―聖霊降臨節 第22主日礼拝―
時間:10時30分~可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
秋分の日を過ぎた頃からようやく吹く風も秋めいてまいりました。教会で礼拝をお献げになる方々には、概して日本で行なわれる「運動会」がどのようなものか分かりかねる人もおられるかもしれません。近畿より東と、近畿より西ではプログラムも変わるでしょうし、時代によっても内容が変わります。まずは近畿より東ではどのような運動会となるか、想い出話としてではなく、昭和の記憶を頼りに辿ってみます。
朝6時ごろに音だけの花火が響き、地域に運動会があるぞとの徴となります。グラウンドは競技のためのスペースと、保護者が新聞紙なりビニール製の風呂敷を敷いて食事ができるようなスペースが設けられます。前日の夜に作られた重箱入りのお弁当をもって生徒の家族は枡席のように場所を確保し、6時半に教室で点呼、7時から整列と行進、さらなる整列と国旗掲揚の後に国歌斉唱、ラジオ体操と続きます。競技の最中にありがたいのは、練習中には喉が渇いても水は飲めないのにも拘わらず、時には少しは大目に見てもらってプログラムの切り替わり毎に保護者席でお茶を飲めたことです。おおよそ八百名の生徒は紅組と白組に別れます。あくまでお互いに競争心を強め、運動会で勝つのが目的。集団プログラムは保護者に練習の成果を見せるのが勝負で、運動会の終わりには校長から講評の話をいただき教室に戻り、もらった紅白饅頭を自宅で家族と頬張るという流れです。
このように一通りのお話しをいたしますと「在りし日の想い出」といった内容になりがちなのですが、注意してみますと、どこにも「個人」がいません。ベースとなるのは組織です。もちろん人はチームワークでもって社会性が養われる一面はありますが、個人を活かすためのチームワークはどこにも見いだせません。1950年代には肢体不自由の生徒が教師に、集団行動の邪魔になるとの指摘を受けて排除されたとの話も聞きました。つまり、誰も「このひとりのために」との動機をもって行なうプログラムが40年前の運動会にはなかったこととなります。あるのは競争への勝利と、力で相手を圧倒すること、そしてとにもかくにも勝利を目指すことです。
そのような考えに則すると「このひとりのために」と力を尽くした人の子イエスに対して最高法院を召集し「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」との言葉の意味を概ね推し量れるようになります。問題は「我々の」との言葉に潜む「わたしの」という所有欲です。なぜ有力者はローマ帝国を恐れるのでしょうか。それは人の子イエスの態度によって民衆に騒ぎが起こり、ローマ帝国の軍隊が鎮圧に乗り出すという想定に原因があります。しかしこの最高法院がまっとうであれば、このような意見ばかりで会議が占められる筈がありません。正当な最高法院では全会一致は「罪人の結審」として審議差し戻しとなるからです。それにも拘わらず、大祭司はうそぶきます。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代りに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたには好都合だとは考えないのか」。大祭司の策略が露わになる瞬間です。「やむを得ない」でなく、積極的にイエス・キリストの殺害を肯定しています。カイアファにも「このひとりのために」とわが身を省みず神の愛を証しし続けたイエス・キリストの姿は隠されています。彼には分かりません。
イエス・キリストの殺害のために知略を巡らせる大祭司カイアファ。それは神のご計画からは大きく外れているように思えます。しかしイエス・キリストは、これまでそうであったように、誰に対しても「このひとりのために」と決して特定の集団のためにではなく、むしろその集団から外れていく人々のため神の愛の力を発揮されました。すでにカイアファの知略は、神のご計画から大きく外れているどころか、期せずして神の御旨につつまれてさえいます。それはイエス・キリストの殺害が、いのちの滅びに留まらず、復活に定められているからです。
人は混乱しパニックに陥ると同調圧力を作りながら少数者、また独特の自己表現をする者、集団行動の苦手な者を「異形の者」として扱い、その人を的にして暴力を伴うガス抜きを行なおうといたします。国内外を問わず、どの民にも同調圧力はあります。そしてそれは福音書の時代から何ら変わるところはありません。だからこそわたしたちは、混乱と混沌の中に置かれた時にこそ、澱の舞う水槽に投げ込まれた気持ちになればこそ、イエス・キリストが今「ほかならないこのひとりのために」何を示そうとされているのか、耳を澄まし、落ち着き、眼を開いてまいりましょう。すると不思議にも心の淀みが澄んでまいります。経験や学びもまずは主なる神に委ねて「イエス様ならば何をなさるのか、何を語りかけるのか」と祈りを日々重ねてまいりたく願います。