょうか。
 思うにそれは、世の荒波や人の集りとしての教会にはびこる問題に気をとられず、イエス・キリストを見つめつつ、他人と自分を較べずに愛と奉仕のわざに励めというメッセージではないでしょうか。現在、わたしたちが人の集りとしての教会で味わうところの課題は、大方『ヨハネによる福音書』が記されるまでにパウロによる手紙に明らかにされ、どのように向きあうべきかが記されています。さらに『ヨハネによる福音書』の書き手集団は、『新約聖書』の後のほうに置かれている『ヨハネの手紙』も併せて「ヨハネ文書」とも呼ばれる文書集を遺しています。この文書で強調されるのは「神は愛」であり、わたしたちに求められているのは「互いに愛しあう」というわざです。日本語でより分かりやすく申しあげれば「互いを大切にする」という態度ではわたしたち全員が神の前に等しく立っているところで、特別な立場にある者は誰もおりません。『ヨハネの手紙Ⅰ』では次のようにまで書き記します。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」。そして「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」とさえ記します。
 イエス・キリストを基としながら、相手を大切にするという態度。たとえ思わず口に出た言葉がはからずも互いを傷つけてしまったとしても、それでも互いを受容し相手を尊敬し続けるというあり方。福音書も含めた「ヨハネ文書」は、それを願望としてではなく、ユダヤ教からの迫害の期間と、ローマ帝国の迫害の期間というまことに緊張した最中にあって、名も無き群衆に向けて「大丈夫だ、それができるのだよ」と語りかけます。抑圧と困難に置かれた多くの群衆、すなわち名も無い人々が、この呼びかけに励まされて教会はあゆんできました。
 コロナ禍以降、希薄になったとされる人間関係。後継者問題で閉店する店舗は街に少なくありません。しかし心象風景が消えゆくなか、主なる神はなおもわたしたちにキリストを通していのちの希望を灯してくださります。勤務中でも、一人きりだと感じる部屋にも、傷つける言葉を心底悔やむときにも主イエスは微笑み傍らにいます。