2022年1月27日木曜日

2022年1月30日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

 ―降誕節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 


説教=「痛みに寄り添う人、イエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書1章40~45節.
(新約聖書63頁)

讃美= 301(1.4),399,544. 

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】

 2019年12月に中国の武漢から発生した新型コロナウイルス。今年で3年目の流行期を迎え、もはやマスクを着用しての日常は常識となっております。ウイルスの株も変異を繰り返し、現在ではオミクロン株にまでいたっております。事の深刻さは今でも変わりありませんが、わたしたちの身近なところでは日々の暮らしで気をつける習慣がある程度は身についてきた印象はあります。

 ただしそれが医療従事者の精神的な負担となりますと話は変わってまいります。昨年夏ごろに流行のピークを迎えたデルタ株に臨んでは医療崩壊が生じ「応援歌やスローガンではいのちは救えない」と怒り心頭の声があり、または行く宛のないまま何時間も路上にあり続ける救急車の姿がメディアに映し出されたり。心が折れて退職する看護師の姿もありました。場合によれば家族が偏見にまでさらされながら医療現場に立ち続けた人々を誰が支えたというのでしょうか。

 本日の聖書の箇所では「重い皮膚病を患っている人」の態度を軸にしながらイエス・キリストとの出会いと癒しのわざが記されます。「重い皮膚病」とはギリシア語では「レプラ」と称し、長らく「らい病」としても訳されてきました。『旧約聖書』の『レビ記』では、皮膚病に罹患している者は誰にも近づいてはならないとありますが、その時代の感染症対策として求められたのは、道ゆく際にも「わたしはレプラの患者です」と大声で宣言しなければならない、という倣いでした。もしもこの人が『律法』を重んじるあまり人の子イエスとの出会いに逡巡しているのであれば、福音書の物語のルーツとなる出来事は起きなかったはずです。けれどもイエスは自らのもとに来ずにはおれなかったこの病人に向き合います。人の子イエスのところに来てひざまずいて願い「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」とすがる病人をイエス・キリストは「深く憐れんだ」とあります。さらにその憐れみは、単なる気持ちの問題としてではなく、「手を差し伸べてその人に触れる」わざとして現れます。このわざからさかのぼって人の子イエスの「深い憐れみ」を考えますと、この病人が罹患している病に感染するリスクをものともしない態度が窺えるというものです。言ってみれば、社会からも、その人自らも受け入れがたい弱いところ、弱点に触れてくださることにより、病人が一人背負い、苦しんできた痛みが癒されていくこととなります。肝心なことは、イエス・キリストとの出会いの結果そのような奇跡が起きたのであって、病の治療や緩和ケア―を第一の目的として病人はイエスと出会ったのではない、という点。それが「御心ならば」という言葉に集約されてまいります。人の子イエスは、この時代にありがちな、病を癒す呪術師として病人と出会ったのではありません。そのような人はどこにでもいたはずです。そうではなくて、あくまでもその時代に設けられた不文律の掟を超えて主イエスと出会いにきた病人の態度にイエス・キリストの深い憐れみが注がれた、とも言えるでしょう。

 それではわたしたちは、現在、深刻な感染症の中にありながら何ができるというのでしょうか。キリストに従うという言葉のもとでわたしたちに行えること、またできないことは確かにあります。わたしたちに求められている態度とは、感染症のもたらす不安から、まずは自由になること。それは祈りによって可能となるということです。さらには各々が病に罹患しないように備えられた役目を果たしていくことです。そして罹患され、癒された方々を温かく迎えるということです。イエス・キリストがわたしたちに感染を承知で日々の仕事に向き合えなどと仰せになるはずがありません。それはパウロが『コリントの信徒への手紙Ⅰ』6章9節以降で記す通りです。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と、各々に相応しい神の愛の証しが大切だと説いています。病人は自らの病をイエス・キリストの前にさらけ出し、その痛みをイエス・キリストは恐れずにともに担ってくださりました。諸事情により制約を課された交わりは確かにあります。けれどもわたしたちは、感染症の時代を押してなおも呼びかける主の招きに応えていきたいと願います。主に備えられた安息の時を、イエス・キリストが整えた神の秘義の中で病人は味わいました。主が整えてくださった安息日を素直に尊び、祈りを重ねていくのか。この喜びを授かる智恵を求め、キリストに出会う道をともに探してまいりましょう。


2022年1月22日土曜日

2022年1月23日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

―降誕節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 



説教=「ナザレのイエス、かまわないでくれ」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書1章21~28節
(新約聖書62ページ)

讃美=308,294,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 汚れた霊や悪霊に取りつかれるという話。字面だけ辿れば、荒唐無稽かつあり得ないと驚かれる物語ですが、マルコ・マタイ・ルカの三つの福音書では、一度ならず描かれる話です。とくに「ナザレのイエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と激しく抵抗する汚れた霊や悪霊の場合、人里から隔離された場に閉じ込められている人とともにいる場面が際立つ一方で、それは時には安息日のユダヤ教の会堂、すなわちシナゴーグにも姿を現わしている様子を福音書の書き手は記しています。教会の礼拝堂に重なる場所です。
 ところで、福音書で描かれる「悪霊」とは一体何だろうかとわたしたちは問います。実のところこれは重要な問いかけです。そもそも「霊」という言葉が示すものが何かと問わずには、わたしたちは『聖書』を誤解したりその内容に躓く場合があります。本日の箇所では「汚れた霊」として記され、悪霊とは「ダイモニオン」、さらには「大勢」を意味する「レギオン」という名前まで現われます。しかし『聖書』でいう「霊」とは、本来は人の思惑には縛られない「風」から派生して、神の力や神自らとの関係を示すのだと知れば、「汚れた霊」とは神との歪んだ関わり、あるいは関わりそのものを絶ち、他者を排除しようとすることで自分自身をも受容できなくなる自縄自縛のあり方、キリストとは別のものにひれ伏そうとするありようを示しているようにも思われます。神との歪んだ関わりや他者を排除しようとする自己中心性や頑迷固陋さ。しかしながら不思議にも、時として『聖書』でいう「汚れた霊」や「悪霊」とほぼ同じ内容の言葉をわたしたちは美徳として用いるところがあります。それはとくに受験期や人生の節目に多用される言葉にも重なります。それは意外にも「頑張る」という言葉。宗教思想家のひろさちや氏は「頑張る」の語源は「我を張る」、自分を押し通す、競争し、自分の利益を優先させることが「頑張る」ことだと定義しました。(『東洋経済オンライン』2010年12月22日版)。頑張りがなかなか成果を得られない場合、わたしたちはその責任を人に求めます。あるいは果てはこんなに頑張っているのにと他人のあり方が好き勝手に思えて腹立たしくなり、事情もわきまえずに他人のあり方を縛ろうといたします。謙ることもできないまま、これまで通りのレールに人を押さえつけて乗せていきたいと願う。これがわたしたちの人生を大きく歪ませていきます。そしてそれはユダヤ教のシナゴーグ、会堂でさえ例外ではなかったのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。シナゴーグで叫ぶ汚れた霊に取り憑かれた男をイエス・キリストはお叱りになります。すると汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行ったとあります。汚れた霊に取り憑かれた男は、それまでの態度をキリストによって一度ご破算にされ、砕かれます。注目すべきは、イエス・キリストは罵声を浴びせた男の存在を決して否定しないところです。むしろ神との歪んだ関わりがその人から遠ざかったと申せましょう。
 『創世記』の「天地創造物語」で、アダムは「目が開け、神のように善悪を知る」との誘惑のままに神との約束を破り、取って食べるなと言われた実を口にしてしまいました。「神のように」という言葉は「神とは似て非なる」、すなわち神とは異なるかりそめの善悪の基準に依り頼む態度となり、それはその後の神との対話の中で、ともに暮らすようにと備えられたアダムの最高のパートナーである女性に責任を転嫁する悲しみをもたらします。ともにあゆむあり方が引き裂かれるのです。この『旧約聖書』の悲しみと痛みが、福音書では「汚れた霊」「悪霊」という言葉で反復されます。「わたしは頑張ってきたのだ」という独り言をイエス・キリストはどのように受けとめられるのでしょうか。
 それでは「頑張り」ではないならば、果たしてイエス・キリストはわたしたちに何を求めておられるというのでしょうか。それはキリストに従い、キリストに誠実であり続けるという態度です。神の愛がもたらす喜びであり、そのためにはこれまでの生き方を神にお委ねし、新たに受けとめ直すあり方です。わたしたちは「頑張れ」と言われる代わりに、キリストとともにあゆむ愛と勇気をもとう!と絶えず祈られています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(『マタイによる福音書』11章28-30節)。イエス・キリストは休ませてあげようと語ります。喜びと感謝の応答を求めています。世にあって頑張りを求められる中、その態度よりもさらに尊いあり方があると聖書に確かめていきましょう。


2022年1月13日木曜日

2022年1月16日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第4主日礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「イエスに従ったのは漁師だった」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書1章14~20節
(新約聖書61ページ)

讃美=二編80, 二編195, 544.
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【説教要旨】
 『創世記』でよく知られている物語に「カインとアベル」という話があります。アダムとエバが授かった長男カインと次男アベル。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕すものとなります。カインは土の実りを神への献げ物として、アベルは羊の群れの中から肥えた初子をもってまいります。神はアベルとその献げ物に目を留められますが、カインにはそうしなかったとあります。結果としてカインはアベルに敵愾心を燃やして殺害に及んでしまいます。これが『旧約聖書』では初めて罪という言葉がそのものとして現われる物語となりますが、興味深いのはカインとアベルの兄弟が、個人であったのかそれともあるライフスタイルをともにする人々一般を示すのかと判断することで解き明かしの可能性が豊かになる点です。一見すると神の自分勝手な、ともすればえこひいきにさえ映るカインとアベルのお話ですが、カインが土を耕す者、アベルが羊を飼う者だというところを踏まえますと、次のような物語の可能性もまた広がります。カインは土を耕して収穫を授かり、その収穫を貯蓄して力を増すことのできる定住農耕民。すなわち環境に手を加えて収益の見通しを立てながら、やがては都市文明を築きあげていく力に富んでいる人々、アベルは羊を飼う者、すなわち牧畜や遊牧という仕方で羊を育んで暮らす人々だといたしましょう。いったいどちらの暮らしが不安定でしょうか。それは、生きものと直接関わりながら、汗を流しても貯蓄が困難な牧畜や遊牧だと言えましょう。伝染病が流行すれば家畜はたちまち死に絶え、潤いや草を求めてあちこちを彷徨い、猛獣に襲われる危険を絶えず暮らしの中で抱えています。もちろん定住農耕民もまた暮らしにリスクはつきものですが、いざという時には貯めておいた種籾で栽培をやり直したり、水路を拡張することも可能です。『創世記』で描かれる神は、弱い者に寄り添う神だという点を踏まえますと、「アベルの献げものに目を留めた」のは尤もだと気づきます。

 さて本日の箇所でイエス・キリストがガリラヤ湖の岸辺を歩きながら最初の弟子として見出すのはシモンとその兄弟アンデレです。この兄弟の職業を福音書の書き手は「漁師であった」とはっきり記します。そして主イエスは二人に声をかけます。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。この呼びかけに二人はただちに網を捨てて従います。次にゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネが舟の中で網の手入れをしている様子を見て、主イエスが呼びかけると、父ゼベダイを雇い人と一緒に残し、イエスの後についていったと記します。父親には雇い人がいますから、跡継ぎもその中から見出せる可能性があります。肝腎なのは、この場で弟子として声をかけられ直ちに応じたのは資産家ではなく、前途が見込まれる秀才でもなく、エルサレムの聖職者でもなく、ただの漁師だったというところ。福音書の舞台での漁師の生活は不安定であるだけでなく、もはや時代遅れでもありました。ガリラヤ湖で魚を獲ったところでせいぜいのところ地産地消が関の山であり、ローマ帝国の市民層の食卓を賑わすこともありません。むしろこの時代のガリラヤ湖は、支配者に都合のよい水運のルートとしての役割が重要であり、湖を暮らしの場にしている人々などは眼中にされません。魚を漁る仕事は、いつ漕ぎ出した舟が転覆するか分からないという危険を伴う割には、まことに収入の少なく不安定な職種です。湖が荒れれば天候の回復をひたすら待たねばなりません。農家からすれば「怠け者」の烙印を押される職種です。その意味で言えば福音書に描かれる漁師には失うものなど何もありませんでした。だからこそ「人を漁る漁師になれ」とイエス・キリストから呼びかけれました。ちなみにギリシア語で魚とは「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」を意味する言葉の頭文字を集めた言葉(イクトゥース)でもあります。こうして漁師はイエス・キリストの名に根ざす交わりを、聖霊による知恵を授かりつつ舵を切ります。世のただ中で信頼という名の網を投げる役目をイエス・キリストから託されます。自己申告や自己実現ではなく委託されるのです。

 わたしたちはこの箇所を味わいながら、次の言葉を思い出します。それは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という、財産に恵まれた青年が嘆きながら去っていった物語に続くイエス・キリストの言葉です。イエス・キリストはこの言葉を語った後に「人間にはできることではないが、神にはできる」と語ります。『旧約聖書』で描かれる神は、虐げられた寄る辺ない人々とともにおられる神であり、主イエスに従ったのは漁師であったとの物語。律法学者であった使徒パウロもまた、全てを投げうちキリストに従いました。確かに世は混乱に満ちてはいます。その中でイエス・キリストに招かれた人々の道と交わりを、お互いに整えてまいりましょう。

2022年1月6日木曜日

2022年1月9日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第3主日礼拝-
時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂



説教=「あなたはわたしの愛する子」
稲山聖修牧師

聖書=「マルコによる福音書」1章9~11節

讃美=291, 495(1,2,4), 544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」。これまでわたしたちはクリスマス物語を味わってまいりました。本日からはいよいよイエス・キリストの公の生涯、「公生涯」の物語が始まります。公生涯とは、少年イエスが成長し、まさしくイエス・キリストとして教えと生きざまを通して救い主の何たるかを世に現わし、神に備えられた、名もない人々と交わりを深め、その時代の権力者から憎まれ、苦難を受け、そして十字架と復活によって完成する歩みです。そしてその歩みは『新約聖書』に納められたどの福音書にもはっきり記されています。
 さて、イエスの公生涯の始まりにあって実に深い関係を見せるのが洗礼者ヨハネです。彼の行う洗礼は『新共同訳聖書』の編纂にあたり他のプロテスタント諸教派への配慮から「バプテスマ」ともルビが振られています。しかしわたしたちが気をつけたいのは、この箇所で洗礼を授かりイエスは自らキリスト教徒になった、という誤解に留まらず、洗礼者ヨハネはその時代のユダヤ教の世界で行われていた清めの洗礼を授けるに留まったという点です。「水による清めの洗礼」を理解するには『福音書』には直接描かれないながらも、洗礼者ヨハネ、そして人の子イエスにも深い影響を与えた「エッセネ派」にも一定の理解を示す必要があります。
歴史家ヨセフスによれば、エッセネ派はエルサレムの神殿を信仰の根拠とした立場にではなく、エルサレム市街の外部や荒れ野に信仰共同体を設けて『律法』の研鑽に励んでいました。そればかりでなく、洗礼者ヨハネのように水による「清め」を重んじ、富を軽蔑し、財産を共有制にしていたと申します。またエッセネ派は他のことは長老の命令なしには行わないが「人を助けること」と「憐れみを施すこと」だけは自分の裁量でできるだけでなく、乞い願われれば助けを必要とする者を助け、貧しい者に食べ物を渡すことは徹底して自主的に行ない、まだ素直で教えやすいうちに他人の子を引き取り、親族の者と見なして自らの習慣を伝えていくところにあります。他にも特徴は多々ありますが、本日は「人を助けること」「こどもを引き取ること」に関心を寄せていきます。なぜかと申しますと、その時代の神殿に暮らしていた、ヘロデ王とも面識のある人々全てが次から次へと、ギリシアの都市国家スパルタのように心身壮健なこどもばかりを授かっていたはずはないからです。スパルタでは生まれながらに軍隊の戦力に値しないこどもは城壁の外に捨てられていきました。この特徴を踏まえますと、エッセネ派がエルサレムの外部に暮らしていたという指摘は実に重要です。エルサレムの城壁の外に諸般の事情で置き去りにされたこどもたちを引き取っていたと考えられるからです。身体の特性や生まれの事情により捨て子として扱われた孤児たちがどのように生きていったのかを考えますと、エッセネ派またはこのエッセネ派と繋がりのある集団が救いの手を差し伸べる用意のあった可能性は大きいのです。まさしくエッセネ派に属する人々は、長老に教えられたという経験と並んで、この時代の都市文明の中でまことに軽く扱われるいのちを目の当たりにしたことでしょう。そのような小さないのちを粗末に扱っていく力こそが、自分たちの習慣以上に汚れており、だからこそ洗礼者ヨハネはヨルダン川の岸辺で清めの洗礼を授けていたのではないでしょうか。
それではなぜそこに人の子イエスが加わって自ら洗礼を授かったのかといえば、これからイエス・キリストが赴くところが、まさしく力を絶対視する権力という汚れに満ちたところであり、その罪深い人々の歪みを担うべく、自らもそのような歪んだ社会と深く関わりながら救い主としてのわざを振るい、神の愛のわざを証しし、自らの苦難そしていのちと引き換えにしながら、数のうちに入れられなかった人々、人々から唾を吐きかけられていた人々、排除されていた人々と交わりを深められ、病を癒やされたからです。実は洗礼者ヨハネから授かった「清めの洗礼」とは、唾を吐きかけられた人々が「自分は汚れている」という強いられた呪縛から解放し、神への讃美への道を整えるための備えであったとの見方もできます。だからこそこの箇所で神の声が響くのです。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降ってくるのを、ご覧になった。すると『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』との声が、天から聞こえた」。霊とは神の愛の力です。人には決して囚われない風の力を意味します。イエス・キリストに触れた者は、世にある様々な呪縛、妬みや苛立ちからも解放され、自由なあり方を備えられます。「あなたはわたしの愛する子」。主なる神にある自由に触れた者の、権利や義務も超えた喜びがこの一節には溢れています。

2021年12月30日木曜日

2022年1月2日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第2主日礼拝-
時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教=「神の御子の親離れ」
稲山聖修牧師

聖書=「ルカによる福音書」2章41~52節
(新約聖書104ページ)

讃美=121, 122, 544.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 今年は泉北ニュータウン教会から牧師がお招きを受けて7年を全うする年。7年とは子育ての最中にある保護者の方々からすればまことに濃密な時です。生まれたばかりの赤ちゃんは誰もが生きるか死ぬかの瀬戸際。そんな嬰児がやがてしっかりと自己表現をするようになります。さて出迎えの必要な、ランドセルを背負ったお子さんが、7年経てば今度はぐっとしっかりしたように見えてまいります。自分の世界をもってきたかなと思う反面、その振る舞いに戸惑いもいたします。本日の聖書の箇所は、波乱に満ちたその誕生から12年を経た、イエス・キリストをめぐる物語。今朝の箇所は、その時代には半ば大人と見なされる年齢に達した息子、もう若くはなくなった母マリア、そして息子とは血が繋がらないながら、神の導きに従いを流してきた父ヨセフ、家族の肖像を描いた最後の物語です。
 家族は毎年ナザレから、過越祭の折にはエルサレムに上り、神殿での祈りを決して忘れませんでした。先祖が味わったエジプトでの奴隷解放の物語に耳を傾け、アブラハムの神に祈りを献げ、献げものを納めて過ごしてまいりました。祭りの期間が終わって帰路についたときにハプニングが起きます。それは息子がエルサレムに留まる一方で、父母はそれに気づかず一日分の道を行ってしまったのです。確かにイエスはわたしたちと一緒だったはずだとの騒ぎと、あらぬ事に巻き込まれてはいないかとの不安が両親の胸に湧いてまいります。過越祭への参加は家族単位に留まらず、一族総出で行うものでした。探し回る両親。しかし息子は見つからない。マリアとヨセフでさえ、息子の姿を見失う時がまさに訪れたのです。息子の居場所を尋ねながら、一族を先に家路へと急がせ、エルサレムへと戻ってきた両親。三日を経てその両親の眼に飛びこんできたのは、境内で居並ぶ学者たちの真ん中に座り、話に耳を傾けながら問いを発する息子イエスの姿です。まるで教員からの質疑に決して動じない学生のように、律法学者の問いに対して平然と受け答えするその姿は、これまでこどもだと思ってきた有様とは全く異なっていました。イエス・キリストは大工の子であって、聖職者の子でも学者の子でもないはずです。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」。この三日間、少年イエスはどこで寝泊まりしていたのでしょうか。ひょっとしたらこの学者たちが宿を貸していたのかも知れません。空白の三日間を経て、マリアとヨセフは息子の姿の変貌に向き合わずにはおれませんでした。
 「なぜこんなことを。見なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。思わず口を突いて出た、母マリアの言葉は、いわゆる聖母マリアのそれとは全く異なります。お集まりのみなさまも、関わっているところのお子さんが突然姿を消したとなれば、それはただ事では済まされなくなります。警察に捜索願を出すかもしれません。三日間行方不明ですからメディアでも大々的に報道されるかも知れません。いずれにしてもこれは家族には大事件。しかしイエスは飄々と答えます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。この返事の中でいう「父」とは、もはやヨセフその人から離れて、父なる神を示しています。確かに両親にはこの言葉の意味は分からなかったものの、母親の胸には深く残ってまいります。神の御子の親離れが始まったときであり、わたしたちもまたそのような体験をいずれは味わいます。親の思惑通りにはいかない子の振る舞いや生き方は、時に親たるその人に大きな戸惑いを引き起こします。しかし本日の箇所はこう結ぶのです。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」。少年イエスを愛するのはもはや係累だけには留まりません。神と人、すなわちイエス・キリストは神とどのような立場の人からも愛を注がれ続けたこととなります。
 『マルコによる福音書』3章では、大勢の人が、イエスの周りに座る中、イエスの母と兄弟たちが外に立ち、人をやってイエスを呼ばせ「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らせるや、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、人々を見回しながら「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と答えるイエス・キリストの姿が描かれます。教会もまた、アブラハムの神への深い信頼をともにしながら、子離れ・親離れが成長の鍵となる時がまいります。歳月とはカレンダーで数える数ばかりを意味しません。まさに「この瞬間」という時が訪れます。2022年。泉北ニュータウン教会に神の愛の介入であるところの瞬間が訪れるときだと確信します。失敗を許さないというのではなく、失敗を互いに赦しあい、養いとなる経験へと高めていくありかたが求められます。新たな年に主の豊かな祝福を祈ります。

2021年12月23日木曜日

2021年12月26日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第1主日礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「真理はあなたたちを自由にする」
稲山聖修牧師

聖書=「マタイによる福音書」2章1~12節
(新約聖書2ページ)

讃美=119, 111(1,3,4), 545.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 ローマ帝国の支配のもと、ヘロデ王が事実上は委任統治という仕方で力を振るったユダヤの地。自らの伴侶と母、その息子たちを殺害しながらこの地位に上り詰めたのがこの人物でした。自分がその立場に就くためには、家族すら信頼しない猜疑心の強い男であると同時に、その子孫はことあるごとに福音書、そして『使徒言行録』の中に姿を見せては消えていきます。例えば。ヘロデ大王の死後ユダヤを支配した『マタイによる福音書』2章22節に登場するアルケラオス、またその兄弟にして洗礼者ヨハネの首を刎ねたアンティパス、『使徒言行録』12章で教会の迫害に手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺害し、ペトロの生命にまで手をつけようとした孫のヘロデ・アグリッパ1世。そしてさらにその息子ヘロデ・アグリッパ2世は『使徒言行録』26章でパウロの弁明を聞くこととなります。日本的な物言いをすれば、浅からぬ繋がりがイエス・キリストとヘロデ一族にはありますが、そのような身内さえも陥れて痛みを感じない野心のもと、東の方から訪れた三人の博士による問い、すなわち「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」との言葉は、ヘロデ王に唯々諾々として従う者として描かれるエルサレムの人々を不安に陥れるには充分な力を秘めていました。内輪であれば暴力と抑圧により反対勢力の封じ込めは容易かったことでしょう。しかし東方から星の光に導かれて訪れた三人の博士たちはいわば外部の者・部外者・よそ者であり、そして三人という人数からすれば、その眼にはヘロデ王のとりまきとは異なる客観的な視点が授けられ、輝いています。権謀術策を弄して手に入れた地位の虚しさと申しますものは、内部の者にはなかなかに指摘しづらくはありますが、三人の博士からすれば、大王と称する者の地位の偽りは明らか。澄み渡る眼を心に宿した三人の博士たちにはこう映ったことでしょう。則ち「かのものはユダヤ人の王ではない」という歴然とした事実であり、その言葉はヘロデ大王には耳を塞ぎたくなる、戦慄が走る響きとなった、ということです。であるからには次に打つ手とは、王位を脅かすその者をどのように捕らえるかという手はずを整えるほかありません。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれるかを問い質した」。東方の博士の指摘が、このように聖書の箇所に裏付けられた結果として、ヘロデ王は表立ってではなく、ひそかに東方の博士を集めて星の現われた時期を確かめさせ「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と欺き、いわばヘロデ大王の「工作員」として利用しようと試みます。自分の野心と権力を守るためには何でも利用してきた生き方がこの箇所では明らかになります。
 しかしこのような謀略によってイエス・キリストの誕生が踏みにじられるはずもありません。黄金・乳香・没薬を手にした博士たちは、おそらくは祖国での全てのポストを擲ち、そして家財一切をこの旅とこの宝へと変えて、飼い葉桶の主であるイエス・キリストのもとに参じたはずです。そして神はそのような三人の博士たちをヘロデ王に利用させないために「ヘロデのところへ帰るな」、つまり「もうヘロデ王と関わりを持たなくてよろしい」と宣言され、困難ではありながら、喜びに満ちた道筋を開拓するにいたりました。来る道が輝く星に導かれた道であるならば、帰る道は飼い葉桶のキリストの示された、神の愛に導かれた道です。いわばこれは最も初期に描かれたところの、キリスト者の自由を描いた物語です。それはヘロデ大王のように、自ら好き放題に振る舞おうとするあまり、却って猜疑心の沼へとはまり込み、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下のこどもたちを虐殺していく狂気へと囚われるような人間性を放棄し、関係性を全て絶っていく孤独な歩みとは全く異なる次元の道です。たとえ聖書に姿をしばしば現したとしても、ヘロデ王の係累の振る舞いはまことにおどろおどろしくあります。三人の博士の道は全くの別物です。まさにキリストにあって自由であり、やがて救い主として目覚めた主イエスに出会った人々、癒やされた人々、そしてその罪を贖われた人々の喜びと軽やかさにあふれています。虐殺されたこどもたちを悲しむ母親の叫び声すらも神の愛に触れ、十字架の苦難を示す真理へと変えられてまいります。その尊いいのち一つひとつを、主なる神はすべてにわたり存じておられます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。『ヨハネによる福音書』8章32節の言葉です。東方の博士の触れた真理は、今なおわたしたちのそばにあると、2021年最後の礼拝にあって確めてまいりましょう。

2021年12月14日火曜日

2021年12月19日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

降誕前第1主日礼拝
-クリスマス礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「いのちの光輝くクリスマス」
稲山聖修牧師

聖書=ルカによる福音書 1章39~56節
(新共同訳 新約100ページ)

讃美=103, 107, 109.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 聖書の言葉は、記された時代から残る公文書上の記録ではなく、公文書には記録されるはずもなかった人々の眼差しに則して、救い主の誕生を描いてまいります。聖書はわたしたちの手元にありますから、神の言葉はわたしたちの近くにあると申せましょう。普段、わたしたちはその言葉にどれほど真摯に向き合っていることでしょうか。
 本日のテキストは、マリアが天使ガブリエルから祝福され、御子イエス・キリストを身に宿すことを知り、男性と関係せずに身ごもることに戸惑いながらも、その出来事を受け入れていく経緯を描いてまいります。その出来事は、もし人生設計という考えがあったとするならば、その計画そのものを放棄させるほかないものです。もしも今の時代、わたしたちの親しいところの女性が同じ事情のもとに置かれたとするならば、祝福など到底できはしないでしょう。社会や人間の常識は、たとえいのちを宿すという崇高な出来事であったとしても、一定の秩序を踏まえなくては、たちまち排除の対象となります。いのちよりも秩序が優先され、規格の外にはみ出す事態があれば眉をひそめ、非常識であるとの罵声を浴びせて排除します。しかしマリアは天使ガブリエルの祝福を決して拒否しませんでした。他の誰に認められようとそうでなかろうと、マリアは厳かに、そして堂々と「お言葉どおり、この身になりますように」と応えます。その告白自体が神への深い信頼に基づいています。それは揺るぎのないものです。その後マリアは親類のエリサベトのもとを訪れユダの町へとまいります。胎に宿ったいのちがおどる中、聖霊、すなわち神の愛の力によってエリサベトは「あなたは女性の中で祝福された人。授かったいのちも祝福されている。主が仰せになったことは必ず実現する。これを信じた人は何と幸いなことか」と声高らかに伝えます。排除されるはずのいのちが神の豊かな祝福にあるという、クリスマスの原点がこの福音書の序章には流れています。『ルカによる福音書』は、イエス・キリストの系図に先んじ、規格外の事情でいのちを授かった女性が社会全般から排除されていった中で、世に言えばエリサベトの高齢の妊娠、そしてマリアの許嫁ヨセフとは異なるところでの身ごもりをまことに豊かに祝福します。イエス・キリストがわたしたちにもたらす平安を先駆けて書き記すのです。そして続くマリアの賛歌では、主の祝福につつまれた女性の大胆で力強い歌が献げらます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜び讃えます」。マリアは祭司ではありません。しかし本来はエルサレムの大祭司が献げてもおかしくない言葉でもって主なる神を讃美します。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう」。マリアの暮らした時代、古代ユダヤ教の世界では法廷での発言権は女性には一切与えられていませんでした。「身分の低いはしため」とは、字面通りにとれば女奴隷を示しますのでなおさらです。この一節をマリアの謙遜の表現と見なすのは後の世、教会がローマ帝国に認められてからとなりますからマリアの歌はそれまで人々を縛ってきた世の縄目から解き放つという意味でも、存分に大胆かつ過激です。なぜか。それは、身分・経済の格差が大きく転換する時が神の力により、まさに訪れると説くからです。この繰り返しが「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ…」と続く歌に連なります。54節から56節ではイスラエルの民に根ざしたイエス・キリストの救いが異邦人に及ぶと強調されて終わります。
 この一大事件の報せを前にして『ルカによる福音書』が献呈された役人テオフィロは何を感じたことでしょう。そして人生設計を幾度もいくたびも練り直しながら生きるわたしたちは、その節目をどのように迎えることでしょう。わたしたちはその度ごとに、宿に泊まる人々が遠ざけたであろう家畜小屋で初声をあげ、そして飼葉桶で眠る御子イエス・キリストの前に跪きたいのです。地球規模の大転換が今まさに起ころうとしています。しかしその巨大な渦巻きの中にいるわたしたちは、果たして何が起こるというのか知るよしもなく、全体像を推し量ることさえできません。さまざまな心配事や思惑の中でわたしたちの心の眼は霞んでいるのです。だからこそ、わたしたちはマリアの賛歌、マグニフィカトを何度も口ずさみたいのであり、口ずさめる場所を整えていきたいのです。それはイエス・キリストの飼い葉桶を整えるわざに重なります。そして今・この時代に世に遣わされたいのちの光、イエス・キリストの光につつまれる喜びをともしましょう。そしてその交わりを広める証しのわざの原点に立ちましょう。キリスト教の、そして教会の基本は、苦難と復活のキリストの誕生を祝うところに根ざします。メリークリスマス!