―待降節 第1主日礼拝―
――アドベント第1主日礼拝――
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「目覚めの時が来た」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』 24 章 36~44 節
(新共同訳 新約 48頁)
讃美= 94,Ⅱ 112,21-28(545).
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』 24 章 36~44 節
(新共同訳 新約 48頁)
讃美= 94,Ⅱ 112,21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
人という生き物にある、他の動物にはない特徴の一つとして環境への適応力があります。確かに北極海と隣り合わせで凍った生肉を口にして初めてビタミンを得られるような環境にいても、赤道を跨ぐアマゾンにも、太陽があるときには70度、冬期は氷点下という砂漠地帯にも、漁獲量に頼って生きていくような地域でも、標高5000メートルの山岳地帯にも、そして道路がことごとくコンクリートに覆われ、高層ビルの一室でモニターディスプレイを見つめながら仕事をしなくてはならない環境でも、生きようとすれば人間は生きていくことができます。 しかしこれは反面、その環境に他の動物よりも巧妙に「慣れる」技術があるという特性が発達しているだけで、それが正しいのかどうかというとそれは別の問題です。古代イスラエルの民はエジプトの王ファラオのもとで奴隷として人としての生き方を踏みにじられていましたが、その生き方に次第に慣れていった挙句、奴隷解放の神に導かれたモーセに幾度も反逆をいたします。それどころか奴隷生活のころがよかったと懐かしみもいたします。そのような人間の歪んだ一面を美化せずに生々しく描くのもまた『旧約聖書』の特徴です。
それでは救い主イエスが世に誕生したときの人々の暮らしはどのようなものであったというのでしょうか。奇しくもそれは、紀元前にも、現代にいたるまでの紀元後の世界にも見られなかった地中海を囲む統一帝国が確立した時期と重なります。かつてのローマという小さな国が戦争に戦争を重ねて国を大きくさせ、人々を権力によって平定し平和を得るという一大事、その長たる者が「皇帝」を名乗る最初期にあたります。争いが続くよりは平和が維持されるほうが民の暮らしには確かによいには決まっていますが、それは何層にも重なる差別と、いのちのクラス分けによって成り立っていました。ローマ帝国の市民のいのちは属州の人々のいのちよりも重いという不条理、自由人のいのちは奴隷よりも重いという不条理。それがまかり通っていました。
ことがいのちに及ぶにいたって、人々はようやくまどろみから目を覚まします。しかし問題はその覚まし方です。ローマ帝国による支配の時代に起きた反乱は、さしあたり数々の奴隷反乱としておきました。しかしそれはいつの間にか、剣闘士の死闘としてショービジネス化されることで見事にローマ帝国市民の娯楽になってしまいます。『使徒言行録』には、使徒パウロの師ガマリエルの口を通し使徒の働きに関して次のように語られ、その言葉が記されます。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数400人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされた。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申しあげたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、滅ぼすことはできない」。つまり、イエスがお生まれになったタイミングとはそれまでのローマの支配のあり方が大きく変わり、前にもまして民への支配が巧妙になった時であると言えます。だから人々はどうすれば分かりません。暴力による反乱がよいのか、それとも傍観を決め込むのがよいのか、それすらも知りません。おそらくは自らの仕事で汲々とするので精一杯であったことでしょう。ちょうど今のわたしたちのように。
しかしイエス・キリストは本日の箇所で次のように語ります。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。
泥棒とは明らかに犯罪者のことです。しかし家の主人が目を覚ましていたのであれば泥棒はその行為をなし得ません。ですから泥棒とはならないのです。この時代、泥棒や強盗と呼ばれる人々は物盗り以外には政治犯も含まれていました。そのように目を覚ましていたのが結果として聖霊によるみどり児の宿りを受け容れた母マリアであり、マリアの寝泊まりする場所を整え、ヘロデ大王を始めとする一族の魔の手から幼子を守り続けた父ヨセフであり、天使の声を確実に聞き取った羊飼い、そして三博士でした。誰も当時のいのちのランクからすれば底辺か門外漢の人々です。その底辺のいのちが救い主とともにあり、世の武力を凌ぐ天の大軍によって守られています。神の前にすべてのいのちが祝福されるという出来事がイエス・キリストの誕生を通して起きたのです。