時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』2 章 13~15 節
(新共同訳 新約 2頁)
讃美= 21-265(114),21-252(119),21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
『マタイによる福音書』に記されるクリスマス物語は、『ルカによる福音書』に記されるような祝祭的な雰囲気を必ずしも伴ってはおりません。福音書冒頭で記されるイエス・キリストにいたるまでの系図には、アブラハムから始まるイスラエルの民の系図に表現された歴史がいかに罪深いものであったかが記され、その歴史が記された後に、民の救い主として誕生する救い主の誕生が、聖霊によるものであり、同時に父ヨセフとは血縁としては関わりないものであることから深い不安に満ちたものとして記されます。しかし夢の中に現れた御使いのメッセージによってヨセフは奮い立ち、改めてマリアを伴侶として迎え入れる様子が描かれます。 さらには輝く星に導かれて東の方から訪れた占星術の三人の博士たちがエルサレムで発した「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」との問いかけは、ローマ帝国を後ろ盾としたヘロデ大王、そして王宮に連なっていたであろう富裕層の人々に希望の光を灯すどころか、深い不安によって揺り動かします。大王は深い不安の中で三人の博士をベツレヘムまで送り出させ、その報せを聞き出そうとしますが御使いの言葉が博士の行方を遮り、別の新しい道を拓いて故郷に戻ることとなりました。さらに主の御使いは人の子イエスの父ヨセフにも臨み「エジプトに逃れよ、そしてわたしが告げるまで、そこに留まれ」と寄留者としてエジプトに留まるよう告げます。ヨセフはその言葉が何事なのかと戸惑うほかなかったでしょうが、これまでその言葉を尊んできた人でもありましたから、敢えて寄留者、すなわち逃れの民でもあり、現代の言葉で言えば難民としてベツレヘムからの脱出に成功します。間一髪で脱出に成功したヨセフとマリアでしたが、故郷では悲劇的な虐殺行為が行われました。人の頼る権力のもつ暴力性が浮き彫りにされるだけでなく、救い主の誕生と並行して福音書で描かれることで、公文書では恐らくは隠蔽されたで在ろうこの野蛮な行為が白日のもとさらけ出されました。こどもたちには母親がおり、父親がいたはずで、だからこそ福音書の書き手は『エレミヤ書』を初めとした預言者の書を逐一引用しては、人の子イエスの誕生の陰の悲しみが、やがてイエス・キリストの十字架での苦難と死によって分かち合われ、復活の日を待ち望むとのあり方に転換されていく様を隠すことなく書き記します。
さてエジプトに逃れたイエスとマリアはその場でどのように暮らしたというのでしょうか。当時のエジプトはローマ帝国領ではありましたが、住民登録を行ったベツレヘムとは遠く離れています。ましてやヨセフとマリアは立場としては恵まれたローマ帝国の市民ではなく、あくまでも自己申告こそあれ、身分証明のない難民として扱われたことでしょう。おそらくヨセフの就労先と申しても身体を酷使する労役から始まり、時として言葉の通じない世界で汗を流し、そしてようやく、後のナザレでは「大工」と見なされる技術と職能を身につけて家族を養ったのではないでしょうか。
インバウンド経済に対する反発、オーバーツーリズムに対する反発、また犯罪歴のない、日本語学校の成績ではA1クラスの就労者でさえ苦労の多い現代におきまして、わたしたちがヘロデ大王の追っ手から逃れてきたような人々の暮らしを理解するのは、当教会の設立者の生涯から申しましても当然の態度です。土山牧羔先生が留学された時分には排日移民法の果てに真珠湾攻撃が起きて太平洋戦争が勃発し、アメリカ合衆国西海岸に暮らす日系人はマンザナールを初めとした強制収容所に送られていきました。ドイツ系やイタリア系の移民にはなされなかった対応であったと申します。そのような中で若き日の牧羔牧師は合衆国東海岸部に留学されていたことから辛うじて難を逃れましたが、プリンストン大学のキャンパス外では中国人を名乗り災難を回避しながら、収容された日系人との面会や連絡を絶つことはなかったとのことです。その中で己のあり方をエジプトに逃れたあの家族に重ねて、エジプトでの苦難とアメリカ合衆国での苦難を重ね祈り励んだ月日を過ごしたに違いありません。
2024年の世界を顧みるに、各地で絶えない争いや政変があり、その度ごとに地域の常識が変わり果て、こどもたちが食に事欠くというイエス誕生の時代から変わらない問題が解決されないまま放置されています。そのような流れを前にしてイエスの父ヨセフは傷つき、汗を流しながら家族を支えてまいります。神と家族の前に誠実な姿のモデルが、人の子イエスとは直接血が繋がらないとされるヨセフに映し出されはしないでしょうか。わたしたちは年の瀬を迎えます。そこには課題を抱えながらも温かな家族や親族がいることでしょう。もし「そうではない」と仰せになる方がいるならば、エジプトで家族を支えるヨセフを思い出していただきたく願います。