稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』10 章 28~33 節
(新共同訳 新約 18頁)
讃美= 495,21-404(213),21-24(539)
聖書=『マタイによる福音書』10 章 28~33 節
(新共同訳 新約 18頁)
讃美= 495,21-404(213),21-24(539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
以前お話しした、釜ヶ崎で地域医療に励む中で不審死を遂げられた矢島祥子医師の再捜査を求めるチラシ配布を今月14日も与えられました。祥子医師の月命日は14日ということで、国道26号線を挟んだ鶴見橋商店街では行われています。日本基督教団高崎南教会に属していた祥子医師。実際に商店街に立ちますと、いろいろな事柄が見えてまいります。朝の時間帯による人の流れの変化だけでなく、自転車を走らせていく人、食堂の準備のためにスーパーで山ほど買い物をする人、通所で福祉サービスを受けるために伝道車椅子で行き交う人、脳梗塞の副作用からか杖をついて歩く人、専門の食材店に通うベトナム系の人やインドネシア系の人、車輪つきの大きなトランクを押しながら歩く観光客、チラシをうけとってくださる方、「そんなことやってもむだだ」と意見される人など様々です。日本人は高齢の方々が多く、反対に外国籍の方々に若者が多いという今の日本の状況もまたよく分かってまいります。しかし、どのような人であっても頭を深々と下げ「よろしくお願いします」と一枚の紙を差し出す者に暴力を振るう者はおりません。今でこそ身の安全が保証されている中でチラシ配布ができる世ですが、福音書がカタコームという墓場を礼拝所として用い、読みあげられたその時代での宣教活動に対する対応はもっと暴力的で、正直に言えば「自分はキリスト者ですが」と名乗った時点でどうなるか分かったものではないという時代でもありました。その中で本日の週報に刻まれた箇所に先んじるところの『マタイによる福音書』10章26節からお読みいたしますと「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことができない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」とあります。目を留めるべきはこの箇所で人の子イエスは精神主義に立つ軍隊のような命令を弟子に伝えているのではなく、福音宣教のわざに臨んでまことに恐れるべき者は誰なのか、というところです。この意味で、本日の箇所は誤読しやすいところではあります。
ですから文中には「領主ヘロデを恐れるな」や「ローマ皇帝を恐れるな」といった言葉が記されるのではなく、むしろわたしたちの目からすればほんの小さな、日常の中ではほぼほぼ重い価値を見出さないところにこそ、神は自らの愛をそそがれるとの言葉があります。これこそが恐れるべき事柄です。つまり「二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか」との箇所。ここで記されている「二羽の雀」とは、恐らくは市場で販売されている日常の嘱託としての雀であったかと考えられます。エルサレムの神殿に献げられる生贄ではなく、人々がなにがしかの調理を加え、または調理済の仕方で販売されている雀です。1アサリオンとは現代でいう100円ほどの値打です。実に庶民的な食物となる鳥ですが、その一羽でさえも神の赦しがあればこそ大空を舞い続けると人の子イエスは語ります。それに加えて「あなたがたの髪の毛一本残らず数えられている」と教えは続きます。これは神がわたしたちを監視しているというのではなく、日々を生きる力を備えてくださっている、見守っているという文脈なのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と本日の『聖書』の箇所は終ります。「体は殺しても魂を殺すことのできない者を恐れるな」というところから、「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と続く理由が、1羽の雀のいのちとて疎かにしない神の愛に根ざしているところが分かるというものです。
わたしたちが教会のわざに励もうとするとき、何かの証しをそれぞれの賜物のなかで示そうとするとき「大したことではないのです」と語るときがあります。それはまさにその通りなのです。時には萎縮もしますし、人間関係でつい考え込んでしまう事案もあることでしょう。鶴見橋商店街でフライヤーを撒くといえば格好はよいのですが、笑顔で受け取ってくださるアフロアフリカンの女性がいる一方で、配布終了の時間になれば、人々の靴跡だらけになっているフライヤーを見つけて拾い集めます。それでもご遺族は一縷の望みをかけて来月も行われることでしょう。わたしたちもまた、この礼拝に誰が来ようともその方を受け容れるに相応しい交わりを育みたく存じます。宗教改革記念の礼拝ですが、賛否はどうあれ、「たとえ明日世界が終わりを迎えても、わたしは今日、林檎の苗を植えるだろう」ルターの言葉が胸によぎる一週間でありたいと願います。