2024年9月19日木曜日

2024年 9月22日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節 第19主日礼拝―

 時間:10時30分~
説教=「神の愛はすべての傷みをつつむ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』10 章 31~39 節
(新共同訳 新約 187 頁)

讃美= 285,21-436(515),21-27(541)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 現在よりも遙かに自然の前に人の力が小さかった古代の東アジアには「天人相関説」という考えがありました。これは政治を司る者が悪政を行なえば、自然の調和が乱れて地震や津波といった天変地異が起き、多くの犠牲者が出るから、支配者は民を飢えさせず、飢饉や疫病を蔓延させないためにも善政を敷かねばならないという内容です。やがてこの考えは迷信として退けられるにいたりますが、大震災の後、自らは安全圏にいながら「これは現代人が自然への畏敬を忘れたから起きた」などと犠牲者やご遺族の悲しみを癒そうとせず軽口を叩くメディアに較べれば少しは考えるところもある、というものです。多くのフードロスの問題がある一方で白米が一斉に小売店から消える浅ましいその有様には、科学技術の発展と人の品位は比例してはいないとの溜息が聞こえます。

 本日の『聖書』の箇所である『ヨハネによる福音書』10章には一見すると戸惑うような言葉が用いられます。34節にある人の子イエスの言葉「あなたたちの律法に『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか」との箇所です。『旧約聖書』『詩編』82編には「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行なわれる」との理解があり、この言葉が転じて「あなたたちは神々なのか。皆、いと高き方の子らなのか」との言葉が続きます。さらには『出エジプト記』4章16節ではモーセの兄アロンをして「彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代りとなる」との言葉が続きます。表面上文をきりとりますと誤解が生じますが、全体の文脈から判断しますと「神に委託された責任を授けられている人々」が示されているとも受けとめられます。

 正式な手続きを伴わずその場の高ぶりに任せて人の子イエスを殺害しようとする、エルサレムの祭司長や律法学者。「わたしはよい羊飼い」だと語った人の子イエスが「善いわざのことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と自らを正当化します。先ほど申しあげたような役目に伴う責任を棚上げする誤解に基づいて、イエスを殺害しようとする様子が分かります。しかし人の子イエスはそのような人々に向けて語りかけます。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはあり得ない」。そして「父のわざをおこなっているのであれば、わたしを信じなくても、そのわざを信じなさい」と自らを受け容れない人々に穏やかに接しているようにも聞こえるのです。

 この場でイエス・キリストは、敵愾心を露わにして襲いかかろうとする人々さえもその愛でつつみこもうとします。凶暴な態度の背後に、イエスに牙を剥く人々がこれまで受けた悲しみや痛みを見抜いて癒そうとするかのようです。本日の箇所で描かれる人の子イエスの姿は、自らを否定しようとする人々と論争しようとするのではなく、その言葉を否定せずに、自分が何者であるかを語る以外、沈黙を守りながらその場を去るという、英雄のような姿とはほど遠い救い主の姿が描かれます。

 人間には神から授かった責任がある、との言葉を上辺で捉えますとわたしたちはうろたえる場面もあります。正面から受けとめれば実に重たい響きがあります。しかしわたしたちが考える「責任」に先んじて、『詩編』82編に立ち返れば「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」との宣言があります。これは世の心ない統治者や有力者に向けた預言者の言葉としても響きます。『ヨハネによる福音書』の書き手はイエス・キリストの歴史的な人としての姿の描写に留まらず、「神の愛を体現した救い主」としての面を強調します。その愛とは他者の傷みに深く共鳴し、貧困や不正の中でなす術なくへたりこむ人々の手をとり、ともに歩もうとする姿にはっきりと示されています。人間性や人格を否定されて放置された人々の手を握って離さない愛こそ、神の愛の写し絵としてわたしたちに命じられており、わたしたちにも思わずそうせずにはおれない瞬間が訪れます。いつしかそのわざは、多くの交わりをもたらし、人々を巻きこんでまいります。

 イエス・キリストが示した神の愛はすべての傷みをつつみます。その愛はキリスト自らを手にかけようとする人々が抱えた傷みさえ癒してまいります。私怨が鎮まるのを待つのも祈りのひとつです。「迫害する者のために祈りなさい」とは筋書きのないわたしたちの身の回りから世界へと、人の悲しみを分かちあうわざに繋がります。