―待降節 第3主日礼拝―
――アドベント第3主日礼拝――
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
牧師である以上、刑務所伝道とは無縁ではおれません。けれども刑務所内の懲役刑に服する人々との接見を赦されたり、宗教的な講話を行う「教誨師」という役職は法務省から委託されたりするものであり、自ら名乗りあげるわけにもまいりません。服役囚にはそれぞれの宗教サークルに属する自由があり、ある者は刑務官の監視のもとクリスマスを祝い、または経典の意味を僧侶に解説していただく機会が、他の労務に較べて緩やかに持たれていることは存じています。釈放されても前科のある者として過酷な前途が待つ人々が自暴自棄にならないためにはぜひとも欠かせないプログラムであろうかと考えます。 しかし最近は「無敵の人」と呼ばれる人が刃傷沙汰を起こして収監されるケースが増えてきたと申します。一般社会の暮らしに絶望した人が刑務所に入りたいがために事件を起こし、その生活の中で安らぎを得るというものです。「刑務所は衣食住があたりまえであり、友人も仕事も娯楽も全て用意してもらえる。社会ではこれらを得るために努力しないといけないのだ。ところが刑務所は努力しなくてもよい。社会にいる時にあれだけほしかった食べ物、どうしても得ることができなかった食べ物が、ここでは食べないと食べてくださいとお願いされる。―略―仮釈放は怖い。もう二度とシャバ(社会)には出たくない」。虐待を受けるばかりの幼いころ、身内や知り合いの家を転々としたころ、ホームレス同然の暮らしを経た彼には失うものは何もありません。いずれは自分がどのような大ごとをしでかしたのかも忘れていく日々。新幹線の中で刃を振るった青年には、実質的な意味での無期懲役という量刑は意味をもちません。「無敵の人」則ち何も失うものがないとの絶望は人をかくまで追い詰めます。このような苦しみ喘ぐ人々の社会復帰には従来の自己責任論とは別の手立てが求められています。
しかし洗礼者ヨハネは、そのような「無敵の人」ではありませんでした。失うものが何もないからこそ、その時代の古代ユダヤ教の権力者を批判したわけではありませんでした。洗礼者ヨハネには何もなかったのではなく、救い主が必ず訪れるとの確信がありました。『聖書』を神の言葉として受け容れる人にはそれが根拠になりましたし、侮る人々には故無き信仰からの言葉として響いたかも知れません。けれども洗礼者ヨハネは神の言葉にすべてを献げ、メッセージを語り続けました。そして彼は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスによって囚われの身になったのでした。彼にとっての牢とは、救い主の希望を待ち望むという祈りの場でした。しかし救い主が誰であるかに関しては覚束ないところあり、人の子イエスのわざを聞くに及んで弟子を遣わし尋ねます。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、別の方を待たねばなりませんか」。「別の方を待たねばなりませんか」との言葉には、ヨハネの期待と不安が入り交じっています。それでこそ、純然たる神の希望を授かる側の、破れに満ちた心根の正直な告白です。弟子に託したこの言葉に、人の子イエスは自らの行いを淡々と語った後、「わたしに躓かない者は幸いである」と語ります。人の子イエスが淡々と語ったその内容は、本来であれば「無敵の人」を自称する者を慄かせ、別の道を備えるにあたり充分な証しとなっています。洗礼者ヨハネの弟子が帰ると、人の子イエスは語り始めます。「あなたがたは、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。いや、預言者以上の者である」。人の子イエスが、ヨハネを「預言者以上の者である」と民衆に語ったのは、人として世に現れた救い主イエス・キリストと直に関わり、直に清めの洗礼を授けたからに相違ありません。この話の延長線上で「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」との教えが記されます。
ベツレヘムでマリアとヨセフが探し求めた宿屋。宿屋は街道沿いの道に面して建てられた旅人が身を寄せた場所です。往々にしてそのような宿屋は、異邦人や古代ユダヤ教の戒律とは縁の無い渡世人が身を寄せた場所であったかも知れません。その場にさえマリアが救い主を出産する場所はありませんでした。しかしだからといって、二人はボニーとクライドのような「無敵の人」にはなれませんでした。二人の授かったみどり児が救い主であり、「無敵の人」を「神を畏れる人」に転換する力を授かり、全ての人を囚われの身から解放するキリストであったことに、洗礼者ヨハネの声は見事に届きました。それはクリスマスの讃美の声へとつながっていきます。