―元旦礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
聖日礼拝を担う身といたしましては、他の牧師の説教を聴き、わが身を顧みるという機会の少なさに茫然自失するときがあります。つまり神との関わりなしには独りよがりの態度をとったとて誰からも何を言われるでなし、そのまま徒に時を重ねてしまう危険と隣合わせである主なる神からのお役目だとも申せましょう。 そのような中で今朝味わう『ヨハネによる福音書』の冒頭は、他の福音書のクリスマス物語とはひと味もふた味も異なる表現で、牧師や教会に連なる者、そして『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』のように物語化されていないという意味では世にあるすべての人に対しても神の御子の誕生とはどのような出来事なのかを問いかけてやみません。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。このような書き出しで始まりますと、なるほど『ヨハネによる福音書』は実に哲学的で、古代ギリシア思想と初代教会との衝突があったのだなあと考えてしまうのですが、わたしが尊敬する牧師によれば「言葉」を発するからには何らかの「思いがある」との指摘がありました。なるほどそのように味わいますとまた異なったイエス・キリストの誕生について、救い主がわたしたちのもとに訪れたその尊さについて感じ入るところがあります。つまりわたしたちは狭い意味でも、広い意味でも相手に自らの意志を伝えようとすれば何らかの意志表示をせずにはおれない、その場合には言葉が不可欠だという見落としがちな事実です。もし話し手や聴き手の高慢さがあれば意思疎通は実に難しくなります。
分かりやすい判例としては『旧約聖書』のバベルの町の物語があります。『創世記』11章に記された物語では、東の方から移動してきた人々は「れんがを造り、それをよく焼こう」という、その時代には画期的な発明をしてのけます。自由にかたちを変えることができるだけでなく、焼くことによって強度が飛躍的に高まります。それだけではありません。「しっくいの代わりにアスファルトを用いる」というところから、防水性も充分考えた建築を可能としました。しかし問題は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」という動機、すなわち傲慢さがその願いに潜んでいるという闇でした。
このため主なる神は人間の動機とは反対に「降ってきて」この町の様子を調べて、人々の言葉を「混乱させて」共同作業を出来ないようにしてしまいます。昔の映画のように多くの言葉ができたというよりも、お互いの高ぶり、高慢さの結果として意思疎通ができなくなってしまったとの、わたしたちの間にもありがちな問題の根をこのように指摘します。高慢さによって相手の話に耳を傾けなくなり、暴力や権力という力を頼みとして、今も多くの人々が傷つき、その果てには争いすら起きてしまうという有様です。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」というこの一行。神とともにある言というこの短い一行は、そのような破れを抱えたわたしたちが、再びどうにかして愛し合えないものかとの苦渋の決断を窺うことができます。神はわたしたちを天地創造の出来事以来愛してくださったからこその思いがあり、時を重ねるほどに互いを傷つけあう人間をそれでも大切に思ってくださったがゆえに、自らを見失ったわたしたちに語りかけてくださったのです。そのかけがえのない言葉こそがイエス・キリストなのだという理解です。
「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内には命があった。命は人間を照らす光であった。光りは暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。万物は神の言葉によってできたが、その現状への何とも言えない心境を書き手は記しているようです。しかし神の言には神の思いが込められており、その言には世にある人の姿となりながら、神と人との交わりを今一度する瑞々しさがあり、死に打ち勝ついのちの力を十全に湛えているとの書き手の確信があります。それは神の愛のひと言につきます。
イエス・キリストがどのような人々と食をともにし、イエス・キリストがどのような人々と出会い、イエス・キリストがどのように新しい交わりを育んでいったのか。飼葉桶に宿ったみどり児が成長し、救い主として働かれたそのあゆみを、わたしたちは各々の賜物に応じて辿ってまいりましょう。その道備えのあゆみこそが、新しい年の教会を育み、実りとなっていくものと確信します。わたしたちの幼さや頑なさなどすべて主なる神はご存じの上で、イエス・キリストを世に遣わされました。降誕節のただ中、注がれる日の光に感謝したいと思います。